タグ

ブックマーク / blog.tatsuru.com (5)

  • ツイッターとブログの違いについて - 内田樹の研究室

    『街場の読書論』というを書き上げた。 ブログコンピなので、ゲラをいただいたのは一年近く前なのだが、他の仕事が立て込んでいて、手が回らなかったのである。 ブログのコンピというのは、他にあまりなさっている方がいないようだが、私は「よいもの」だと思う。 書いているときに「これはいずれ単行に採録されるかもしれない」と考えている。 だから、そのときになってあわてないように、引用出典とかデータの数値とはについては正確を期している。 ブログ上で他の方の著書から引用するときに、発行年や頁数まで明記する人はあまりいないが、こういう書誌情報は「あとになって」調べようとすると、たいへんに時間がかかるものである。 ほんとに。 それにそうしておくと、ブログが「ノート代わり」に使える。 ブログには検索機能がついているので、キーワードを打ち込むと、そのトピックについて私が書いたことがずらずらと出てくる。 その中

    fushimatsu
    fushimatsu 2012/01/02
    "言語学では「パラダイム」という言い方をする。 ある語を書き付けると、それに続く可能性のある語群が脳内に浮かぶ。 原理的には、文法的にそれに続いても破綻しないすべての語が浮かぶ(ことになっている)。..."
  • ネット上の発言の劣化について - 内田樹の研究室

    個人的印象だが、ネット上での匿名発言の劣化がさらに進んでいるように見える。 攻撃的なコメントが一層断定的になり、かつ非論理的になり、口調が暴力的になってきている。 これについては、前に「情報の階層化」という論点を提示したことがある。 ちょっと長い話になる。 かつてマスメディアが言論の場を実効支配していた時代があった。 讀賣新聞1400万部、朝日新聞800万部、「紅白歌合戦」の視聴率が80%だった時代の話である。 その頃の日人は子どもも大人も、男も女も、知識人も労働者も、「だいたい同じような情報」を共有することができた。 政治的意見にしても、全国紙の社説のどれかに「自分といちばん近いもの」を探し出して、とりあえずそれに同調することができた。 「国論を二分する」というような劇的な国民的亀裂は60年安保から後は見ることができない。 国民のほとんどはは、朝日から産経まで、どれかの新聞の社説を「口

  • グーグルのない世界 - 内田樹の研究室

    中国政府の検閲の停止を求める交渉が決裂して、グーグル中国から撤退することになった。 香港経由で検閲なしのサービスを開始するが、すでに香港版サイトには中国土からの接続が困難になっている。 接続者の殺到によるものか、中国政府の妨害かはまだわかっていない。 「グーグルが存在しない世界」に中国が取り残された場合、それがこれからあとの中国における「知的イノベーション」にどれほどのダメージを与えることになるのか、いまの段階で予測することはむずかしい。 だが、この「事件」のよって中国経済の「クラッシュ」は私が予想しているより前倒しになる可能性が高くなったと私は思っている。 中国の経済成長はいずれ停滞する。 それは不可避である。 これまで右肩上がりの経済成長を永遠に続けた国は存在しない以上、中国の成長もいずれ止まる。 その成長をブロックする主因は、「知的イノベーション」の重要性を見誤ったことにある。

  • グーグルの存在する世界にて - 内田樹の研究室

    木曜日、学士会館で目覚めて、ぼんやり窓の外を見ながら朝ごはん。 「学士会館朝ごはん、なう。」と Tweet すると、見知らぬ読者から「いま白山通りを歩いています」という reply が入る。 不思議なガジェットだなあ。 mixiとも携帯メールとも、機能がどこか根的に違うような気がする。 「ダイレクトメッセージ」ではなく、「宛名のないつぶやき」に反応する人がいるということが「広大な共生感」(@大江健三郎)をもたらすのであろうか。 よくわかんないけど、とりあえずは「精神衛生上よい」機能を果たしていることは間違いない。 だから、Twitter では「反論」とか「事実誤認の指摘」とかは遠慮してほしいですね。 「グーグル問題」について、いろいろ意見を訊かれる。 私の基的態度は「テクノロジーの進化は止められない」というものである。 とくにグーグルのビジネスモデルは「利用者はサービスに課金されない」

  • 増子化対策 - 内田樹の研究室

    共同通信の取材。 テーマは少子化・未婚化・婚活。 同じテーマで何度もしゃべっている。 同じことを何度も書くのも疲れるけれど、基的なことなので、繰り返す。 「少子化問題」というものは存在しない。 例えば、新石器時代に「少子化問題」というものは存在しなかっただろう(その時代に生きたことがないので想像だが)。 その時代の集団において、「最近、みんな結婚しないし、子供が生まれないのはまことに困ったことだ」というような問題があったとは思えない。 そんな問題をかかえた集団は数世代で(はやければ一世代で)消滅してしまったはずだから、そもそもそれが「問題」として意識される暇さえなかった。 「親族を形成する」というのは人間が人間である基礎条件の一つだからである。 それは「労働する」とか「言語を話す」ということとほとんど同レベルの「当為」である。 「最近、みんな労働ないので、困ったものだ」というような悠長な

  • 1