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ブックマーク / kaoriha.org (7)

  • 中里一日記: 無名作家の電子書籍小説でも一万くらいは売れる(ただし単位は円)

    無名作家の電子書籍小説でも一万くらいは売れる(ただし単位は円) 死屍累々の電子書籍端末市場に世紀末救世主が現れたと評判の昨今、読者諸氏はいかがお過ごしでしょうか。 アミバ級の企業 なら野心を抱くのは当然だし、ハート様程度 でも気持ちはわかる。が、登場から10コマ以内に「ひでぶ」するのが明白なザコ でさえこの市場に乗り出してきて爆死するのは、いったいどういうわけなのか。 それはさておき、無名作家の電子書籍小説でも一万くらいは売れる(ただし単位は円)。 まずは私の無名ぶりについて。 上の画像はこのサイトのGoogle Analytics。ご覧のとおり、訪問者数は1日当たり200人程度。 Twitterのフォロワーは210人。 まんが・随筆・イラスト・評論その他、つまり電子書籍を出せる人すべてを含めれば、いったい日に何千人いるのかというレベルである。 どうして「何千」であり「何万」ではないのか

  • 中里一日記: 『ボヴァリー夫人』

    『ボヴァリー夫人』 中学の国語の副読に載っている「文学史年表」的なものを見て、そこに挙げられている作品を片っ端から読んでいく――などというエクストリームな読書を試みる人は少ないだろう。文学史年表は都道府県名のリストのようなものだ。47都道府県を、ただリストに名前が挙がっているからという理由だけで踏破する人は稀だろう。固有名詞としては当然知っているが、実際に読むのは、必要や興味があるか、よほど面白そうだと説得されたときだけだ。 たとえばソルジェニーツィン。私はソ連マニアなので読んだが、作品というよりは症例である。 「〈ソヴィエトの〉という言葉は共産主義大ロシアの攻撃的ナショナリズムのみならず、反体制派の民族的郷愁にもうってつけのものである。この言葉によって反体制派はこう信じることができるのだ。つまり、ある魔術的行為によって、ロシア(真のロシア)はいわゆるソヴィエト国家から姿を消し、一切の糾

    florentine
    florentine 2011/08/01
    読み返したくなってしまったじゃないかっ!「私は読み続けるのがますます辛くなった」。この居心地の悪さが快感だった記憶もあるのだが。たぶんそれはわたしが「女性」だからかもしらんと当時、思ったような
  • 中里一日記: ポルノ産業を本当に潰したければ

    ポルノ産業を当に潰したければ http://d.hatena.ne.jp/axgx/ 子供を差別することには、誰も疑問を持っていないらしい。この問題の関係者にとっては、子供は人間ではないのだろう。 人はいま『18禁』とあまりにも軽く言うが、よく考えてみれば、それは18歳未満の人々をのけ者にする制度、すなわち、差別である。どうして誰も、この根的な問題に目を向けないのか。 「青少年を保護するために~」「住み分けすることでしか守れない表現が~」という理由づけは、なるほど合理的ではある。南アフリカ共和国のアパルトヘイトも合理的だった。南アフリカ共和国の経済や治安は、アパルトヘイトの廃止によって大幅に後退し、人々は不幸になった。ではアパルトヘイトを続けるべきだっただろうか。 根的な問題がお気に召さないという向きのために、別の方向からも『18禁』を攻撃しておこう。 「青少年を保護するために~」と

  • 中里一日記: 検閲済みの表の言論 vs 野放しの地下の言論

    検閲済みの表の言論 vs 野放しの地下の言論 ロバート・ダーントン『革命前夜の地下出版』(岩波書店)を読んだ。フランス革命への道は地下出版が舗装した、という話である。 アンシャン・レジームのもとでは出版は、政府の検閲を経てギルド的な組織により印刷・流通される「表」の出版と、そうした表の機構の外にある地下出版に分かれていた。 このような二分割体制のもとでは、地下出版は体制憎悪の培養器になる。「表」で既得権益にありつけなかった連中が地下出版に集まり、アンシャン・レジームの既得権益を満喫している連中を攻撃するからだ。 政府が地下出版への締め付けを強めると、体制への攻撃はいっそう激しくなる。なぜなら締め付けが緩いうちは、地下出版といっても海賊版などのローリスク・ローリターンな商売が多くを占める。締め付けが強まると、地下出版業者はハイリスク・ハイリターンの領域へと追いやられ、真正面から体制を攻撃する

  • 中里一日記: 中村逸郎『ソ連の政治的多元化の過程』(成蹊堂)

    中村逸郎『ソ連の政治的多元化の過程』(成蹊堂) 1988年からソ連崩壊にかけて、モスクワのある地区党組織(オクチャーブリ地区党委員会)の活動をリアルタイムで調査したである。『東京発モスクワ秘密文書』(新潮社 )と内容はほぼ同じらしい。一般にはこちらのほうが手に入れやすいだろう。 さて内容だが、素晴らしい。日語で読めるソ連のなかでは、五の指に入る。 地区党組織の日常業務は、まさに書の内容なので現物を読んでいただくとして、私の興味について言いたい。 1991年前半の時点で、エリツィン派(いわゆる地域間グループ)の権力基盤が崩壊しつつあったことが書から読み取れる。 そもそも、遠く離れた目で見れば、モスクワ市民はモスクワに住んでいるというだけで既得権益にあずかっている。文化教育、物資などのあらゆる面で恵まれているのに、市場原理がないので家賃は安い。損得でいえば既存体制を支持すべき人々

  • 中里一日記: 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々

    「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々 参考:僕の考えた超人 「僕の考えた女の子」を想定してしまう人々がいる――と書いただけですでに出オチだが強引に続けてみる。 このフレーズで重要なのは、「僕」のところだ。「俺」でも「私」でもない「僕」である。「自分のことを僕と言っていいのは大山のぶ代のドラえもんだけだ」という天下の大暴言に深く共感する私にいわせれば、「僕」という一人称には深い意味がこもっている。 「俺の考えた女の子」の「俺」は、タフな感じがする。「お前はバカか」とあきれてみせれば、「俺の考えた女の子」はあっさりと修正されるだろう。いや、修正させる必要もない。放っておいて、事実とぶつからせてやればいい。「俺」はそういう荒っぽい扱われ方を必要とする。 「私の考えた女の子」の「私」には、オープンな姿勢を感じる。「それはちがう」と指摘すれば、それがもっともらしい指摘なら――この「もっともらしさ

    florentine
    florentine 2009/11/29
    ので、リアル男子とのお付き合い(笑)に関しては口を噤む。が、このおはなしは至極納得。
  • 中里一日記: ライダージャンプ

    ライダージャンプ もしかすると都市伝説かもしれないが、かつてこんな話を聞いたことがある。 東南アジアでは昔、昭和時代の仮面ライダーのことを「殺人テレビ」と呼んでいた。なぜかというと、子供たちがライダージャンプの真似をして死傷する事故が多発したからだ、と。 規制ばやりの昨今なら、たちまち「子供が真似するようなライダージャンプは禁止せよ」ということになるだろうし、またそうなったからといって別に特撮番組がひどく困ることもないだろう。カメラが撮るべきものは無限にあり、そのうち百や二百を禁じられたところで屁でもない。 しかし私がライダージャンプから汲み取る教訓はそこではない。「読者はヤバい」――これが私にとっての教訓だ。 読者は、作者の命じるままに泣いたり笑ったりする従順な部下ではない。部下どころか敵兵士であり、それも、作者の狙いをくじくべく神出鬼没の奇襲攻撃を繰り返す、優秀なゲリラ兵だ。読者はゲリ

    florentine
    florentine 2009/08/26
    このひとの本を読みたくなった。ウンベルト・エーコの著作を思い出す。/angmarさま、お勧めありがとうございます。『フーコーの振り子』の虚構と現実、また「モデル読者」問題を思い出したので。読んでみます。
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