ブックマーク / stellacreate.com (14)

  • 一級河川と二級河川の違い

  • 幕臣になってしまった渋沢栄一

    一橋家で着々と実績を積み重ねる栄一。当時の一橋家の風通しの良さもあり、1865年には勘定組頭になり、新たな仕事も請け負う様になります。同じく一橋家に仕官した渋沢喜作も軍制所調役組頭に抜擢され、栄一と喜作は、それぞれの長所を認められて共に出世するのでした。しかし、ここで思わぬ大事件が起こります。 慶喜、将軍になる 苦戦する幕府 当時、長州征伐のために幕府は諸藩から兵を集め、将軍・徳川家茂自身も自ら出陣しました。紀州藩主・徳川茂承(もちつぐ)を第一陣の総督として、幕府は長州に軍を進めますが、どこもかしこも旗色は悪く、そうしているうちに家茂も大坂で病死してしまいます。そして、幕府は慶喜を将軍に迎えようと画策していました。 栄一の考え 栄一としては、慶喜が将軍になるのは反対でした。栄一は、徳川宗家と一橋家が共倒れになることを避け、日の国力を底上げする構想を抱いており、具体的には、 慶喜は京都守衛

    幕臣になってしまった渋沢栄一
  • 渋沢栄一の歩兵取立御用

    栄一と喜作が関東で人撰御用の旅に行って、少しは一橋家の家臣が増えましたが、それでも増えたのは、主に役人と言われるような人だけでした。江戸時代の大名家は軍隊を持っていましたが、一橋家には軍隊と呼ばれるような兵力は持っていません。そこで、栄一は募兵の旅に出ます。 一橋家の兵力増強 そもそも一橋家の名前の由来は、江戸城の一橋門の屋敷から来ています。関ヶ原の戦いや大坂の陣と言った戦国末期から江戸時代初期に成立した大名家とは違い、将軍の後継者を輩出するための存在でしたので、領地は10万石くらいありましたが、武蔵・下野・下総・越後・摂津・和泉・播磨・備中と言った各所にちょっとずつ領地があるという状態です。そして、兵力がほとんどありません。 栄一の頭の中には、「国を強くするために、一橋家を強くする必要がある」という方針があったので、現状を憂います。一橋家の当主や重臣を警護するための兵士が少しいたくらいで

    渋沢栄一の歩兵取立御用
  • 【信長の野望】前田利家の能力値が低いので勝手に再評価する

    知略以外は一流クラスの武将の能力値に近づけています。 統率 80→80(±0) 信長の赤母衣衆の筆頭格で与力も多く、また、豊臣政権下では屈指の大大名になり、多くの家臣団を抱えていました。ただし、大軍勢を率いて合戦を制したという功績は多くないため、太志の統率値は80にとどまっています。これはコーエーさんの評価は妥当どころか少し高めだと思います。秀吉没後の家康の行動を一定程度制したということもあり、戦場の統率力というよりも、大きな戦を起こさない統率力もあると言えます。コーエーさんの評価を支持します。 武勇 86→93(+7) 信長直臣時代が長く、また、「槍の又左」と言われるくらいの槍の名手であります。初陣で信長が「肝に毛が生えている」と言われるくらいの猛者です。姉川合戦でも信長から「今にはじまらず比類なき槍」と褒められています。願寺攻めでの撤退時には、味方を逃がすためにその場で踏みとどまって

    【信長の野望】前田利家の能力値が低いので勝手に再評価する
  • 一橋家に仕官する渋沢栄一

    資金が尽きる 渋沢栄一と渋沢喜作は平岡円四郎のツテで京へ向かうのですが、江戸と京へ向かう道中で父から貰った100両のうち、30両を使ってしまいます。現代でも江戸時代でも旅はお金がかかりますので、仕方ありません。そして、京へ着いてから、宿代や交際費に使い、伊勢神宮への参詣でもお金を使ったため、いよいよ懐事情が危なくなってきます。三条小橋脇の茶屋久四郎の家である「茶久」という上等な宿に泊まっていましたが、宿の主に掛け合って、事が三だったのを朝晩の二にして、宿代を1泊400文にしてもらいました*1。 長七郎からの手紙 さて、少しばかりひもじい思いをする栄一と喜作ですが、それでも倒幕を画策していました。京に着いてからというもの、志士たちとの交流の中で、世の中の情報を収集していました。しかしながら、どうも時勢は公武合体*2の勢いが優勢の模様です。そこで、故郷の尾高長七郎に、「いずれ幕府は外交問

    一橋家に仕官する渋沢栄一
  • 京へ向かう渋沢栄一

    僅か69名で高崎城を乗っ取ると言う、捕らぬ狸の皮算用の挙兵計画が中止になった渋沢栄一とその一味。挙兵計画が中止になったとはいえ、村に槍や刀などの武器を持ち込んでいたことで領主から目をつけられていたこともあり、伊勢神宮への参詣という名目で実家を出て、渋沢喜作と共に京へ向かいます。 京の都に向かうアテ まず、伊勢神宮への参詣という名目で京に行くのですが、関所を通るには手形が必要です。どうやって関所を通過出来たかというと、平岡円四郎の家来という名義の手形を江戸で手に入れたからです。 平岡円四郎は徳川慶喜(当時は一橋慶喜)の用人であり、若いころから聡明であったため、川路聖謨といった有力旗や藤田東湖の様な水戸藩士に認められて、慶喜の小姓を務めていました。栄一が江戸で学んでいた際、平岡円四郎の部下である川村恵十郎が「百姓育ちにしては、面白い奴だ」と言って、栄一と渋沢喜作を平岡円四郎に引き合わせていま

    京へ向かう渋沢栄一
  • 未遂に終わった渋沢栄一の高崎城乗っ取り計画

    外国を排除し、天皇を中心とした国家を作ろうとした幕末の志士たちは全国に数多くいました。渋沢栄一もまた、尾高新五郎に感化され、尊王攘夷の志を持っており、栄一が24歳のころ、壮大な挙兵計画が練られていました。 挙兵計画の全容 尾高新五郎や渋沢栄一が挙兵計画を立てます。栄一が少年期より学問を教わっていた尾高新五郎に感化され、小さな村で志士が集まり、幕府を打倒しようという志を持って、とんでもない無謀な計画を立てていました。その計画の大まかな内容は以下です。 高崎城を乗っ取る 鎌倉街道経由で横浜に向かう 横浜で焼き討ち こんな感じに都合の良い挙兵計画を練り上げたのです。こんなことに賛同するのかと疑問に思うかもしれませんが、賛同した志士は少なからずいました。そして挙兵計画のメンバーは次の通り。 主将:尾高新五郎 副将:尾高長七郎、渋沢喜作、渋沢栄一 賛同した志士:真田範之助、佐藤継助、竹内錬太郎、横川

    未遂に終わった渋沢栄一の高崎城乗っ取り計画
  • 本当に読んでおきたい渋沢栄一の本5選!自己啓発本は読まなくてOK!何故なら…

    渋沢栄一の伝記については多くのが出版されています。その中でも、『父 渋沢栄一』には、渋沢秀雄氏が実際に父から直接聞いた話も書かれているため、他の伝記とは一線を画してます。また、渋沢栄一の子息、つまり渋沢秀雄氏の兄弟とのやり取りも書かれており、他の伝記では知りえないエピソードも満載です。 その中でも、渋沢栄一のパワフルなエピソードが書かれています。渋沢秀雄氏が学生時代、兄弟でトランプをしていると、夜遅くに帰って来た渋沢栄一が一緒になってトランプに興じ、結局、朝までトランプをするのですが、徹夜明けの秀雄氏ら兄弟は昼まで休む一方、渋沢栄一はそのまま仕事に出かけるという、家族ならではのエピソードなどが盛り込まれています。 『渋沢栄一 近代日社会の創造者』 教科書で有名な山川出版社から出版されている日史リブレット人のシリーズ。

    本当に読んでおきたい渋沢栄一の本5選!自己啓発本は読まなくてOK!何故なら…
  • 権力に立てついた若き日の渋沢栄一

    渋沢栄一が17歳の時、父の名代で岡部藩の陣屋に出向くことになった時、しかし、そこで待ち受けるのは身分の差と権力を振りかざして理不尽な要求をする代官でした。栄一は、この理不尽な要求に立てつきます。当時ではありえないことでした。 江戸時代の上納風習 身分制度 江戸時代の身分制度はザックリと説明すると、士農工商でした。武士・農民・職人・商人という大きな構成す。この身分制度の定義自体は小学校教育で習うもので、当時生きていた人は実際に士農工商という意識はなく、武士が権力の頂点に立ち、農村に住んで農業を営んでいる農家がいて、都市部に職人が大工などの肉体労働者と卸売や小売りを営む商人がいるという状態でした。 ただし、後に政商と言われる商人によって生殺与奪を握られている武士がいるなど、一部の商人は力を持っていました。 上納という風習 現代ではなかなか考えられませんが、上納という風習が一般的でした。例えば、

    権力に立てついた若き日の渋沢栄一
  • 迷信を信じなかった少年時代の渋沢栄一

    渋沢栄一は少年時代から農家とは思えないほどの教育を受けており、知識は豊富で、理路整然と話すことが出来る少年でした。父の影響もあってか、迷信というものを信じておらず、修験道者をやりこめたという話があります。 迷信を理論で打破する 迷信に頼る曾祖母 栄一が14歳ごろ、栄一の姉・お仲に縁談の話が持ち上がっていました。特に問題もなく、縁談の話は調子よく進んでいましたが、実は、お仲の縁談相手の家の血筋は「狐憑き」ということを、栄一の祖父が聞きつけ、縁談は取りやめになりました。 狐憑きというのは、狐(キツネ)の霊に取り憑かれて錯乱し、精神病の様に異常な状態になってしまうことです。昔からある迷信ですが、江戸時代は狐憑きの迷信が広まっていました。 さて、不幸なのはお仲の方です。縁談が取りやめになり、当のお仲は相当ショックだったのか、精神的に病んでしまいました。ずっと泣いていたり、呼吸困難の様な硬直状態にな

    迷信を信じなかった少年時代の渋沢栄一
  • 医者の真似をして商売をした渋沢栄一

    渋沢家の家業 当時の渋沢家の家業は、父・渋沢美雅(市郎右衛門元助)が藍玉の製造と販売で大きな成功をおさめ、その他、養蚕・畑作・荒物(箒やちりとりなどの大きな雑貨)にも手を広げていました。いわゆる多角経営です。 渋沢家の藍玉製造・販売についてはこちらをご覧下さい。 www.stellacreate.com 多角経営を行っていた渋沢家。栄一は田畑を耕し、種をまき、草刈りをし、下肥担ぎを行うなど、百姓としての一歩をスタートしました。ですが、渋沢家はただの農家ではありませんので、もちろん、栄一も商売に駆り出されています。 医者の真似をして商売をする 藍葉の買い入れ 藍玉の製造・販売を行っていた渋沢家は、藍玉の原料となる藍葉の生産をあまり行っていませんでした。藍葉の製造にはとても労力がいるため、渋沢家で全てをまかなうことは出来ず、藍葉の生産をしている農家から買い入れていました。 栄一が14歳の時、そ

    医者の真似をして商売をした渋沢栄一
  • 信長「このまんじゅう食べてみ」荒木村重「…パクッ」

    荒木村重は織田信長に対して謀反を起こし、1年近く有岡城で抗戦した後、単独で脱出、その後、名前を道糞と改めて茶人となり、出家して道薫と名乗った武将として有名です。 信長に謀反を起こしたということは、信長に臣従していた時期があります。どうやって信長に臣従したかというエピソードは、現代サラリーマンもびっくりのパフォーマンスで信長に認められたと逸話が残っています。 突き刺された饅頭をべる 荒木村重は摂津国を治めている大名でした。池田勝正の家臣として働いて、勝正の嫡子とされている池田長正の娘と結婚し、池田家の重臣として仕えていましたが、長正の長男・池田知正と三好家に寝返ります。知正に「勝正(父)を追放するように」と吹き込み、その混乱している池田家を掌握します。 摂津国内で勢力拡大のために戦を行っている村重の話を聞いた織田信長が村重を気に入り、村重は信長と対面することになります。その時、村重は信長に

    信長「このまんじゅう食べてみ」荒木村重「…パクッ」
  • 黒田官兵衛「お前、左手何してたん?」

    官兵衛は大河ドラマ『軍師官兵衛』の主人公としても描かれていました。序盤はさわやかなイメージでしたが、荒木村重によって投獄され、家臣によって救出された後、徐々にブラックな部分が出てきました。大河ドラマでは、最終盤で野心剥き出しで、関ヶ原の九州方面での戦いでは九州を席巻して天下を目指しましたが、息子・長政の活躍もあり、その夢は途絶えてしまいます。 関ヶ原の戦で大活躍した息子・長政が、官兵衛に関ヶ原の報告をした時の逸話です。 「家康殿はどちらの手を握ったのだ」 1600年、関ヶ原の戦いで東軍についた黒田長政は、豊臣恩顧の大名をまとめあげ、西軍大名の裏切りの調略に奔走し、関ヶ原戦でも黒田家は大きな戦果をあげました。関ヶ原での戦闘が終わり、長政は東軍の総大将・徳川家康に会いに行きます。 長政「家康殿、此度の戦の勝利、おめでとうござりまする。」 家康「いやいや、長政殿のご活躍があってこその勝利。

    黒田官兵衛「お前、左手何してたん?」
  • 北条氏政「味噌汁足りない…かけなきゃ」氏康「(こりゃ、北条滅ぶわ…)」

    毎日繰り返していることは、無意識のうちに行動してると言えます。朝起きて、顔を洗って、歯を磨いて…と言うことを意識的にする人は居ないと思います。しかし、毎日繰り返していることなのに、同じことが出来ないという人もいます。それは個人差があるので仕方がありません。 ただし、それは個人であって、一国の主、戦国大名となれば話が違います。今回の話の主役は、毎日味噌汁かけご飯をべていた北条氏政さんです。 二度汁かけご飯で後北条氏が滅んだ? ある日の事。北条氏康・氏政親子が一緒に事をしていました。 氏政「汁かけ飯は毎日べても飽きないなあ。」 氏康「そうかそうか。」 仲のよさそうな親子の事風景です。氏政は汁かけ飯が大好きなので頻繁にべていたみたいです。氏康との事でも汁かけ飯をべていました。 氏政「ズズズ…ん?汁が足りないなあ。」(つぎ足す) 氏康「…」(眉をひそめる) 氏政「うまいうまい。」 そ

    北条氏政「味噌汁足りない…かけなきゃ」氏康「(こりゃ、北条滅ぶわ…)」
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