2009年9月30日のブックマーク (2件)

  • BLOGOS サービス終了のお知らせ

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    e-namazu
    e-namazu 2009/09/30
    親が子供を売る。親の商売「道具」という自己認識ができる。
  • 多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー

    ヤマト人は にげる。「民族は つくられた概念で、実体は ない」と相対化する。おきなわ人に「ヤマト人」と よばれても、アイヌ人に「和人」と よばれても、そんな実感はないし、民族意識など もっていないと いえてしまう。 国家において、「民族」を 意識させられるのは、いつもマイノリティである。差別制度が、日常的な差別が、マイノリティに「民族」を 意識させるのだ。 それを 指摘し、多数派日人に「ヤマト人」や「和人」という名前を つけてみても、「名前のない多数派」は にげてしまう。「民族意識など、幻想にすぎず、そして わたしは「ナショナリズムに反対する」」のだと。そんな態度が良心的だと、なぜ おもえてしまうのか。 多数派は、名前を つける側である。そして、多数派は名前を もたない。多数派は、名前を つけられるのを いやがる。自分たちは、だれかにたいして、くりかえし やっていることなのにだ。 民族は

    多数派には名前がない(ヤマト人=和人として、その責任を ひきうける)。 - hituziのブログじゃがー
    e-namazu
    e-namazu 2009/09/30
    「だれかの不自由に依存した自由。それが、民族の名前のない「日本人」の自由だ。」