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2021年5月13日のブックマーク (6件)

  • スピノザとニンテンドースイッチ 佐々木典士

    おもしろいゲームは何時間も続けてやってしまうので、時間泥棒である。 こうなると「ゲーム=悪い」と言いたくなってくる。しかし、それだけでいいのだろうか? 「ぼくたちは習慣で、できている。」では、やめるべき習慣をジャンルで決めつけることはできないと書いた。たとえばゲームでもプロゲーマーの梅原大吾さんのように、プレイごとにメモを取り、あらゆる方法を試し、フィードバックしていく。そんな真剣な取り組み方は、まさにプロのアスリートと変わらない。人生のすべてをそこから学んだと言えるようなものなら、どんな娯楽にも価値はあるのだろう。 良いか悪いかは人による。そして、自分にとってゲームはそこまで徹底してやってきたものではない。この「人による」「自分にとって」という言い方をもっとすっきりとさせられないものかと思っていた。 善悪の起源は「組み合わせ」 そこでスピノザの登場である。今放送中の「100分de名著」の

    スピノザとニンテンドースイッチ 佐々木典士
  • 画像と言語のアナロジーはどこまで/どれだけ有効なのか - obakeweb

    描写=画像表象の振る舞いを、言語(語や文)のそれに見立てる見解および、これに対する異論のサーベイです。具体的には、『芸術の言語』(初版1968, 改訂版1976)におけるNelson Goodmanの枠組みをめぐって、70年代に展開された論争の一部をまとめています。トピックとしては、以下でも参照する松永ドラフトへのフォローアップです。 1974年には『The Monist』誌、1978年には『Erkenntnis』誌で、相次いでLanguages of Art特集が組まれている。そちらでもうかがえるように書のインパクトは凄まじく、名だたる論者たちが総出でこのと格闘していたことが伝わってくる。 とりわけ、第一章が絵画の表象に関する分析から始まることによって、『芸術の言語』は今日の「描写の哲学」にとってのメルクマールとなった。John Kulvickiのような直接のフォロワーでなくとも、『

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  • 文学解釈における価値最大化理論|スティーヴン・デイヴィス「作者の意図、文学の解釈、文学の価値」(2006) - obakeweb

    Davies, Stephen (2006). Authors' Intentions, Literary Interpretation, and Literary Value. British Journal of Aesthetics 46 (3):223-247. [PDF] スティーヴン・デイヴィスによるBJAの論文「作者の意図、文学の解釈、文学の価値」のまとめです。*1 「作者の意図と文学解釈」というホット・トピックにおいて、「価値最大化説」を定式化した重要論文です。同様の立場はそれ以前のDavies (1982)でも提唱されているが、その後出てきた諸ライバル理論を踏まえて書かれたのが論文。この手の話題で参照されないことはない程度には定番の一です。 〜〜ここまでのあらすじ〜〜 ウィムザット&ビアズリー(1946)「作者の意図はいりませーん!」【反意図主義】 バルト「作者は死ん

    文学解釈における価値最大化理論|スティーヴン・デイヴィス「作者の意図、文学の解釈、文学の価値」(2006) - obakeweb
  • 東浩紀「これからの知識人は"もの書き"より"話し手"に変わっていく」 なぜ「動画配信」に力を入れるのか

    人は「文章に」ではなく「人に」お金を払いたかった 【東】これまでも人はコンテンツではなく、人間にお金を払ってきたんだと思うんです。ライター、言論人、なんでもいいんですが、みんな自分たちを「もの書き」だと思ってきた。なぜならば、いままでは文章を書くしか方法がなかったから。でも、人がお金を払いたかったのは「文章に」ではなく「人に」なんですよ。その意味で、しゃべるとか、動画っていうのはすごく向いてるんですよね。 文章の役割がなくなったということではけっしてないんだけど、すごい昔に戻れば、知識人だって街頭でしゃべる人間であって、文筆を生業としているわけではなかった。近代、新聞とか雑誌のシステムが普及していくなかで知識人は文章を書く人になった。そう考えると元の状態に戻ってるんじゃないかとも思うんですよね。こいつおもしろいぞっていう部分をいかに効率よく世界に届けていくか。 そのベースで集めたお金で取材

    東浩紀「これからの知識人は"もの書き"より"話し手"に変わっていく」 なぜ「動画配信」に力を入れるのか
  • 9月末で60歳定年退職しました - 未来のいつか/hyoshiokの日記

    当社の規定により満60歳で定年退職をした。長いようで短かった会社員生活も一区切りだ。自分のプログラマとしての会社員生活を振り返ってみる。無駄に長いし結論はないのでお忙しい人は飛ばして欲しい。 9月末なのでブログ界隈では退職エントリーがそこかしこに書かれると思うが、その中で自分の退職エントリーを連ねることにどれほどの意味があろうか。もちろんないのだが、それでも多くの書き手の年齢を考えると満60歳定年退職というところに若干の希少価値を見出せなくもない。 1984年に大学院修了して以来、プログラマとしてのキャリアを重ねてきた。大学時代の同期でプログラマとして就職したものは皆無だ。当時、工学部の同期はメーカーに就職するのがほとんどで、大手家電メーカー、自動車メーカー、電力会社などなど、当時の誰でも名前を知っている人気企業に就職するものが大半だった。 その中で、日ディジタルイクイップメント(DEC

    9月末で60歳定年退職しました - 未来のいつか/hyoshiokの日記
  • 最強の可視化問題

    ゲーマーの間では「最強」は可視化されるようになりました。便利で有用な面が大きいですが、これによる目立たない弊害がわずかにあります。一度文章にまとめたいと思いました。 「最強の可視化」は、対戦ゲーム(特に esports と呼ばれて扱われるようなタイトル)の最上位層・強弱の差が可視化したという意味です。 調べれば筆者と同様の論調は見つかりますが、「今後どうすべきか」提案で筆者の意見を出せればと思い記しました。今日はだいぶ曖昧なお話しなので、少しテキトーな口調に出来ればと思います。 背景:最強の可視化とは 以前、インターネットはなく、もしくは影響が少なかったため、人々は好きなことをしていました。一方で、良質な情報や上達するための正しい方法を手に入れるのは非常に難しいものでした。筆者も間違ったセレビィ入手裏技に踊らされ(註1)、暗黒王デスフェニックスを軸にしたデッキ(註2)の構築に独りで必死にな