ブックマーク / thoughts.asablo.jp (4)

  • 8月15日: 気がつけば82歳

    全国戦没者追悼式のテレビ中継は15分間だった。 67年に体験した私だがその日の記憶は修正されているようだと気が付いたのは、昨日古い書類を探していて同じ箱に入っていた日記を読み返した時だ。 母の影響で物心ついたときから教会に親しみ、神様の前では人間皆平等と信じ、欧米の童話やシャーリー・テンプルが身近だった。 新聞の一面に鬼畜米英と書かれていてもそうは思えなかった。 進学した学校もアメリカに縁の深い歴史が有った。 それなのに昭和20年八月十六日の日記には、 敗戦の口惜しさ、自分の不甲斐なさ、哀しみと反省の言葉が乱れていた。 一瞬にして日人の誇りをとりさられた痛恨の涙。 大御心の有り難さに感泣した とも。 今にみていろ 働くんだ 勉強するのだ、 学校に提出する日記ではないから当にそう思ったのだろう。 ひねくれた解釈をすれば18歳の女の子はそう思わなければ恥ずかしいと思ったかも。 前日の八月十

    emoyan
    emoyan 2012/08/16
    『8月15日: 気がつけば82歳』
  • 戦前の父親像: 気がつけば82歳

    昭和初期を舞台にしたテレビドラマを観ていると父親像に違和感を覚えることが多い。 家庭で絶対の権力と家長としての威厳を示す姿にそういう思い出を持ってる人も多いのかな。 私の育った町は会社勤めの方が多くて母親は家庭を守り育児に専念する役割分担がはっきりしていた。 選挙権は男性だけにしかなく女性は社会的に認められていなかった。 我が家とか周囲の家を思い返すと一応一家の代表として夫を立てていたけれども家庭や育児に付いては主導権を握っているように見えた。 私は父に叱られた覚えが無い。 女学校2年のころに洗礼を受けたいと言ったときに 「大人になるまで待たほうがいいと思うよ」 と言われて不服だったが4〜5年して考えは変った。 医者になりたいと言ったときも、まだ女医の道は厳しいからと反対されて、どうしてもという意志も無かったからあっさり諦めた。 私の性格をよく判っていたなと思う。 姉が上野の美術学校に行

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    emoyan 2012/04/11
    『戦前の父親像: 気がつけば82歳』
  • 昭和という時代: 気がつけば82歳

    「久世光彦の世界」を讀んでいると副題に「昭和の幻影」とあるだけに昭和前半の景色がまざまざと浮かび上がってくる。 記憶の底に沈んでいた作家の名前や小説の題名が蘇ってきた。 その懐かしい名の方々も多く亡くなられている。 久世光彦さんは昭和十年生まれで私は昭和二年生まれだから時代に微妙な差はあるが育った家庭環境は似ているところも多いと感じた。 私の昭和初期の風景は明るい光に溢れている。 これは阪神間の風土のせいだろう。 浜辺も舗装されていない道も運動場も白っぽいベージュ色に満ちていた。 住宅用に開発された地は歴史が浅いだけに和洋折衷の家が多く、純洋館も珍しくなかった。 フランスパンや珈琲やケーキも西洋料理も日常に馴染んで来ていたけれど、お茶の間の情景は「寺内貫太郎・・」の世界だった。 長火鉢に折り畳める卓袱台、大きな柱時計は毎日ゼンマイを巻かなければ止まってしまう。 茶箪笥の上のラジオはまだ新し

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    emoyan 2012/03/10
    『昭和という時代: 気がつけば82歳』
  • 12月8日: 気がつけば82歳

    12月8日が巡って来た。 真珠湾攻撃、日米開戦のあの日から70年が経つ。 あの日のことは一昨年のブログに書いた以上のことは覚えていない。 ただラジオを聞いては高揚しながらも不安も渦巻いていた。 親の庇護の元にいてその後も戦災に直接遇わなかった私にあの戦争の悲惨さを語る資格は無いかも知れない。 去年の今日は病院のベッドでブログどころではなかった。 一昨年のを開いて懐かしかったので大部分を付記する。 ===2009.12.8のブログより=== 太平洋戦争始まる。 女学校2年生になっていた私は朝2階から降りた途端にお茶の間のラジオから上ずったアナウンサーの声が飛び込んだ。 米国と戦闘状態に入った、真珠湾を攻撃して何隻もの軍艦を撃沈した事を正確な言葉は忘れたが何度も繰り返し、その間に軍歌が流れた。 父は複雑な表情で「まさかなあ この間ゴルフの仲間と今年中に日米開戦有るかを賭けて、無いと思ったから有

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    emoyan 2011/12/08
    『12月8日: 気がつけば82歳』
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