fuminaruのブックマーク (48)

  • 「牧師」の犠牲になる若者たち

    Mが2012年8月に予定していた若者向け集会は、以前にも書いたように「文化を勝ち取る」ことが目的とされていた。わかりやすく言うと、一般の若者が好みそうなイベントをやって、人を集めようということだった。ライブやダンス、ファッションショーなどが企画されていた(このダンスというのが、以前書いたセクシーダンスというヤツだ)。 そんな集会でも若者が大勢来て、聖書の話をカケラでも聞く人がいて救われる(入信する)なら、価値があるかもしれない。 が、そう肯定的に言えるのは外部の人間だけだと思う。内部でその実情を知っている人間には、若干難しいことだ。 「文化を勝ち取る」というのはMが以前から言っていたことだが、こだわり始めたのは2011年あたりからだった。台湾のNew Life Churchの主任牧師と知り合ったのが、キッカケだったと思う。 New Life Churchは台湾で芸能人伝道で有名な教会だ。雑

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    fuminaru 2013/06/17
  • チャーチスクールがすべき諸々のこと

    ■諸々について ・公的書類 通学証明書や成績証明書、単位証明書などの各種書類を完備し、生徒に不利益がないように配慮しなければならない。卒業生の急な要請にも、可能な限り迅速に対応すべきだ。 それに付随して、各種学校との連絡連携も重要となる。スクールが外部に対して最低限の常識ある対応をしないと、生徒や父兄が迷惑することになる。 また、チャーチスクールは無認可のため、JRなど公共交通機関の通学定期は、通常なら取得できない。が、取得に向けて定期的、継続的な努力を続けるべきだと思う。 ・衛生面 生徒が毎日過ごすスクール施設は、清潔でなければならない。埃っぽかったり雑然としたいたりするのは心身ともに害である。生徒にとって安全であることが、第一でなければならない。 また、インフルエンザの予防接種や健康診断を、定期的に行うべきだ。保護者に医師や医療機関の人がいれば都合が良いが、いないなら近所の病院などに協

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    fuminaru 2013/06/16
  • I don't know who I am: 統一球問題に見るプロ意識

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    fuminaru 2013/06/16
  • チャーチスクールで取得すべき資格について

    それを補う手段として、高等学校卒業程度認定試験がよく利用されている。が、これを高卒資格と勘違いする傾向が少なからずある気がする。この試験は大学等の受験資格、あるいは高卒以上の学歴を求める職場の入社試験受験資格である。だからチャーチスクールを最終学歴とする場合、公的には高卒でなく中卒ということになる(繰り返すが、高卒だと言い張ることはできる)。 それを避けるためのここ数年の動向として、通信制高校が利用され始めている。チャーチスクールが通信制高校と提携しているケースと、チャーチスクールの生徒が個人で利用するケースとがある。通常は前者だろう。 この場合、生徒は普段はチャーチスクールに通い、そこで通信制高校の課題に取り組む(視覚教材も含め基的に自習だ)。体育や芸術分野はそのチャーチスクールの授業を受けるだろう。通信制高校でのスクーリングの日はそちらへ行く。それを3年間やり終えると、見た目はチャー

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    fuminaru 2013/06/14
  • チャーチスクールの教師について

    それは多くの場合、カウンセリング的な手法になるだろう。普段の授業や様々な学校行事など、生徒の学校生活を間近で見る担任教師などが、個々の生徒の問題点を把握し、頃合いを見てその問題を取り扱っていく。 通常のカウンセリングは、クライアント(相談者)が相談を持ち掛けて始まるものだ。が、この「心の教育」は、教師の方から切り込んでいくことが多くなる。生徒自身が消極的だったり、関わられるのを嫌がったり、自分の問題に気づいていなかったりするからだ。

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    fuminaru 2013/06/13
  • チャーチスクールで身につく学力について

    チャーチスクールに子どもを入れる前に、考えるべきことを項目別に挙げていきたい。 この作業を通して、チャーチスクールが何なのか、見えてきたらと願っている。 ■学習について まず大前提として、チャーチスクールで学力を高めるのは難しい。 礼拝の時間や聖書学習の時間があり、どうしても授業時間数が減るからだ。1日1時間程度としても、年間にすると相当な時間になる。 この問題を解決するには、生徒と教師の双方に負担を強いて、1日7時間~8時間授業にする他ない。が、そこまで長時間の授業に集中できるかどうか疑問がある。 くわえて、そのチャーチの特性として音楽やダンスに力を入れている場合、自ずとそういう授業に力が入りやすくなる。普段から時間数が多く、何かの集会の前などは1日中ダンスということもある。それ自体は良くも悪くもないが、授業時間を圧迫するのは間違いない。 次に、教師は基的にプロではない。 教師の能力は

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    fuminaru 2013/06/13
  • 本物とニセモノの混在

    書きながら時々、なぜ放置していたんだろう、なぜ声を出さなかったんだろうと、自問することがある。そういうようなことを言ってくる人もいる。 確かに今にしてみれば、Mのこれもおかしい、あれもおかしい、ということばかりが思い浮かぶ。だがその当時の自分が、Mの暴走を暴走として正しく認識していたかというと、そうではなかったように思う。 それを認識できた人はMによって早々に追放されていたから、結果的に、私のように認識できなかった人ばかりが、Mの周りにいたことになる。だから、あのような事件にまで発展してしまったのではないだろうか。

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    fuminaru 2013/06/12
  • 天国でも競争?

    天国についてもう少し書きたい。 あるクリスチャンが自身のブログで、「天国でダンボールの家に住みたいか、宮殿に住みたいか」みたいなことを書いていて驚いた。 その人によると、人生は天国でのポジションを決めるテストのようなものだそうだ。そのテストの結果、成績の良い人は宮殿に、悪い人はダンボールに、それぞれ永遠に住むことになるらしい。 言いたいことはよくわかる。宮殿とかダンボールとかが比喩なのもわかる。 確かに聖書には、全ての人間が死後にさばきを受けると書いてある(黙示録20章)。そしてその基準は、「そのしわざに応じて」だ。だから生前の行いに従ってさばかれる、というのは基的に正しい。 また、天国にはそれぞれに住む家があるとも書いてある。イエス・キリストご自身が、それぞれの住まいを準備しておられる(ヨハネ14:2-3)。だから天国でそれぞれの家に住む、というのも正しい。 が、ある人は家がみずぼらし

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    fuminaru 2013/06/11
  • 「天国を見てきた」を信じるべきか

    時々、「臨死体験」をしたというクリスチャンの話を聞く。事故やら病気やらで死にかけたか死んだかした時に、何らかの体験をし、その後無事に生還した、というヤツだ。

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    fuminaru 2013/06/10
  • Dredd

    ■概要 1995年にシルベスタ・スタローン主演で映画化されたイギリスの同名コミックの、再映画化。 95年版の続編ではなく、基的に関係ない。コミックの内容は知らないが、作の方が原作に忠実とのこと。 主演はカール・アーバン。誰? という感じだが、「スタートレック」(2009)のマッコイと知って顔がわかった。 が、作ではいっさい顔が出ない。上の画像の通り、ずっとヘルメットをしている。はっきり言って、主人公は誰でもいい。 ■あらすじ 核戦争後のアメリカ、廃墟の中に立つ巨大都市「メガシティ・ワン」のある1日を描く。8億人が住む人口過密状態の中、犯罪件数は1日1万件以上。裁判官であり死刑執行官である通称「ジャッジ」たちが、治安維持のため奔走している。 その日、ジャッジの中でも特に優秀なドレッドに、新人ジャッジのカサンドラが試験として相棒に付けられた。超高層アパート「ピーチツリー」で発生した殺人事

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    fuminaru 2013/06/09
    映画「ジャッジ・ドレッド」(2012)の感想。
  • 集団陶酔しているだけでは・・・?

    先日、舞浜のディズニーシーに行った。 実は初めてだったので、事前に下調べをしておいた。調べてわかったのは、アトラクションよりショーを楽しむ為のパークだということだった。 私は劇やミュージカル等の舞台が好きだから、そこでのショーを大いに楽しめた。非常にハイクオリティで、単純に感動できる。 が、各ショーのテーマは「精霊」だったり「魔法」だったりするから、一部(?)のクリスチャンは毛嫌いするかもしれない。 それはさておき、あるショーでの観客の熱狂ぶりには、目を見張るものがあった。ダンサーたちの掛け声に合わせて、皆で手拍子したり踊ったり歓声を上げたり、どんどんヒートアップしていく。リピーターの方々がそれを先導しているようでもあった。有名アーティストのライブでも時々見られる光景だ。 私はディズニーのキャラクターたちが特別好きな訳ではないが、その熱狂の渦に入っていくのは容易だったろうし、むしろその方が

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    fuminaru 2013/06/08
  • I don't know who I am: エリートならエリートらしく振る舞ってほしい

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    fuminaru 2013/06/07
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  • クリスチャンって本当にエリートなの?

    以前の記事で「クリスチャンは一般社会より上」という意見を肯定したが、よくよく考えると疑問が生じたので、訂正したい。 これは言い換えると「クリスチャンはエリートである」ということだと思う。 聖霊派の牧師に、この説の支持者が少なくないようである。 この説の根拠として考えられるのは、 ①クリスチャンがイエス・キリストの十字架による贖いを受けた特別な存在であること ②旧約のダニエル書に見られるダニエルの優秀さ ③詩編4:3が「聖徒を特別に扱われる」(新改訳)と言っていること ④クリスチャンがイエス・キリストから大宣教命令と世界管理命令を受けていること あたりが主要だと思う。他にもあるかもしれない。 私はこの説を単純に信じていた。が、考えてみると、これは傲慢からくる思想のような気がする。 理由は次の通りだ。 ①について、十字架による贖い(罪の許し)を受けていることと、エリートであることとはそもそも関

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    fuminaru 2013/06/06
    クリスチャンはエリートって、ずいぶん高飛車な言い方ですね。
  • ショーでも礼拝でもないダンス

    礼拝としてのダンスと、ショーとしてのダンスは根的に性質が異なると前回書いた。だからその用途も違うし、踊り手も違う。 礼拝目的のダンスは、老若男女を問わずコミュニティの皆で踊るものなので、集団としての一体感がポイントとなる。この一体感は、キャンプファイヤーなどで踊るフォークダンスを想像したらわかりやすいかもしれない。基的に「喜び」が原動力であり、自分たちも楽しみながら踊るのであって、ダンサーとしての質とか練習とかが重視されるものではない。

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    fuminaru 2013/06/05
    ショーでもなく、礼拝でもなく、困った教会の困ったダンスについて物申したく。
  • そのダンスはショーか礼拝か

    昨今の福音派の教会の多くが、いわゆる「ワーシップダンス」を取り入れている。ヒップホップやフラなど種類はいろいろあるだろうが、要は踊りをもって神様を礼拝することである。 礼拝のプログラムの一部として、ダンスチームがダンスを披露する教会もある。 聖書は「踊りをもって、御名を賛美せよ。」(詩篇149:3)と言っていて、踊りが礼拝の一つであることを支持している。 確かに、神様に感謝したくてたまらない時など、踊り出したくなる人はいると思う。アフリカ出身のクリスチャンで、常に何かのリズムをとっているような人もいる。 私の母教会でも、礼拝の中で中高生らが練習したてのダンスを披露することがよくあった。 元牧師のMは、そういうダンスを見ながら軽く手を上げて「ハレルヤ」とか言ったり、今にも泣き出しそうな顔をしたりと、まるでダンスを見ながら神様の「臨在」をビンビン感じていて、礼拝せずにいられない、自分にとっては

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    fuminaru 2013/06/04
    礼拝中に披露するダンスに物申したく。
  • 「手を上げて」は礼拝の強要というものだ

    プロテスタントの超教派的な賛美集会やライブが、あちこちで開かれている。大小合わせればけっこうな数であろう。有名なクリスチャンアーティストのものだと、有楽町の国際フォーラム規模になったりもする。

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    fuminaru 2013/06/03
    賛美集会とかで「手を上げて」とか言われると、かなり引きます、という話。
  • 「間の長さ」もいいものだ

    日6月1日は、多くの公立小中高校が運動会だったようだ。 私の子の中学校もそうだったので、観覧させてもらった。先生方やPTAの方々が尽力されているのを見て頭が下がる思いだった。生徒たちも皆一生懸命で、見ていて気持ちが良かった。 まったく文句はなく、逆に何も協力できなくて恐縮なくらいなのだが、一観客の視点として、一つ気になったことがある。それは「間の長さ」だ。 競技と競技の間が長くて、待たされる場面が少なからずあった。 が、大勢の子どもを動かさなければならない訳だから、スムースにできないこともあるだろう。安全面を考慮したらなおさらだ。そういうことを考えると、「何待ちなの?」とイライラするべきではないと思う。そもそも一学校の行事なのだ。お金を払って観覧するショーとは違う。 では何故気になったかと言うと、元牧師のMが「間をあけるな」とよく怒っていたのを思い出したからだ。 礼拝やコンサートや特別集

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    fuminaru 2013/06/01
    元牧師のMは「間の長さ」をガマンできなくてよく怒っていたけれど。
  • I don't know who I am: 福音を語る資格

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    fuminaru 2013/05/31
  • 奪われないとその存在がわからないもの

    で「チャーチスクール」が登場しだしたのは、西暦で言うと2000年前後であろう。2001年の秋、私の教会でもチャーチスクールが始まった。 当時、子どもがちょうど学齢期に達した私は、チャーチスクールか公立学校か、選択することとなった。そして私はチャーチスクールを選択した。 当時に戻れるとしたら、私は公立学校を選択するよう当時の自分を説得するつもりだ。 が、当時は当時で、最善の選択をしたつもりだったのもまた事実である。 当時の自分を分析してみると、積極的にチャーチスクールを選んだというより、公立学校を避けたかったという気がする。チャーチスクールがどんなものなのか、牧師の話から想像するだけだったから、それも当然だろう。それに、自分自身も公立学校に良い思い出がなかった。 私は小学校から高校まで公立で過ごしたが、何が一番嫌だったのか突き詰めて考えてみると、自由がなかったことではないかと思う。 公立

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    fuminaru 2013/05/30
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  • 家族のために「祈る」前に、すべきことがある

    クリスチャンにとって重要なテーマの一つは、「家族の救い(入信)」であろう。 自分が信じる神様を家族にも信じてほしい思うのは、クリスチャンであれば当然のことだと思う。同じ神様を信じて幸せになってほしいし、信じれば死後に天国に行けるからだ。 また実際的にも、結婚式や葬儀なんかで家族が同じ宗教だと都合が良い。それに聖書も使徒行伝16章31節で、「イエスを信じれば、あなたもあなたの家族も救われます」と言っている。 そういう訳で、クリスチャンは自分の家族もクリスチャンになることを願う。 それは全然悪いことでない。 家族の入信のため、まず教会が手っ取り早く採択する方法は「祈り」である。 「家族が救われるために祈りましょう」 次に伝道である。これは聖書の話を家族にすることだ。が、身内がしても説得力がなかったりするので、牧師やリーダーが駆り出されることもある。 この2つを延々と繰り返す訳だが、なかなか入信

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    fuminaru 2013/05/30
    クリスチャンが「家族のために祈りましょう」とよく言うけど、その前にすべきことがあるでしょ。