ブックマーク / kakuzato.hatenablog.com (53)

  • 眠気でアクビが出るんじゃない - 書くザトウクジラ

    退屈だからアクビが出るんだ。眠気がありまくっても、今まさにやりたいことに熱中しているのなら、不思議とアクビは出てこないものだ。 仕事中のアクビは、眠気もちょっとあるだろうけど、やっぱり退屈だからという要因のほうが大きいと思う。 アクビが出たら、惨めになる僕。最近の生活習慣を悔やんだり、寝る前のスマホを嘆いたり。アクビは、自己肯定感を下げたりもする、侮れない魔物、人類共通の敵なのである。 そんなとき、これを言い聞かせればいい。 眠気でアクビが出てるんじゃない。 退屈だからアクビが出てるんだ。 私はわるくない。

    眠気でアクビが出るんじゃない - 書くザトウクジラ
  • 人生には幸も不幸もない - 書くザトウクジラ

    そこにあるのは、人と比較して幸せ/不幸せというあくまで相対的なものである。絶対的な幸せなどない。幸せはそれ単体では存在しないからだ。どうだろう、なかなか想像以上に厄介だろう。自分以外の他者がいなければ成り立たないもの、それが幸せである。だから、人は他人に優しくできるのかもしれない。他者を大事にすることは、自分を大事にすることなのだ。どうだろうか。何が起きようともあるがままに受け入れよう、諦めではない、勇気が湧いてこないだろうか。大抵の場合、幸せに浸る間もなく、ただ日々をすり抜けていく。さらに、時間がある程度経過してから「あれは、今思えば幸せだったのだ」と気づくことがある。幸せはちょうど時間差でやってくることもあるから余計に厄介である。

    人生には幸も不幸もない - 書くザトウクジラ
  • 空を見上げるだけで大抵の悩みは解決する - 書くザトウクジラ

    はーっ、今日も疲れたなあという時。たまらず好きな音楽を聴く。世知辛さを感じたときに最初に聞く曲はミスチルのHANABIだ。すでにイントロから、鉛のような心を少しずつ溶かしていってくれる。最高の一曲だ。しかし、素晴らしい音楽の力をもってしても、無駄だということが分かったとき。そこで"空"の出番だ。空を見上げるのに"1秒"すらかからない。首をわずかに上下させるだけで、海岸の砂粒よりも多いとされる満天の星々がみえる。広大無辺な宇宙において、たくさんの星が、生まれては消えてを今現在今この瞬間も繰り返している。この地球における一つ一つの小さな出来事も、そのような規格外の空間の中の出来事なのだと捉えられる。そして、そもそも物事に大小などなく、そこにあるのは物事を捉える感じ方の大小なのだ。いずれにしても、身近な出来事はしょせん宇宙の出来事の一部なのだと捉えると、いい意味で気持ちが楽になり、なんだか領発

    空を見上げるだけで大抵の悩みは解決する - 書くザトウクジラ
  • 人生とは今日一日のことである - 書くザトウクジラ

    こんな昔の言葉を今思い出した。一日を大事にできない人は、人生をも大事にできない。朝これを思い出してもいいし、夜に思い出してもいい。一日を目一杯生きようとする姿勢は、しぜんと人生全体を心の底から謳歌することにつながるであろう。ごめんなさい、これはあとづけです。この言葉に関しては深く考えなくても、勝手に胸に突き刺さってくる。人生が永遠だと思ったか?一日が一瞬だと思ったか?そんなわけあるまい!とこの言葉は嘲笑っているかのようだ。音を言うと、一日が一瞬ではないし、人生が永遠でもない。だが、少しよそ見をするとすぐに足元を掬われ、深い穴に突き落とされる、そんな恐怖感もこの言葉からは感じる。人生とは今日一日のことである、一月に一回は思い出したい言葉だ。大変恐ろしいけども。なんてったって、自分の今置かれている立場によって、汲み取る意味がまったく変わってくる言葉でもあるからである。

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  • 嫌われているという自覚のない残念な人 - 書くザトウクジラ

    嫌いな人、とうぜんいますよね。 なぜかどの職場にもいます。 最初はそうは思ってなかった人も、突然沸いて出てくることもあります。 でも最近気づいたことがあります。僕と年の離れた人に嫌いな人が多くて、同年代のアラサーさんたちにはむしろ好きな人が多いことに気づきました。 たぶんそれは目上の人が高圧的なのに対して、同年代の人は比較的温厚だからなのだと思います。それだけじゃなく、常識も同年代の人のほうが持ち合わせていると感じるときがあります。 目上の人こそ、思慮分別が足りてなく、思いやりがないなぁと思ってしまいます。 最初からこっちの責任だと決めつけてくる。それでいて自分の失敗には平気で目をつむる。自分がいちばん可愛いと思ってる。心だけ成長していなくて随分幼稚です。 もう、僕は仕事をしたいだけなんです! はぁ、スッキリした!

    嫌われているという自覚のない残念な人 - 書くザトウクジラ
  • いつも笑ってくれる人がそばにいるということ - 書くザトウクジラ

    かれこれ8年以上そばにいる人がいる。とても大事な人だ、と言葉に表してもどこか安っぽい。大事なことはかえって言葉にしないほうがいい。ムーミンも言っていたことだ。しかし、そこに間違いなくある事実というのは、長年連れ添ってくれているということ。その事実は誰も否定しようがない。そしてたとえ誰かが否定してみたところでなんの効力もない。当時言っていたことに対し、反応をくれる又は笑ってくれる。そして今も変わらず笑ってくれる。何よりすごいことだ。まるで魔法の合言葉のように。それはどれほど月日が流れていようと効果が薄れることはない。相性がいい、と言えばそれまでになってしまうし、やはりここでもムーミンの言葉を思い出さないわけにいかない。奇跡とも違う、運命とも違う、心のもやもやが。言葉にならないものこそ美しいのだと思う。言葉によって魔法の封印は解かれてしまう。温かいものをただ胸に抱きしめる。それでいいんだと思う

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  • ルーティーンをぶっ壊す - 書くザトウクジラ

    最近、ルーティンをぶっ壊すことにハマっている。たとえば、帰り道のルート変更であったり。いつもと違う銘柄のヨーグルトを買ってみたり。いつもクレカで支払うところを現金で支払ってみたり。 細かにルーティンをぶっ壊すことは、なかなかの達成感があることに気づいた。逆に、いかに日々がルーティンに支配されているかが分かった。脳は一度決まった最適解を見つけると、いちいち働かせることをしない。 一度乗り方を覚えた自転車を毎回忘れて毎回思い出すのは大変なのだ。脳のどこかの部位がそれを担っているらしい。 いわば、ドラクエでいうMPを消費しない、格闘家の格闘技のようなものだ。MPを消費しないで良いのならそりゃそちらを選択するというわけだ。 だから、僕のやってることは脳をいちから叩き直すことに等しい。甘やかさないぞ。だって、まだまだ長年働いてもらわにゃいかんので。

    ルーティーンをぶっ壊す - 書くザトウクジラ
  • 本能が頑張ってくれるさ - 書くザトウクジラ

    心配で心配で何も手につかないとき 実力をすべて発揮しなければならない日が近いとき 頭で考えなくとも、結局番になれば、すべて能が頑張ってくれるさ という強い気持ちをもつこと ひとつの頭で答えが出ないのは当たり前 かといって、ふたつの頭で考える気までは起きない そういう横着なところも当たり前 一旦すべて忘れよう きっと、能がすべて解決してくれるさ

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  • 幸せだなあ - 書くザトウクジラ

    我ながら、最強の5文字だと思う 「幸せ」という人生の絶対目的に対し、語尾の「だなぁ」でそれとなく詠嘆している感じ。しかし同時に全身で受け止めている感じ。 手帳に色々書き込むより、この5文字を書くだけですべて救われる。他のことがどうでも良くなる。 そして、何より嬉しいのが、こんなステキな一瞬の言葉を思い浮かんだときが一番嬉しい。 明日はもっと最強な言葉を生み出したいな。 それはそのまま「いかによく生きるか」という心の在り方にもなる。

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  • たかが仕事で脳を使い切るな - 書くザトウクジラ

    たかが仕事で100%自分を使い切る人がいる。そういう人はたいてい帰宅しても無気力であり、料理を作る気など当然あるはずもなく、人間にとって一番簡単な摂取と排泄を能のままシているだけなのだ。 それは心底もったいない。ほんとうに輝けるのはアフターファイブだというのに。この時間は、神様から与えられた7時間だというのに。 だから仕事はあえて余力を残しておきたい。 もうひと踏ん張りのところで、仕事を切り上げるのが最もいい塩梅だと思う。 それ、ほんとに今日やらないといけない仕事ですか? 脳の休息より、今のそれを優先しますか? たかだか仕事で消耗され尽くさない方法を常に模索している。

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  • だれかに親切すると気持ちいい - 書くザトウクジラ

    ふだんから仕事中でもプライベートでも、人知れず床に落ちているゴミを拾ったりはしていた。しかしそれはある種の自己満足であった。だれかに感謝されるわけではなく、まただれかに感謝されたいと望んでもいなかった。 だけど今日のラーメン屋でそれは見事に打ち砕かれた。明確に「だれかに感謝される親切」をしてみた。それはほんとうに久しぶりでどこか懐かしい感じすらした。 入店して、一番入口に近い席に座った。そこは長めのカウンターで団体客が座るための座席でもあった。もちろん最初その席に実際に座っていたのは全員一人客であった。しかし、後続の二人組の男性客が暖簾から顔を覗かせながら、店内を確認していた。それを察知した店主は、席が離れてしまうが一人ずつなら座れる旨を説明していた。 私はそれに気づき、なんだか背中がむずかゆい気持ちになりながら、スッと隣りの短いカウンターのレーンに席を移動した。それを察知した店主が、湯切

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  • ランニングジムに通って半年が経った - 書くザトウクジラ

    明日から仕事がんばれるぞ!とかじゃなく、もっと言葉にならない感じで能的に俺はやれるぞ!という言葉にできない万能感が生まれる。それがランニング。 また、効能は心身の鍛錬にとどまらず、ランニングは音楽との距離をもっと密にしてくれる。今日はどんな音楽を聴こうかと考える時間もまた楽しい。ちなみに今日はスピッツの名盤「フェイクファー」を通しで聴いていた。苦しい思いをしながら聴く草野さんの優しい歌声と歌詞に思わず涙しそうになる。 あと好きな時間といえば、やっぱり走り終えたときに自分の満足げな表情を見るときだ。鏡越しの向こうには、走る前よりどこか頼もしい新たな自分がいる。苦労したあとは人間だれしもナルシストになるものなのだ。 さらに体中の老廃物が汗として、二酸化炭素として外に排出されていく感じも大好きだ。日常におけるお手軽ドーピングは伊達じゃない。グッドライフワーク。今の私なら恥ずかしげもなく言える。

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  • 書いてるときだけ無心でいられる - 書くザトウクジラ

    マルチタスクが当たり前の世の中 欲しい物、やりたい事が溢れる世の中 正直いって、書いてる時だけ無心でいられる 誰かと話しながら「書く」のはむずかしい 何かを観ながら「書く」のはむずかしい 何かを聴きながら、なんとか「書く」ことができる 書くときに唯一ゆるされたマルチタスクが音楽だと思う。おそらく音楽を聴くことは脳にとって低キャパシティ。 それだけ脳の作業領域を限定される「書くこと」は脳にとっての大仕事なのだ。 何かを「書き写す」のと違って、何か新しいことを「書き下ろす」ことは当にむずかしい。 ただ日々の雑感を書き下ろすだけでも慣れていなければ大変なことなのに、小説を書いたり、論文を書いたりする人間は当に選ばれし人間だと思う。一生縁のない究極世界だと思う。 だけど、書くってそういうことじゃない。 人と比べて優劣をつけたりすることじゃない。 徹底的に利己的でいい。 ある1つの言葉を繰り返し

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  • 今日が最後の休みと思って過ごす - 書くザトウクジラ

    今日がお盆休み最後だ(と言い聞かせる) あしたから仕事だ(と言い聞かせる) 自分を騙しているようで、騙してない、ちょっと楽しい時間。 実は私の場合、ほんとうの仕事始めはあさって17日なのだ。 というのも、これは、休み期間+1日という分け方をすると、最後の1日をとても大事に過ごせるという私の長年の持論である。 神様から与えられた+1 寝坊してもオッケーだし、前夜にアラームをセットする必要もなし。手をつけられなかったゲームを急いでやる必要もない。 この+1という考え方が、時間を大事にするという結果を生むのだと強く信じている。私のこの持論はこの先も変わることはないだろう。 このマインドなら、休日最終日を迎えたとしてもまったく怖くない。

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  • 「完全に休んだ」という記憶を残すことが大切だ - 書くザトウクジラ

    みなさん、お盆休み、ほんとうの意味で休めていますでしょうか? たとえば。 を読むの好きだし、を読んでいる。 ゲームするの好きだし、ゲームばかりしている。 「好きなことをする」のが目的の人なら、それでなんら問題はない。しかし、もしも、盆休みの目的が「休息」にあるのなら、色々と手を出さないほうがいい。徹底的に何もしないということに苦心すべきなのだ。 何よりも、あのとき、しっかり休んだなあという記憶を植えつけることが重要なのだ。過去をふり返る際の未来の時点で、少しでも何事かが頭をよぎれば、うまく休めていなかったという真実をより強固なものにしてしまうのだ。 過去とは、一定の真実ではなく、捉え方によって変化するものだ。過去を良くすることは、未来を良くすることでもある。 ところで僕は今ブログ更新してるじゃん、って? まあこれに関しては呼吸みたいなものなので。

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  • 1年前に何をしていたか振り返る - 書くザトウクジラ

    夏季休暇の今。おのずと時間を持て余すことが増える。やりたいことなど既にほどほどに日々消化していたからだ。しかしその半ば諦めの境地であっても、昨年の手帳を見れば、必ずと言っていいほど新しい発見がある。昨年予定が詰まっていたなら、今年ももっと何か為さねばと意気込むことだろう。予定が入ってなかったとしても、それはそれで安心して今年も日々を生きればいいと思えるだろう。過去の手帳を振り返ることで得られる効果は2つ。モチベアップか精神安定かのいずれかなのだ。つまり、振り返らない手はないということだ。時間がありあまる今こそ、過去の自分の記録を見るベストタイミングなのである。

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  • コントロールできないものは仕方ない - 書くザトウクジラ

    コントロールできないものを列挙してみる。たとえば、上司の機嫌、明日の天気、自分の体調といったもの。他にももっと無限にある。自分の欲や睡眠欲なんかもコントロールが難しい。私の場合は、解決できない問題が生じれば、とりあえずは頭のなかでそれを3周くらい考える。これは昔からの習慣だから仕方ない。解決できないという結論を、頭のなかでもう一度展開しないと気が済まないのだ。脳内立証に成功して初めて私は心の寝床につくことができる。 当の理想は、仏や坊さんのように「ふりまわされない生き方」というのをイメージしている。日でも定期的にヒットするのあれだ。でも、私は仏でも坊さんでもないので、結局現状の方法を継続していくことしかできない。今の形は理想形ではないのだけれども、少なくとも、物心ついてからずっと付き合ってきた「自分なりのやり方」なのだ。自分の頭で検証し直すということ。 だからせめて、なんでも表現し

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  • 自分のブログが読まれるという奇跡 - 書くザトウクジラ

    この競争の激しい時代に、楽しいアプリ、楽しいコンテンツが山のようにある時代に。あえてブログというコンテンツを選択し、数あるブログの中から自分のブログを発見してくれて、読者となってもらい、定期的に読んでもらえることのありがたみよ。どれほど奇跡的で天文学的な確率なのだろう。今日は3人しか読んでくれなかったという日も、3人も読んでくれた、という考え方にたちまち変わるだろう。無いものより、今ここに在るものの尊さが沁みる。すべて奇跡で成り立っているとしか言いようがない。それがこの時代に自分の文章を読んでもらえるという出来事の凄まじさである。これからも日常の一部として、文章を打ち込んでいきたい。いつまでもブログとともに。まさに奇跡の軌跡がブログなのだ。

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  • 明日ビジネスホテルに泊まります - 書くザトウクジラ

    あなたは4000円の理想の使い方を知っていますか? 明日、僕はビジネスホテルに泊まります。 べ物とかはあえて持っていきません。理想は、家の近くのスーパーでお菓子やらカップ麺やら買って行ったほうがもちろん経済的です。出費が抑えられます。しかし、そういうことではないのです。" プチ旅感 "を味わうために、現地のコンビニでそのときべたいものを買って、宿泊部屋に持ち帰るのが最高の楽しみなのです。 さらに言えば、いつもと違う場所に宿泊したときの朝が僕は大好きです。具体的にいうと、朝起きたとき「あっ知らない部屋にいる」という感覚がたまらなく好きです。ホテルのエントランスから外出するときの特別感も最高です。 ビジホ宿泊は日常を非日常に変えてくれる一番お手軽な方法だと思います。風呂は銭湯にしようか、晩飯は出前をとろうか、夜外に出て星を見に行こうか。すべての日常行動に新たな選択肢が与えられるのです。 ホ

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  • その日仕事 - 書くザトウクジラ

    その日仕事とは、言うなれば、その日暮らしの仕事版である。その日暮らしのような、いきあたりばったりで仕事をする人が一定数存在する。 人は一生懸命「今」を生きているのかもしれない。しかし、周囲が「今」を生きてない場合は孤立するだけだ。周囲はあなたより一歩も二歩も早い「未来」に生きているのだ。孤立するのは至極当然である。そもそも時間の流れがちがう。時間の進み方がちがう。 急なお願いごとを平気でする。足を引っ張っているという自覚がない。自分でつくったツケ・シワヨセを他人へ丸投げする。 うむ、やはり、その日仕事をする人は少ない方がよい。

    その日仕事 - 書くザトウクジラ