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ipodとhistoryに関するfutoshi0417のブックマーク (11)

  • iPodの開発(第12話)― 無意識の音楽体験(2)

    前回までのあらすじ 2003年初頭,Apple社は「iPod mini」の開発に着手した。フラッシュ・メモリを使った安価で小型な音楽プレーヤーの市場を奪う狙いである。4Gバイトの1インチHDDの採用で小型・軽量化を追求し,カラフルな筐体でファッションの一部になることを目指した。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年8月2日号,pp.167-169から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) Light not Heavy Metal Danikaらは,筐体の材質も従来のiPodとは変えた。トレードマークだった白のプラスチックとステンレス鋼の代わりに,陽極酸化を施したアルミニウムを用いた。Danikaによれば,アルミニウムはApple社のお気に入りで,多くの製品で採用済みだ。酸化過程で付けた色の,てかてかせず落ち着いた仕上がりも,Danikaらの理想にかなっ

    iPodの開発(第12話)― 無意識の音楽体験(2)
  • iPodの開発(第11話)― 無意識の音楽体験(1)

    前回までのあらすじ 2003年4月に「開店」したiTunes Music Storeは,マスコミやユーザーに熱狂を巻き起こした。最初の1週間で100万曲以上を売り上げ,音楽配信に対するレコード会社の見方を変えた。同時に発売された第3世代iPodは,従来機種よりも薄く軽くなりユーザーを引きつけた。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年8月2日号,pp.165-167から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) カリフォルニアでも冬は寒い。だからDanikaは長袖のシャツを着て,その上にジャケットを羽織った。2003年も終わりに近いある日。細身のDanikaはシリコンバレーの街路を,しなやかに駆け抜けていく。 厚着をした理由はもう1つある。袖の下に隠した「それ」を,誰かに見られるわけにはいかないのだ。幸い,Danikaの二の腕を心持ち盛り上げたそれに,気付いた

    iPodの開発(第11話)― 無意識の音楽体験(1)
  • iPodの開発(第10話)― 怪物レーベルvs.痩身iPod(2)

    前回までのあらすじ 第3世代iPodがヒットした大きな理由が,音楽配信サービス「iTunes Music Store」との連携である。Apple社は,1年数カ月をかけてiTunes Music Storeを準備した。他のサービスと比べて使い勝手を改善した上,5大レコード会社を口説いてユーザーが喜ぶ条件をのんでもらった。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年7月19日号,pp.223-225から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) FairPlay for DRM iTunes Music Storeで購入した楽曲が,iPod以外の携帯型プレーヤにコピーできないことも,音楽業界の安心感を増したようだ。iPodに格納した音楽ファイルは,基的にパソコンにはコピーできない。 Apple社は,当然DRM技術にも気を配った。iTunes Music Storeに

    iPodの開発(第10話)― 怪物レーベルvs.痩身iPod(2)
  • iPodの開発(第8話)― 三度目の正直(2)

    前回までのあらすじ 2001年10月23日。Apple社は,iPodの製品化を発表した。わずか9カ月の突貫工事で発売にこぎ着けたことに,開発メンバーは興奮を隠せなかった。しかし,世間の反応は冷ややかだった。それでもApple社はあきらめることなく,後継機種の開発に取り組んだ。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年7月5日号,pp.182-183から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) Doing Windows 第2世代機の最大の特徴は,Windowsへの対応である。Apple社は,iPodを独立したビジネスとして育てることを,ついに決断したわけだ。iPodの市場を広げるには,Windowsへの対応は必要不可欠だった。 Apple社の狙いは,Macintosh向けのiPodと寸分たがわぬ「体験」を,Windowsパソコンのユーザーにもたらすことだった。

    iPodの開発(第8話)― 三度目の正直(2)
  • iPodの開発(第7話)― 三度目の正直(1)

    前回までのあらすじ Apple社は,東芝の1.8インチHDDやソニー福島のLiポリマ2次電池といった,日メーカー製の部品を用いてiPodを小型化した。同社のマーケティング担当者は,「間違いなく,僕らはソニー以上にソニーらしいことをした」と振り返る。iPodの開発が終盤に近づくにつれて,異様な興奮がApple社を覆っていった。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年7月5日号,pp.179-181から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) 抜けるように青い空だった。2001年10月23日。カリフォルニアの乾いた空気を切って,報道関係者は車を飛ばした。目指す住所は1 Infinite Loop(無限ループ)。米Apple Computer,Inc.の社がそこにある。 記者たちが抱く期待は大きかった。 米国経済は,ITバブルの崩壊の余波から脱していなかった。

    iPodの開発(第7話)― 三度目の正直(1)
  • iPodの開発(第6話)― カリフォルニア,日本,台湾(2)

    前回までのあらすじ Apple社がiPodの開発で外部のメーカーと協力したことは,エレクトロニクス業界ではよく知られている。LSIメーカーの米PortalPlayer,Inc.や1.8インチ型HDDを手掛ける東芝などがパートナーだったとみられる。iPodを分解して分かる部品構成が,これらのメーカーと力を合わせたことを示唆している。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年6月21日号,pp.237-239から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) Make It Smart Enough ファームウエアの開発でApple社の意向を反映した可能性があるのは,例えば楽曲をキャッシュするアルゴリズムである。Portelligent社は分解に先立ってiPodが消費する電力を調べた。その結果判明したのが,HDDの消費電力が,他の部品と比べて段違いに大きいことだった。電

    iPodの開発(第6話)― カリフォルニア,日本,台湾(2)
  • iPodの開発(第5話)― カリフォルニア,日本,台湾(1)

    前回までのあらすじ 「体験を作り出す」という発想に基づいて,開発チームはiPodの仕様を固めていった。ブレーンストーミングの中から,カーソルの移動に使う部品「スクロールホイール」が誕生し,パソコンとの接続にIEEE 1394を使うと決めた結果,楽曲の転送と体の充電を一のケーブルでできるようになった。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年6月21日号,pp.235-237から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) 「記録的な6カ月(record 6 months)」。「iPodの父」の1人とされる米Apple Computer,Inc.のTony Fadellの履歴書にこうある。製品のコンセプトが固まってから,実質6カ月でiPodは出来上がったという。 Apple社は全社の能力を結集して,この難問に挑んだ。しかし,それだけでは足りなかった。iPodのす

    iPodの開発(第5話)― カリフォルニア,日本,台湾(1)
  • iPodの開発(第4話)― 21世紀のウォークマン(2)

    前回までのあらすじ 目標は,2001年のクリスマス・シーズン。iPodの開発チームは,Apple社が抱えるハードウエアやOS,アプリケーション・ソフトウエアの開発部門と連携して,わき目もふらずに作業を進めた。iPodの内容をパソコンの音楽ライブラリと同期させる機能などが,半ば必然的に誕生した。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年6月7日号,pp.158-159から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) The iTune Microcosm 1つの体験をつくり出すという発想は,iPodのユーザー・インタフェースにも多大な影響を与えた。「iPodの重要な点の1つは,iTunesのインタフェースをiPodに反映させることだった。iPodを使ったときに,全く別のことをしているように思わせちゃダメなんだ。例えばiTunesが表示するメタデータを,iPodでもう

    iPodの開発(第4話)― 21世紀のウォークマン(2)
  • iPodの開発(第3話)― 21世紀のウォークマン(1)

    前回までのあらすじ 携帯型音楽プレーヤーの市場調査を任された二人は,Apple社のさまざまな部署の力を借りて製品のビジョンを描き出した。 ひと言で言えば,ポケットにスッポリ収まる大きさに,ユーザーのすべての音楽コレクションを記録できる製品である。Apple社のトップが顔を揃えた会議で,彼らの提案は承認された。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年6月7日号,pp.155-158から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) 2001年春のシリコンバレーはどん底だった。2001年3月12日付のNASDAQ総合株価指数は1923。ほんの1年前に記録した過去最高の 5048と比べ,実に61.9%も下落した。いわゆるITバブルの崩壊である。インターネットが見せたニュー・エコノミーの夢は,シャボン玉のようにはじけて消えた。昨日までの花形企業をレイオフが席巻し,閉ざした

    iPodの開発(第3話)― 21世紀のウォークマン(1)
  • iPodの開発(第2話)― 林檎の樹の根回し(2)

    前回までのあらすじ 2001年初め,Apple社のマーケティング担当者一人と技術者一人に,携帯型音楽プレーヤーの市場調査の命が下った。それが,わずか9カ月後に登場した「iPod」の発端だった。調査の結果,彼らはApple社が取り組むべき機器は,既存の製品と全く異なることを見いだした。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年5月24日号,pp.216-217から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) Labor of Love この資格を満たす製品像を浮き彫りにするため,2人はさらに調査を進めた。その過程は,Stanがこれまで経験したどの製品の場合とも違っていた。彼がApple社に入社して既に6年がたつ。その間に,「PowerMac」から教育用のデスクトップ機,サーバに及ぶ幾多の企画を担当した。今回の開発は,いずれにも似通わない。何しろApple社にとっても

    iPodの開発(第2話)― 林檎の樹の根回し(2)
  • iPodの開発(第1話)― 林檎の樹の根回し(1)

    携帯型音楽プレーヤー「iPod」は,パソコン企業だった米Apple社をデジタル家電の台風の目に変えたばかりか,人々の音楽の聴き方やライフスタイルにまで影響を及ぼした。この物語は,その開発の裏側を追ったものである。そこには,後にiPhoneMacBook Airを生むに至った,独特な開発手法や企業文化が垣間見える。(以下の文は,『日経エレクトロニクス』,2004年5月24日号,pp.214-216から転載しました。メーカー名,肩書,企業名などは当時のものです) 最初にいたのは,たったの2人だけだった。1人がマーケティング,もう1人は技術の担当である。この2人に,携帯型音楽プレーヤの市場調査の命が下った。2001年初めのことだ。 その年のクリスマス・シーズン。わずか9カ月余りで,製品が店頭に並んだ。製品の評判は上々だった。ただし売れ行きについては,世評が相半ばした。同社として全く経験のない

    iPodの開発(第1話)― 林檎の樹の根回し(1)
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