タグ

ブックマーク / historyman.blog.jp (80)

  • 古代における名前 : いにしえララバイのブログ

    弥生時代から古墳時代の人の名前は、どのように呼ばれていたのでしょうか。その当時、漢字は日には入っていない状況でした。この時代の人達は、その地に住もうとした時、その地の特徴を見て、住んでいる場所の名前を決めた。例えば、小高い山があったとすると、その山の様式や外形から名前を決めた。その山の名前が決まることによって、居場所が限定され、〇〇山の誰それとなる。その地に他にも住む人が多くなると、その住んでいる場所を決めなくならないようになった。その地には、藤の花がたくさん咲いている土地であったとすると、山の麓の地ということで「山藤」となる。この住まいで、集落ができると山藤の〇〇となる。これは、漢字が普及してない時代だから、発声音だけでした。 漢字が朝鮮半島経由で中国から入ってきたのは、1世紀頃に後漢の光武帝から渡された『漢委奴国王印』によって、漢字と認識したのが最初で、日人が漢字を使い出したのが4

    古代における名前 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/06/12
    縄文時代から人の呼び名は、あったと思う。あだ名を付けて、区別していた。弥生時代になって、集落が拡大して、地域名とあだ名で人の名前をあらわすようになった。
  • 蘇我氏と物部氏の真相 : いにしえララバイのブログ

    蘇我氏と物部氏は、仏教を受け入れるかどうか戦ったのが有名ですが、実際のところそうだったのか、両氏の成り立ちから始めたいと思います。『日書紀』では、武内宿禰から発生した氏族とされていますが、この武内宿禰は実際に存在していたか、疑問に思われます。蘇我氏と同じように、葛城氏や波多氏、平群氏、紀氏、巨勢氏も武内宿禰から発生したとされています。これらの氏族は、武内宿禰が欠史八代の第8代孝元天皇の子孫だとされていますので、皇族の血筋となっています。記紀ではそのようになっていますが、どうもヤマト王権が設立した時に、北部九州から皇族と共に大和の地に移動してきた部族だと思われます。記紀では出は、神武東征となっていますが、崇神天皇の時代のように思われます。一方、物部氏は皇族系ではなく、崇神天皇の時代から皇族に使えた氏族だった。物部氏の祖は、伊香色雄命。崇神天皇の時代に疫病が流行した時、大物主大神を祀るために

    蘇我氏と物部氏の真相 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/06/10
    蘇我馬子によって、物部守屋の屋敷が焼け打ちされ、物部氏宗家は滅んだが、地方の物部氏は生き残った。これは、蘇我馬子の闇討ちだった。多分、そうしないと、物部氏によって、蘇我氏が滅んでいたかも知れない。
  • 日本最初の訪問者 : いにしえララバイのブログ

    最初に、それも5万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスが2万年を経て、後期旧石器時代に無人島だった日列島に上陸した。縄文人の祖先。日人の祖先です。中央大学、東京大学総合研究博物館、立正大学、(株)火山灰考古学研究所、(株)パレオ・ラボは、共同研究として、2022 年8月と 2023年9月に、岡山県真庭市蒜山高原にある後期旧石器時代の小林河原遺跡の発掘調査の結果、局部磨製石斧と隠岐島産の黒曜石で作られた台形様石器が発見された。また、同じ蒜山高原の城山東遺跡から出土した炭化材(土壌に埋められていた木材)の放射性炭素年代測定分析を行った結果、36,000年前~34,000年前と判定された。即ち、小林河原遺跡の磨製石斧と黒曜石の石器が後期旧石器時代初頭期の石器であることが判明した。と言うことは、35,000年前にはホモ・サピエンスが日列島にやって来たことを意味している。その当時、隠岐島は日

    日本最初の訪問者 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/05/24
    後期旧石器時代、無人島だったと思われる日本列島に、最初に訪問した人類(ホモ・サピエンス)は現在の日本人の祖先でしょうか。
  • 騎馬民族の定義 : いにしえララバイのブログ

    現在でも日育ちの馬がいます。それを在来馬といい、北海道の道産子・長野県木曽郡開田村の木曽馬・宮崎県都井岬の御崎馬・対馬の対馬馬・愛媛県今治市の野間馬・鹿児島県鹿児島郡十島村のトカラ馬・宮古島の宮古馬・沖縄県八重山郡与那国島村の与那国馬が生存しています。この馬たちの祖先は、朝鮮半島から渡ってきた。これらの祖先馬は、対馬海峡を泳いで渡ってきたのではなく、古代の人によって連れてこられた。その人達がどの民族であったかは、はっきりとわかっていない。ある仮説では、ユーラシア大陸の民族が南下して、南部朝鮮を支配し、朝鮮半島から馬と共に日にやって来た。そして、日でヤマト王権を設立したという。古墳の墓から馬の骨や馬具が出土したことによって、それを証明しようとした。けれど、馬が輸入されたのは邪馬台国が日から姿を消した3世紀の終わりごろで、その当時の日人は朝鮮半島を渡り、南部の鉄鉱石を採取していた。そ

    騎馬民族の定義 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/05/09
    騎馬民族征服王朝説を唱えて話題になりました。それはあくまで仮説であって真実ではないと思います。日本人は、昔から海外の文化を取り入れることに優れていた民族だった。
  • 邪馬台国の終焉 : いにしえララバイのブログ

    邪馬台国は、歴史上存在していたことは『魏志倭人伝』によって証明されています。それが、大化の改新以降に編纂された『古事記』や『日書紀』には、邪馬台国の存在などが記載されていない。邪馬台国が卑弥呼から壹與に変わり、中国も魏から西晋に変わり、壹與が西晋の武帝(司馬炎)に使者を送った266年以降、中国歴史書から日に対する記事がなくなっている。それから、275年に西晋の洛陽で疫病が大流行している。その疫病の影響が日にも。その当時の邪馬台国を中心にしていた北部九州では、280年に三国時代の呉が西晋に滅ぼされたために、日に渡ってきた人達や西晋からの使節団などの往来で、中国の疫病の影響を受けていた。北部九州で疫病による死者が増え、北部九州での生活を捨て、東に移動する人が出てきた。そして、291年に西晋では八王の乱が起こり、邪馬台国が重要視していた楽浪郡も弱体化して、313年に高句麗によって滅亡し

    邪馬台国の終焉 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/05/01
    今でも、邪馬台国の地理的位置が定まっていない。中国の歴史書には邪馬台国が掲載されているけれど、記紀には一切編纂されてないのも不思議です。そのため、空白の4世紀と言われ、謎とされていました。
  • 倭国の存在 : いにしえララバイのブログ

    古代史の歴史学者は、弥生時代中期から後期にかけて、日列島に倭国という国が存在していたように説く。でも、その倭国という表現は、中国歴史書に記載されているだけで、実際は弥生時代前期(紀元前500年~紀元前100年)頃には、日列島に多くの集落は存在していたが、中央集権的な統一国家は存在していなかった。その各集落には、長老的存在もいただろうし、祭典を仕切る巫女もいただろう。これは、縄文社会の延長であった。縄文時代と違ったのは、全国的に稲作が普及したところです。その影響で、全国的に人口が増えて来ました。そして、集落も拡大し、大集落が各地に出現した。人口が増えた分、田畑の拡大と用水路の確保が地域集落の問題になり、弥生時代中期(紀元前100年から紀元100年)頃には、田畑用土地の確保と農業用水路の争いが各地で頻繁に行われ、その争いを指導するリーダが生まれてきます。そのリーダ達が古墳時代になって、各地

    倭国の存在 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/04/21
    中国の前漢以降、日本人のことを倭人と言った。倭人が住む国だから倭国と称して、日本国とした。日本に独立した倭国が存在していたわけではない。
  • 縄文の道から畿内七道へ : いにしえララバイのブログ

    最後の氷河期が終わり、新石器時代から縄文時代草創期に移る1万6,500年前から1万5,500年前の頃、北海道にいた縄文人は、北海道産の黒曜石を保持して日海側の青森県鰺ケ沢町に渡り、津軽半島の東側に移動した。世界の中で最も古いものの一つの土器が発掘された東津軽郡外ヶ浜町の大平山元1遺跡では、新石器時代の石器の矢尻が発掘され、その矢尻の中には北海道産の黒曜石が見られた。この当時の東北地方の縄文人の人口は、多くて2,000人ほどですから、1㎞先に30名の竪穴式住居がある感じ。その住居を線で結んでいくと猪や鹿が行き交う獣道が存在した。狩りをしている内に、山の谷間に住居を移し、山の麓の広い土地に集落が形成され、或いは北海道南部から州に広がるブナ類、特にドングリを生み出す樫の木やクリの木で丸太舟を作り、北上川を南下して海岸線に。そして、縄文人は糧のある山の麓や海の近くに集落を形成した。山裾に集落

    縄文の道から畿内七道へ : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/03/24
    縄文人は、食糧を求めて東北地方から南下し、関東地方や信濃地方に移動した。その過程で人が通る道ができ、律令国家になったときに畿内七道といわれるようになった。
  • 縄文人の山の民と海の民 : いにしえララバイのブログ

    昔から日列島は山があり、山の地下水が川となり、海へ流れ、列島の周りは海に囲まれた自然豊かな国土です。そして、南北に細長く伸びているので植物や木々も豊富。そのような国土では、山や野原ではシカやウサギのような小動物が繁殖し、海では黒潮や親潮という海流によって南からマグロやカツオ、北からは鮭やサンマなど豊富な魚が。浜辺では貝類や海藻が採れる自然環境にある。そのような環境化で日人の祖先、縄文人は1万5,000年前から日列島で生活を行ってきた。 最後の氷河期が終わり、日列島も暖かくなってきて、獲物を求めて肉を中心にした生活が始まり、鋭い刃物(石器)を求め、火山岩の黒曜石の山地には縄文人が結集するようになった。北海道の白滝遺跡群が縄文時代早期の代表的な集落で、縄文人は獲物を求めて南下していった。そして、栃木県高原山周辺や長野県霧ヶ峰周辺の黒曜石産地まで辿り着いた。この縄文人は山の民です。一方

    縄文人の山の民と海の民 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/02/18
    縄文人の山の民と海の民 日本列島は、平野が少なく山がそびえ立ち、海の囲まれています。それは縄文時代でも一緒で、縄文人から現在に至るまでこの国土で生活してきました。
  • 縄文時代の地震 : いにしえララバイのブログ

    地震がどの地域でいつ頃起こるか、全く予想できません。日は火山地帯でもあり、火山噴火による地震。その他にも、日列島の活断層による地震の結果、砂を大量に含んだ地下水(砂派)が地上に噴き出す液状化現象により山崩れや新たな丘に。海では大陸棚で瘤のように盛り上がる液状化現象により津波が起きる。この結果、海から運ばれた砂によって今までの海岸線が変化する。このように、地盤変動により生活環境が一変する。住居は崩壊し、農作物が栽培出来なり、船着場状況も変化する。被災地では、住居崩壊により避難場所での生活を余儀なくされる。 現在では、保険により住居の建て直しや被災地を逃れての移転で、新たな生活が始まりますが、縄文人の時代には、地震により多数の死者が出て、さらに生活のため狩りをしようとも地震により獲物も減少し、栗やドングリの木も倒れて、その地では生活出来ない状況により、集落の移動をしなければならなくなる。縄

    縄文時代の地震 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/01/14
    日本列島は、縄文時代から地震によって生活を追われ、住み慣れた土地に別れを告げて、新天地を求めて移動してきました。そして、生き向いてきた人たちを祖先に持つ現在の日本人です。
  • 辰年の話 : いにしえララバイのブログ

    干支は、現在では十二支でしか表さないようになりましたが、江戸時代までは十干と言って、古代中国の殷国の1から10までの数字を表す甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛壬・癸で、殷の人達は太陽が東から昇る位置が10コの箇所と設定し、その繰り返しによって日時が繰り返すと考えていた。元は日・時間を表す漢字だったのです。その十干が方向にも利用されたのが、古代中国思想で、すべてに「陰」と「陽」があると言う考え方から、この十干のひとつごとに陰と陽に分けられ、古代中国では万物が火・水・木・金・土の元素からなるという自然哲学、五行思想によって十干と重ねて合わせて、方向をしめすようになった。中国の戦国時代にはこの五行思想が中国の中で浸透していった。 稲作が浸透していた殷時代に十干とともに日・月・年を表す指標として十二支が利用されていた。現在では十二支は動物に当てられていますが、殷時代(紀元前17世紀~紀元前10世紀頃

    辰年の話 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2024/01/03
    干支、十二支の中で5番目に位置する辰年。1年間12ヶ月で干支の辰は、5月頃に当たります。中国では、十二支に十二獣を当て嵌め、辰は現実に存在しない架空の龍を。日本でも龍は神様として。そんな干支の辰のお話です。
  • 最初の日本人 : いにしえララバイのブログ

    「日土にやって来た人達は、マンモスゾウを追いかけて大陸からやって来た。」よく言われますが、日でのマンモスの化石は北海道の12点と島根県日海海底200メートルから引き上げられた1点で、約4万8,000年~2万年前とされている。果たしてマンモスゾウを追いかけて大陸からやって来たのだろうか。1万年前まで生存したナウマンゾウの可能性もある。だが、島根県の砂原遺跡で12万7,000年前の石器が発掘され、岩手県の金取遺跡からも9万年前の石器が。それが、その人達が6万年前にアフリカを出たホモ・サピエンスであったかは疑問が残る。しかし、日最古の石器が発掘されたということは、すでに10数万年前から北海道や日州には人が住んでいた。その人達の血筋は、現在でも日人に多少なりとも引き継がれているのではないか。 このような人達はナウマンゾウのような大物は別として、鹿、野牛などを狩猟し、猪や穴熊、野兎の

    最初の日本人 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/08/12
    日本列島に踏み込んだ最初の人は、どんな人類だったのでしょうか。少し興味がありますね。でも、考古学的にも実証がないため、やはり3万5,000年前に人達になるのでしょうね。
  • 歴史における人口推計 : いにしえララバイのブログ

    現在、日の人口は2020年の国勢調査で1億2,606万8,000人とされています。戦後すぐの調査では、7,810万1,473人ですから、1950年代から1960年代までの高度成長により、1970年には1億人に達し、バブル経済の頃、1986年には1億2,000万人を突破しました。2001年には、1億2,691万2,000人をピークに減少傾向にあります。世界的な国益を考えた上では、この人口を維持したいところです。ですが、戦後すぐの第一ベビーブームに生まれた人達は、年齢的に70代後半になり、徐々に減少していく傾向に。少子化対策が急務になってきました。人口問題を歴史背景から考えてみたい。 明治時代に日の人口を調査する意識は一部の統計学者でしかなくて、一地域で調査が行われたのが実情でした。それが、1895年に国際統計学会から明治政府に参加の依頼があり、国会で人口調査に対する法律の整備が進んだが、

    歴史における人口推計 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/07/16
    江戸時代の国学者達は、大化の改新以降の古き文献を紐解き、そこに書かれている内容からその当時の人口を探り出した。近代になって、西洋の学問が入ってきて、人口推計が可能になり、1920年から国勢調査が始まる。
  • 日本人の生活習慣から来る集団意識 : いにしえララバイのブログ

    人の性格として、集団で行動するときには「右へ倣え」という結束力はあるが、個人としての独立心に欠けるところがありますね。信念や価値観を共有し、個々の感情を抑え、習慣的に団体で行動する。個人プレイをすると集団から外される。江戸時代まで、集団から外れることを「村八分」と言っていた。村集団の掟や習慣を破ると村社会から排除され、制裁行為を受ける。現在で言うと「いじめ」を受ける行為に当たる。日では、集団の慣行を共有し、「助け合い」を奨励する傾向が昔から強かった。現在で言う「共有」とか「コミュニケーション」があるように、日人は昔から仲間意識が強い国民性を持っていた。 アフリカ出のY染色体パプログループDが3万8,000年前に日にやって来るまで、日列島では無人であったと言われています。ですが、2009年に島根県出雲市の砂原遺跡から12万年前の玉随製剥片、石英製の石核、小さな剥片色々、石英の塊;

    日本人の生活習慣から来る集団意識 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/07/09
    現在のボランティア活動やSNSの「共有」や「コミュニケーション」は、縄文人が作り出した生活の知恵から来ていて、私達日本人に受け継がれてきている。
  • 弥生時代について : いにしえララバイのブログ

    現在では、学校教育において弥生時代の始まりは、日に水田式稲作が入ってきた紀元前900年頃から古墳が形成される250年頃とされています。戦後、日が復興していく過程で、道路拡張工事や子供の増加による新設校の建設や高度成長期によるマンション建設などの開発が進み、それらの工事で掘削作業が始まる時点で、古代の遺物が次々と出てきました。そのため、考古学の発掘調査が開始され、縄文時代の埋もれていた土器や竪穴式住居跡などが発見され、弥生時代の水田跡も現れてきました。その発掘調査で、土壌の段差や竪穴式住居跡の柱となる丸太の年輪や発掘された遺物の科学的な測定(炭素年代測定法など)を使って、その遺物がいつ頃かを判明することができました。このような考古学の科学的な調査によって、弥生時代の開始時期が戦後まもない頃、1945年から1965年頃までは紀元前後とされていたのが、1970年頃には紀元前300年頃になり、

    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/03/30
    改めて弥生時代を考えてみました。大和朝廷が表した日本神話はこの時代に形作られたように思います。
  • 食料の貯蔵庫(掘立柱建物)から祭殿(独立棟持柱建物)に : いにしえララバイのブログ

    家を建てる時、地面を掘り、コンクリートを流し込んで基礎(土台)を作り、その上から木材の柱を建てる。家の骨組みですね。その後、平板で床を張り付け、天井に屋根を。日家屋の基的な形ですね。 現在の家屋の基礎にコンクリートを使っていますが、古代エジプトでコンクリートに類似した物はありましたが、日の古代にはそんな洒落た物はなかった。しかし、縄文時代草創期から地面を掘り、中央に庵となる穴、凹みの周りに柱を建てた竪穴式住居が存在していた。以前、驚かされたのが、元近鉄バファーローズのキャッチャーで、楽天の監督もされた梨田さんの自宅から、後期旧石器時代(30,000前~13,000年前)の竪穴式住居跡が発掘された。大阪府藤井寺市のはさみ山遺跡の一部。旧石器時代から竪穴式住居が存在していた。石器時代では、狩りを中心に生活していたので、定住することがなく、何時でも移動できる簡単な竪穴式住居だったと思われる

    食料の貯蔵庫(掘立柱建物)から祭殿(独立棟持柱建物)に : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/02/19
    水田式稲作が弥生時代前半から各地で始まり、米の貯蔵庫として高床式建物が集落に建つようになって、その高床式建物が祭殿と変化していった。
  • 尾張氏は縄文人だった : いにしえララバイのブログ

    ヤマト王権の発祥地が崇神天皇の時代だとすると、三輪山の麓にあった纏向遺跡を中心にした地域になる。この纏向遺跡は、倭国大乱に相当する2世紀末から、崇神天皇が政権を運営していた4世紀前半に、大和の地に全国から集まって来た人達が共同生活をしていた遺跡です。発掘された土器を調べると伊勢・東海系(尾張氏?)が49%、北陸・山陰系(海部氏?)が17%、河内系(物部氏?)が10%、吉備系(吉備氏?)が7%、近江系(息長氏?)が5%、関東系(安曇氏?)が5%、播磨系(播磨三宅氏?)が3%、西部瀬戸内海系(三輪氏?)が3%、紀伊系(紀氏?)が1%となっている。この当時、臣・連制度もなければ、氏族制度もない時代なので、各系統の人達が氏族として発展していったについては疑問ではあります。発掘された伊勢・東海系の土器が約半分を占めているということは。ヤマト王権を誕生させたのは、北部九州の先進地域ではないことは確かで

    尾張氏は縄文人だった : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/02/05
    物部氏は古代史でよく取り上げられますが、尾張氏はあまり注目されてないですね。実は、尾張氏も物部氏と同じ先祖、縄文人だったのです。
  • スサノヲは水害&疫病の神 : いにしえララバイのブログ

    いにしえララバイのブログ いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。 「いにしえララバイのブログ」は、日の先史時代や古代史を中心にした歴史を探索・推理するブログです。カテゴリーは、古代史ファイルと小説(いにしえララバイ、ひろりんとプー子の物語、たつやの古代旅日記、私考 古事記)を掲載しています。ごゆっくりと「いにしえララバイのブログ」をお楽しみください。 http://historyman.blog.jp/archives/cat_325686.html スサノヲが神社で祭神として祀られるようになったのは、いつ頃だろうか。『古事記』や『日書紀』が編纂された白鳳時代よりは、遙か昔の頃。稲作が集団でするようになり、村が形成された頃、集団で生活する上で、祭事場所が設置され、米の豊作を祈り、災害や疫病が起こらないように祈祷する習

    スサノヲは水害&疫病の神 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/01/23
    神話では、スサノヲが高天原で大暴れしてアマテラスの天岩戸でお隠れになった原因を作った神として、悪く言われたリもするが、反面、水害と疫病の神として神社で祭神として祀られている。
  • お寿司と仏舎利の話 : いにしえララバイのブログ

    お寿司は、代表的な日料理として重宝がられています。お寿司の歴史は古くて、関東のにぎり寿司や関西の押し寿司は江戸時代に完成されていますが、元々はタイ北部から中国雲南省にかけて稲作と漁業の発達とともに、なれずしがべられるようになり、日に稲作が伝わった時点で日でもなれずしをべるようになった。古代の人は、収穫した魚介類を長く貯蔵するため、保存として炊きたてのご飯に取り立てのお魚を藁で包んで保存したのでしょうね。すると、藁で包んだお魚とコメは自然と発酵して、ご飯が酢っぽくなる。 今でも、このお寿司の作り方は、日各地の郷土料理として残っています。例えば、滋賀県の琵琶湖で採れたふなやアユやハスやオイカワなどでなれずしを作る。特に、鮒寿司は有名ですね。その他にも、和歌山県のサバ寿司、石川県と富山県の蕪とブリのかぶら寿司、秋田県のハタハタ飯寿司、北海道のニシンやサケのいずし。各地でなれずしの呼

    お寿司と仏舎利の話 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/01/15
    今でこそ、お寿司は日本料理の花形だけど、古代では保存食として稲作とともに日本に伝わった。お寿司の「シャリ」と「仏舎利」との関係の話。
  • 仏教公伝における物部氏と蘇我氏 : いにしえララバイのブログ

    仏教が百済経由で日に伝わったのは、欽明天皇の時代で、538年から552年の間と言われています。その当時の百済は、高句麗軍の南下により、首都を熊津(忠清南道広州市)から泗沘(忠清南道扶餘郡)に移し、新しい首都に中国南朝文化を取り入れ、中央集権国家を目指した。そのため、南朝梁に何度も朝貢し、高句麗の後ろ盾を図った。それにより、仏教の経典や仏師や画師などが百済に入ってきた。一方、高句麗対策として百済・新羅・伽耶の連携を図るとともに、伽耶に関係が強かった倭国にも援助を求めてきた。そこで、百済の聖王が倭国(ヤマト王権)に金銅の仏像一体と幡と経典などを送った。 その頃、百済に任那四県割譲要請に応じた大伴金村大連が物部尾輿と蘇我稲目によって失脚し、その後仏教が公的に伝来する。そこで、磐井の乱で業績を上げた物部氏、その中で物部尾輿が大連になり、中臣鎌子とともに皇居での仏教を取り入れるのに反対した。天皇家

    仏教公伝における物部氏と蘇我氏 : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2023/01/09
    欽明天皇になって、大伴金村を大連から引退させて、物部氏と蘇我氏がヤマト王権の実権をにぎるようになった。
  • 遺伝子の変化はウイルスと交雑から : いにしえララバイのブログ

    いにしえララバイのブログ いにしえララバイのブログは、平成22年4月に開設しましたブログで、先史時代の謎を推理する古代史のブログです。 「いにしえララバイのブログ」は、日の先史時代や古代史を中心にした歴史を探索・推理するブログです。カテゴリーは、古代史ファイルと小説(いにしえララバイ、ひろりんとプー子の物語、たつやの古代旅日記、私考 古事記)を掲載しています。ごゆっくりと「いにしえララバイのブログ」をお楽しみください。 http://historyman.blog.jp/archives/cat_325686.html 生物学で地球上にヒト科として登場するのは、700万年前のサヘラントロプス属でチンパンジー科から分かれた種と言われている。この種の発見は頭蓋骨だけで、ヒト科の要素である直立歩行が成されていたかどうかは、推測の境地でしかない。もし、直立歩行をしていたとすれば、ヒト科での最初の

    遺伝子の変化はウイルスと交雑から : いにしえララバイのブログ
    fujimakitatuya
    fujimakitatuya 2022/05/07
    ダーウィンの進化論では、科学的に説明されなかったが、近年の遺伝子の解明により、学問的に説明できる。