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ブックマーク / bocchinohitorigoto.hatenablog.com (2)

  • 自分が認められる自分でいられるために - とある京大生の人生観

    この記事は『価値観の共有は可能か?』で話した体験の感想の続きである。 あの記事の途中で「異なる意見を自己の否定と捉える種類の人」の話をした。 年代や地域によって分布が違うかはなんとも言えないが、このタイプの人種はそれなりに存在していると思う。 少なくとも私の周りには結構いる。 私はこのタイプの人間ではないので、会話において他者の異なる意見を楽しめる。。 というか、100人いたら100種類の意見があると思っているので、異文化交流の気分で異なる意見をとりあえず聞いてみる。 しかし、異なる意見を楽しめない人は間違いなく存在している。 そういう人がいると揉める必然性がない議論で無駄に揉める。 なぜ彼らは異なる意見を「否定」と捉えるのだろうか。 否定しているわけではないと言っても、声を荒げるのだろうか。 彼らは私の意見に反論をしない。 私が『意見A』だと思う、と意見を呈示した際、なるほど私は『意見B

    自分が認められる自分でいられるために - とある京大生の人生観
  • 曰く、「効率化が余裕を滅ぼした」 - とある京大生の人生観

    前回「人生に無駄〜」では、効率化が社会の無駄を省いていることを述べた。 特に顕著なのは時間だろう。 少し前なら20分かかっていた調べ物も今では3秒で終わるし、休日自ら買いに行く必要もなくクリックひとつでほしい品物が届く。 昔なら考えられないくらい便利な社会になった。明らかに昔より自由に使える時間が増えた。 だから来なら昔よりも時間的にも精神的にも余裕が生まれるはずだ。 だが、今の日当に余裕があるだろうか。余裕を感じる力があるだろうか。 私はそうは思えない。 尤も昔をよく知っているとはとても言える年ではないが。 だが、今を生きる人達を絶対評価したとしてもとても余裕があるとは思えない。少なくとも効率化がくれた時間的余裕分をそのまま享受しているとは思えない。 もちろん余裕を失う原因は1つではないと思っている。 膨大な選択肢の可視化や情報の即時性の向上など色々あると思う。 しかしそれらと同

    曰く、「効率化が余裕を滅ぼした」 - とある京大生の人生観
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