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ブックマーク / kadobun.jp (3)

  • 秀吉は人たらしでなく邪悪だった!? 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 | カドブン

    第三節 戦前・戦後の豊臣秀吉像 矢田挿雲の『太閤記』 欧州諸国に甚大な被害をもたらした第一次世界大戦後、世界的に反戦感情が広がっていく。大正十年(一九二一)七月三十日の朝日新聞夕刊に掲載された「今日の問題」は、シベリア出兵を批判する中で朝鮮出兵に言及している。すなわち「国論の後援を待たずして日が出兵し、しかして失敗したのは、豊太閤の三韓出兵と今後のシベリア出兵とである」と説く。世界的な軍縮の流れの中、豊臣秀吉の朝鮮出兵を礼賛する風潮は衰えていく。 豊臣秀吉は人気者であったので、明治以来、講談や芝居はもとより、秀吉を主人公とした小説も少なからず発表された。だが、『太閤記』を大衆文学として完成させたのは、矢田やだ挿雲そううんの『太閤記』であると言われている。 矢田挿雲の『太閤記』は、「報知新聞」の夕刊に大正十四年(一九二五)から昭和九年(一九三四)までの長期にわたって連載された豊臣秀吉の一代

    秀吉は人たらしでなく邪悪だった!? 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 | カドブン
    dlit
    dlit 2021/02/19
  • 昔は人気がなかった“暴君”信長 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 | カドブン

    第三章 織田信長――革命児だったのか? 第一節 近世の織田信長像 儒学者に批判された織田信長 現在、日で人気がある歴史上の人物と言えば、織田おだ信長のぶながと坂さかもと龍馬りようまが二大巨頭だろう。信長には残虐なイメージもつきまとうが、そうした欠点を補って余りある革新者としての魅力が広く認識されている。 ところが、江戸時代における織田信長の評価は、総合的にはむしろマイナスであった。連載で縷々るる指摘してきたように、江戸時代には儒教が基的価値観を形作っていたからである。 小瀬おぜ甫ほ庵あんの『信長記しんちようき』(一六一一年頃成立、以下『甫庵信長記』と略す)は、織田信長は知勇兼備の名将で私利私欲に走らず、人を見る目があったと評価する一方で、「武道のみを専らに用い」て文を疎おろそかにした、家臣に対して酷薄であった、家臣の諫言かんげんを受け入れなかったことを批判する。儒教における理想的政

    昔は人気がなかった“暴君”信長 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 | カドブン
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    dlit 2021/01/15
  • 「野心家・光秀」はなぜ定着しなかったのか? 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 | カドブン

    >>第二節 近代の明智光秀像 第三節 戦後の明智光秀像 〈光秀=改革者〉像の出現 戦後になると、儒教的な主従観念はさらに衰退する。戦前には「忠君愛国」を基理念とした教育が行われ、「武士道」精神も鼓吹されたが、戦後は軍国主義への反省に基づき、そうした考え方は否定されていった。 結果として、明智光秀の謀反を倫理的に評価する論調は後景に退いた。そうした風潮を受けて登場したのが、昭和三十三年(一九五八)に刊行された高柳たかやなぎ光寿みつとしの『明智光秀』である。高柳は東京大学史料編纂へんさん官、國學院大學教授などを歴任した歴史学者である。 拙著『陰謀の日中世史』でも言及したように、高柳の著書が画期的だったのは、怨恨説の根拠となっているエピソードが、全て江戸時代に著された俗書の創作であることを指摘した点にある。先述の通り、江戸時代には怨恨説が主流であり、近代においても怨恨説への疑問が提出されたも

    「野心家・光秀」はなぜ定着しなかったのか? 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 | カドブン
    dlit
    dlit 2020/12/06
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