「琉球で一番の人物になれ」という思いから、「球一」と名付けられた徳田球一は、1922年(大正11年)、非合法の日本共産党の結成に参加しています。 1928年(昭和3年)、衆議院選挙に立候補するものの、直後に治安維持法違反で検挙され、その後、18年間も投獄されていました。 戦後の1945年(昭和20年)10月に出獄した徳田球一が見たものは、信じられないほどの国土の荒廃ぶりでした。特に治水が大きく破壊されたことで、国民生活が重大な危機に瀕していると感じます。 徳田の考えは次のようなものです。 「治水の不全により、台風の襲来とともに洪水で山が崩れ、田畑は潰され、家も流され、交通も麻痺する。人民の生活は常に脅かされ、もし食糧危機が起きると、外国に哀れみを乞わなければならないから、日本民族の独立が危うくなる。 それだけではない。電気も危なくなっているし、港湾も新潟港をはじめ廃港寸前である。電気と海運