2012年5月5日のブックマーク (8件)

  • 笑いの難しさ - Freezing Point

    愛とユーモアの社会運動論―末期資主義を生きるために 作者: 渡邊太出版社/メーカー: 北大路書房発売日: 2012/02/01メディア: 単行購入: 5人 クリック: 106回この商品を含むブログ (8件) を見る 著者からご恵投いただき、読み始めたら、一日でほとんど読んでしまった。 すごく勉強されていて、ご自身がイタリアや韓国に足を運んでいるし、 現在の左派にどんな議論や活動があるかを知るには、ちょうどよい読み物だと思う。 第7章から読み始めることを、強くお勧めしたい。著者の「なりゆき」のスケッチであり、きっと書も、その延長上にあるのだと思う。 《場所》を支える、という氏の活動に、私も恩恵を得ている。 書からは、《労働》を話題にしてよいのだ、という元気をいただいた。と同時に、反論したいことがたくさんある。また議論をご一緒できることを期待しつつ、以下ではいくつか、メモ的に記しておく

    笑いの難しさ - Freezing Point
  • プラグマティスト廣松(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again

    「廣松哲学と現代中国」http://d.hatena.ne.jp/shin422/20120426/1335460767 廣松渉*1の中国における受容について述べられている。蓮實重彦氏まで、それについてコメントしているとは知らなかった。先ず中国における廣松といっても、それは南京大学を中心としたけっこうローカルな現象なのではないかと思う。屋で膝の高さまで平積みされている『水伝』には当然及ばない。 さて廣松渉と「プラグマティズム」について述べた最後の部分は面白かった; 細かい論証は避けるが、実のところ廣松哲学とプラグマティズムは親和性がある。廣松が解明する世界の共同主観的存在構造は、何も認識の真理性の保証を共同主観化された認識論的主観に帰する議論でもなんでもない。むしろその不可能性を立論するものに他ならなかった。<通用性>と<妥当性>との違いは、何ら真理への階梯の段を意味するものでもない。し

    プラグマティスト廣松(メモ) - Living, Loving, Thinking, Again
  • 大和田さんの「いまの20歳前後の学生の間での「ブルース」の不人気ぶりにはちょっと驚く。みんなカントリーの方が興味あるんだよなあ。」から始まったブルースに関するあれこれ

    大和田先生の「今年は慶応と法政でアメリカのポピュラー音楽史を講義しているのだが、いまの20歳前後の学生の間での「ブルース」の不人気ぶりにはちょっと驚く。みんなカントリーの方が興味あるんだよなあ。」から始まったブルースに関するあれこれ ※個人的なメモのつもりでまとめたので勝手に色々追加したりします。

    大和田さんの「いまの20歳前後の学生の間での「ブルース」の不人気ぶりにはちょっと驚く。みんなカントリーの方が興味あるんだよなあ。」から始まったブルースに関するあれこれ
  • 「我が事」として何かを「社会を変えたい」と思うとき - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)

    大西さんから、私のフェアトレードについての下の記事*1にコメントをいただいた。 大西宏「やまもといちろう氏は別にフェアトレードを批判したのではない(メモ)」 http://ohnishi.livedoor.biz/archives/51327750.html 大西さんは、これまでの議論の流れを追った上で、以下のように書く。 小松原織香さんが、コーヒーにまつわる問題点買い手としての消費者の意識の問題に重きをおいていますが、ちょっと認識のズレというか、小松原が「我が事」としてどうするんだとうということが伝わってきません。 これは、そんな話ではない。「コーヒー一杯買う時に、消費者として、誰から何を買うことで、何が起きるのかを考えよう」という話が、この図から得られる示唆である。それが堀江さんの「俺はこういう構造に気付くまで多くの時間を要してしまったけれど、気が付いてからは違う目で世界を見ることがで

    「我が事」として何かを「社会を変えたい」と思うとき - キリンが逆立ちしたピアス(ブログ版)
    dohenkutsu
    dohenkutsu 2012/05/05
    たしか漱石がなにかの本で、「日本からいつか偽善者がいなくなって露悪家ばかりになるだろう」的なことを書いていた気がするけど、ブコメとかを見るとその預言どおりになっていて、ちょっと可笑しくなってしまった
  • ニュース逆さ読み:東浩紀の奇妙な憲法改正試案 

    哲学者・作家の肩書を持つ東浩紀がこの夏、憲法改正試案を発表するという。公表を前にきょうの朝日新聞(5月1日付朝刊)でインタビューに答えている。それを読むと、「日を尊重しろ」だの「天皇は元首」だの、奇妙なことをうたった改正試案であることがわかる。 東はなぜいま憲法改正なのかを問われ、3.11後の政府の失政を目の当たりにして「もやは政権を代えている場合ではない。もっと基層の部分を変えなければならないことが明らかになった」と語る。2年半前の政権交代ではほとんど何も変わらなかったから、というのがその理由だ。だが、基層を変えるにせよ、表層を変えるにせよ、まず政権を代えることからしか始まらない。震災が起ころうが、民主党が腰砕けになろうが、それは変わらない。東の言葉を借りれば、いまこそ「政権を代えている場合」なのだ。それが民主党の原点回帰という形を取るのか、政界再編という経路をたどるかはわからないにし

  • 自分は読まないくせに「読んでから批判しろ」と言う人 - apesnotmonkeysの日記

    昨日のエントリでちょこっと言及した人が、例によってパンチ的な「反論」をしています。 「批判が現れているようだが」というところにご注目ください。この人は、以前に南京事件を巡る発言を批判された際にも、「ぼくは最近、2ちゃんねるもはてなブックマークもなにも見ていません」と称して、批判に具体的に向き合うことを回避していました。その時にせよ今回にせよ当に読んでいないのか、それとも強がって読んでないフリをしているのかは知りませんが、人が「読んでない」と表明している以上読んでないものとして扱っても文句はないはずです。自分は批判者の見解を「一字も読んでいないのに」批判してよいが、お前らは「とりあえず条文を待ったらどうか」、だそうですよ。しかし批判している側は朝日新聞に掲載されたインタビューを読んでるわけで、どちらがより誠実であるかは自明というものでしょう。 ところで、くだんのインタビュー中に次のよう

    自分は読まないくせに「読んでから批判しろ」と言う人 - apesnotmonkeysの日記
    dohenkutsu
    dohenkutsu 2012/05/05
    こちらの記事(http://goo.gl/PLcvA)などを読むと、東はトンデモ文化人の仲間入りをしてしまったように思える。
  • 「憲法改正」by 東 - Living, Loving, Thinking, Again

    最近ルソーの「一般意志」についてメモ書きしたが*1、その際に参照したエントリー*2はそもそも東浩紀の「一般意志2.0」に対するコメンタリーであった。そのときは東浩紀の言説には言及しなかった。彼の言説について、ほかにもコメントしたいネタはあるのだけれど*3、ちょっと吃驚! の動向を知ったので、そちらの方をメモしておく。 中村礼治「東浩紀の奇妙な憲法改正試案」*4から; 哲学者・作家の肩書を持つ東浩紀がこの夏、憲法改正試案を発表するという。公表を前にきょうの朝日新聞009(5月1日付朝刊)でインタビューに答えている。それを読むと、「日を尊重しろ」だの「天皇は元首」だの、奇妙なことをうたった改正試案であることがわかる。 東はなぜいま憲法改正なのかを問われ、3.11後の政府の失政を目の当たりにして「もやは政権を代えている場合ではない。もっと基層の部分を変えなければならないことが明らかになった」と

    dohenkutsu
    dohenkutsu 2012/05/05
    ”東は再度田村理『国家は僕らをまもらない』とかを読んで立憲主義の復習をすべきだろう” ごもっとも。
  • 外村大『朝鮮人強制連行』(岩波新書) 9点 : 山下ゆの新書ランキング Blogスタイル第2期

    4月30 外村大『朝鮮人強制連行』(岩波新書) 9点 カテゴリ:歴史・宗教9点 この手の日の加害責任について書かれたでは、「左」の人がその中でも特に悲惨な目にあった人々の証言を用いて日の国家と国民の加害者としての責任を告発し、一方で「右」の人々はうまくいったいくつかのケースを出してきて「そんな悲惨な例だけではない」と否定する展開になりがちです。 しかし、このはそのどちらでもなアプローチになっています。 著者は、朝鮮人の強制連行について、日の残した公文書を中心にその実態を丹念に追い、そこに日の植民地支配と戦前・戦中の日社会の矛盾を見出しています。 例えば、朝鮮人の強制連行を否定する議論として用いられるものに、朝鮮人の日への「密航」の存在があります(著者が46pで指摘するように日帝国臣民である朝鮮の人びとが日に来ることを「密航」とするのは来ならばおかしい)。 「朝鮮から日

    dohenkutsu
    dohenkutsu 2012/05/05
    戦前も戦後(現在)も、日本企業のブラックぶりはたいして変わっていないということ