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「野心家・光秀」はなぜ定着しなかったのか? 呉座勇一「戦国武将、虚像と実像」 | カドブン
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>>第二節 近代の明智光秀像 第三節 戦後の明智光秀像 〈光秀=改革者〉像の出現 戦後になると、儒教... >>第二節 近代の明智光秀像 第三節 戦後の明智光秀像 〈光秀=改革者〉像の出現 戦後になると、儒教的な主従観念はさらに衰退する。戦前には「忠君愛国」を基本理念とした教育が行われ、「武士道」精神も鼓吹されたが、戦後は軍国主義への反省に基づき、そうした考え方は否定されていった。 結果として、明智光秀の謀反を倫理的に評価する論調は後景に退いた。そうした風潮を受けて登場したのが、昭和三十三年(一九五八)に刊行された高柳たかやなぎ光寿みつとしの『明智光秀』である。高柳は東京大学史料編纂へんさん官、國學院大學教授などを歴任した歴史学者である。 拙著『陰謀の日本中世史』でも言及したように、高柳の著書が画期的だったのは、怨恨説の根拠となっているエピソードが、全て江戸時代に著された俗書の創作であることを指摘した点にある。先述の通り、江戸時代には怨恨説が主流であり、近代においても怨恨説への疑問が提出されたも