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  • 進化の意外な順序/アントニオ・ダマシオ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    今年は僕の読書的には当たり年だ。 このアントニオ・ダマシオの『進化の意外な順序』も当たりだった。 人間の意識というものを、冷たい電気のパルスのようなものに還元してしまわずに、生物が蠢きながら行う化学的なやりとりとも切ってはきれないものであることを暴くことで、哲学的な二元論の伝統を破壊するという、きわめて僕好みな内容だったからだ。 その意味で、内容は、タイトルである「進化の意外な順序」よりも副題である「感情、意識、創造性と文化の起源」のほうがそれを表している。 感情や意識や創造性に文化と並んでしまうと人間にフォーカスが当たっているように思えるが、そうではない。「起源」とあるように、感情や意識がどこから来たかという問いに対する回答が、細菌や社会性昆虫などの地点から語られる。 「意外な順序」といわれるのは、文化的な社会につながりそうな利他的な活動の選択が、心を持たないはずの単純な動物にも「協調」

    進化の意外な順序/アントニオ・ダマシオ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/09/03
  • 周囲への気配り(=外部へリソースを配分する)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    僕が働くロフトワークという会社には、半期に一度、他の人に自分の良いところを褒めてもらう360°レビューという仕組みがある。 一度に3人から5人程度、レビュアーを指名し、指名された側は相手の良い点をちゃんと言語化して伝えてあげるというものだ。 他人への好評価を言葉にする楽しさいつもいっしょに仕事をしていてもなかなか日常的には言語化しないようなところにまで言及してもらえることが多いので、レビューしてもらった側はとにかくうれしくなる、がんばってきてよかったという気持ちになりやすい。 そんなところまでちゃんと見てくれていたんだと思えたり、僕のような歳になると若手がちゃんと努力して自ら成長しようとしてるんだということにもあらためて気づけて嬉しくなる。 レビューを書くこと自体も、僕は楽しい。 あらためて、いっしょに仕事をしている人の良いところを言語化することを通して、あらためて認識しなおしていくことに

    周囲への気配り(=外部へリソースを配分する)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/31
  • 思いがけない出会いを呼びこむ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ひそかに取り組んでいたこと、別々に手がけていたことが何かのきっかけにつながって、より面白い展開が新たに見えてくることがたまにある。 そういうときは「おおっ」と思って、当に興奮する。 念じれば通じるというのを信じているわけではないが、何か仕掛けておくと、そこに何かが引っかかってきて、新たな展開が生まれるチャンスが得られやすいということは信じている。 僕自身の経験からいうと、特に、あまり人が手をつけてない領域で、たぶんこれから見込みがありそうなと予感がしたら手をつけておいた方がいい。そこに手を付けておくと、予期せぬチャンスが得られる確率は高くなる。 それ、単品では何も起こらなくて、それこそ何かの拍子に他の何かとつながって物事が動きはじめたりする。 そんなことが時に起こるので、まだまわりのみんなが手をつけてないことでも自分で気になることは手をつけておくと良い。 知的テリトリーを広げるのに読書

    思いがけない出会いを呼びこむ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 質より量|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    質より量を重視すること。 それはブレストやワークショップなどでのアイデア出しの際のお作法としても言われるし、プロトタイピングを通じてユーザーニーズの有無やサービスの方向性等の仮説検証を行う場合においても基となる方針だ。 細菌はいきなり人間に進化しない共通する考えは、複数の多様な人々が絡んでの価値創造的な場面においては、質の高いアウトプットをいきなり一発で出すことを狙うより、多様な方向性や視点をもった考え方をとにかく量を出してみて共有したり、テストしたりすることの繰り返しや積み上げを通じて、漸進的に質を上げて行くほうが結局は成功への近道だということだ。 生物進化においても、いきなり細菌のような単純な構造のものが人間を代表とする哺乳類のような複雑な構造を持つものには進化しない。 実際の進化が幾重にも段階を重ねて人間にたどり着いたように、標的になるものが遠くにあるほど、質より量を基にした戦略

    質より量|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 影の歴史/ヴィクトル・I・ストイキツァ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    「絵画の誕生について知られていることはほとんど何もない」。 古代ローマの博物誌家・大プリニウスが『博物誌』で書いたのを引きながら、『影の歴史』の著者ヴィクトル・I・ストイキツァは、「しかし」といって、こう続ける。 ひとつだけ確かなのは、人間の影の輪郭を初めて線でなぞった時に絵画が誕生したということである。影。対象物によって光が遮られた部分を示す、ネガとしての図像だ。 「西洋の芸術表象の誕生が「陰画=否定(ネガティヴ)」にあるということは、きわめて重要だ」とストイキツァは書く。 その誕生からはるか時が流れた啓蒙主義(en•light•ment)の時代なら、蒙(くら)いものに光を当てて明らかにすることこそが絵画の役割と考えられた。しかし、その起源においては、むしろ真逆な形で光を閉ざしたところで絵画は始まったというわけだ。 このは、これまで光の芸術として描かれてきた視覚芸術の歴史を、影という正

    影の歴史/ヴィクトル・I・ストイキツァ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/22
  • お気に召すまま/シェイクスピア|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    牧歌という理想郷的自然。それほど人工的な夢想はない。 そこは自然の見せかけで彩られてはいても、あまりに人間じみた時のとまった世界である。 『シェイクスピアの生ける芸術』のなかで著書のロザリー・L・コリーは、シェイクスピアの『お気に召すまま』について、こう書いている。 このロマンティック・コメディの大枠の構造は、まさに標準的な牧歌劇の型―― 追放や出奔の後、自然界で休息=再創造(リクリエーション)としての滞在をし、そしてついには、流謫の地から「来の住処へと」帰還する、それも田園で同胞(kind)と情(kindness)に触れることで道徳的な力を強められて帰還するという型―― を踏まえている。「自然界で休息=再創造(リクリエーション)としての滞在」、そして、帰還。 なんとも夏休みに読むのにぴったりのではないか。 だから、僕も夏休み最終日にさくっと読んだ。1時間ちょっとでさくっと読めるのがシ

    お気に召すまま/シェイクスピア|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/21
  • したいこと|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    仕事をうまくやる、早く効率よくやるための1番の方法は、したいことをしたいようにやるようにすることだと思う。 仕事がなかなか思うように進まなかったり、仕事からストレスを受けがちな人は、自分がしたいと思うことをちゃんとしたいようにするためにはどうすればいいかを考えないまま、仕事をはじめてしまっているのではないか?と思う。 したいこと、イメージできてる?したいことをするためには、何がしたいかがわかっていないと始まらない。 当然のことを書いてるようだけど、何がしたいかをわかるのも実はひとつのテクニックだと思う。 いや、ひとつのテクニックかはあやしい。複数のテクニック群かもしれない。 とにかく、自分が何がしたいかをちゃんと思い浮かべられるようになるのは、そんなに自然なことではない。 まず、ある程度は物事を知らないと、したいものを選ぶ際の選択肢を思い浮かべるのだってままならない。だから、したいことを探

    したいこと|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/15
  • ヨーロッパ文化史についてのおすすめ7冊|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    世の中、夏休み。 台風の影響でなかなか出かけられなかったりする人もいるであろうということで、ヨーロッパ文化史に関しては比較的いろんなを読んでいる僕がおすすめの7冊をご紹介。 書く前はただ普通におすすめのを順に紹介しようとするだけのつもりだったが、書き始めると、我ながらヨーロッパの文化というものをなかなか鋭い角度で切り込んで俯瞰したものになった。 長いが、それなりのものになってるので、ぜひご一読。 で、紹介するのは、この7冊だ。 スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ/ジョルジョ・アガンベン 最初に紹介するのは、イタリア人哲学者ジョルジョ・アガンベンの1977年の著作『スタンツェ』。 ヨーロッパ中世における言葉とイメージによる文化を扱ったものだが、ここで明らかにされる中世の人々の思想世界はなかなか興味深い。 例えば、愛。 「中世の心理学によれば、愛とは質的に妄想的な過程であり、人間

    ヨーロッパ文化史についてのおすすめ7冊|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/14
  • クリスチャン・ボルタンスキー回顧展 Lifetime @国立新美術館|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    この感じ、知ってる。 国立新美術館で開催中のクリスチャン・ボルタンスキー回顧展「Lifetime」の展示でのメイン一室ともいえる撮影不可の大きな展示空間での作品を観ながら、そう感じた。 それはフランスの大聖堂の地下にあるクリプトの雰囲気そっくりだった。 地下礼拝堂でもあり、地下墓所でもあるクリプト。あのすこし恐怖感を感じるクリプト内部に入ったときの雰囲気に、ボルタンスキーのメイン展示空間の雰囲気はそっくりだと感じた。 そこは死体なき死のイメージの安置所だった。 死体なき死の安置所それなりの多くの人混み鑑賞しているにも関わらず、なぜか声もなく静まりかえった展示空間は薄暗く、祭壇のような形で並べられたいくつもの見知らぬ人々の顔写真を照らす灯りがぼんやりと会場全体を明るませる。顔写真のそれぞれの下には蓋が締められたり、布をかぶせて中を見えなくした箱が重ねて積まれていて、それが祭壇上のかたまりを作

    クリスチャン・ボルタンスキー回顧展 Lifetime @国立新美術館|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/11
  • イメージ人類学/ハンス・ベルティンク|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    僕らはきっと実際の物事を見ているより、イメージを見ている方が多い。 そう思うのは、単にスマホやPCテレビの画面に映し出された静止画や動画に目を向けている時間が長いからというだけではない。街にさまざまなグラフィック広告があふれかえっているというからというのでもない。 そもそも、実際目の前に人間やその他さまざまな物事があっても、果たして僕らは当にそれらの実在のものに目を向けているのだろうか?と思うからだ。 もちろん、僕らは世界を見てはいる。 けれど、意識にのぼってくる視覚情報はそんなに多くはない。 考えごとなんかしてたら、頭のなかのイメージが優先されて目の前のものがほとんど見えなくなる経験は誰にだってあるはずだ。 来は目に入っているのに、意識からは省略して消してしまっている部分が大部分なのだろう。 そして、残った部分がイメージであると言いたいが、実際はベルクソンが言っていたように、それは

    イメージ人類学/ハンス・ベルティンク|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/10
  • 再物質化するイメージと動きだす世界|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    物事を変化で捉えることが大事だ。 そのことをここ最近はいろんな書き方で繰り返し書いてきているだけのような気がする。 こうまでして、何度もそのことについて書こうと思うのは、逆に世の中のものの見方が静的、固定的な見方に偏重しているように感じてならないからだ。 単純なことでいえば、想像力がない。 いま目の前にあることしか考えの対象にできず、次に何が起こるからとか、自分がそこに存在することやこれから行なうことで何が変化するかを想像して、いろんな判断ができないし、思考ができない。だから、常に現実の変化に出遅れて、あたふたと見当違いの対応を無駄にすることになる。 もちろん、それは自分にとっても、周りにとっても害にこそ、益にはならないので、みんなストレスがたまる。その極端な例が環境危機、気候変動や資源不足などの問題といってよい。 想像力なさゆえの出遅れ感が甚だしい。 ヴィジョンと計画が欠けてもちろん、地

    再物質化するイメージと動きだす世界|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/10
  • 人工補装具(プロテーゼ)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    もっともっと、ちゃんと常識にとらわれず、知識や言語やさまざまなイメージなどの人間的な錯覚を強いるものに惑わされることなく、現実を、現在を生きていたいと思う。 それは正しい答えを見つけるということではなく、答えという静的なまやかしに安住してしまう罠を免れて、常に自らが何に捕らえられているのかを反省しつつ、そのヴェールの奥にあるものを探求し変わり続ける姿勢ではないかと思う。 まわりはひとつも悪くない。 いつでも間違いは自分の側にあり、自分の未熟さに原因があるのだから。 現在見えている風景は自分が作っているものであって、自然やまわりが作ったものではない。自分のやったこと、やらなかったことの結果が常に目の前にある。だから、どんなに自分に不都合なことが起きていたとしても、それは常に自業自得でしかない。 それに気づかず、周囲に不満をいって何かから自分を守ろうとしているつもりなのであれば、とんでもない過

    人工補装具(プロテーゼ)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/07
  • 肖像に話しかけて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    不在の者の代理としてのメディア。 ハンス・ベルティンクは『イメージ人類学』で、死者の代理として、その人のイメージを再現する太古のメディアの意味について書いている。 メディアには、死者崇拝という太古の範型が存在する。死者は失った身体を像と交換し、生者たちのあいだにとどまる。このような交換によって実現される死者の現前はただ像においてのみ可能であり、イメージ・メディアは死とイメージとの象徴的交換を遂行する生者たちの身体に対して存在していたばかりでなく、同時に死者たちの身体の代理も務めていたのである。 いなくなった死者の代わりに生者たちのあいだに置かれる像は、いなくなった祖先たちの代理をする。 ただ、不在の理由は、死でなくても構わない。いわゆるアバターも不在のユーザーの代理を行うものだ。 メディアとイメージベルティンクは、メディアとイメージを分けている。 絵画というイメージは、壁やキャンバスや紙な

    肖像に話しかけて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/07
  • 記憶と妄想と性愛と|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    昨日、会社の同僚と話していて、「怠惰について書いてあったnoteが面白かった」と言われたのだが、その場では「え、そんなこと書いたっけ?」とまったく思い出せなかった。 けれど、おかしなものでその同僚と別れて帰宅する途中、ひとりで歩いていると何のきっかけもなくふと、「あ、そうか、ジョルジョ・アガンベンのでそういう話を読んで書いた気がする」と思って、家に着いて調べてみると、確かにあった。 これ。 あんなにさっぱり記憶になかったものが、一度、思い出しはじめると、アガンベンの『スタンツェ』を読んで書いたものだと思い出したし、中世における「怠惰」という概念がいまとまったく異なるものだったことも思い出した。 ジョルジョ・アガンベンの『スタンツェ』を読んでいて、中世における「怠惰」が、いまの、働くのをサボるとか、やるべきことをやらずにいるとかいう意味とはまったく異なっていたことを知って、なるほど、と感じ

    記憶と妄想と性愛と|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/07
  • 物質と記憶/アンリ・ベルクソン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    「知覚を事物の中に置く」。 ベルクソンの、この常識的な感覚とは異なる知覚というものの捉え方が、より常識はずれながら、哲学がなかなかそこから抜け出せない精神と物の二元論の罠から逃れるきっかけとなる。 知覚を通常考えられているように人間の内面の側に置くのではなく、身体が運動の対象としようとする物の側に置く転倒は、ベルクソンの『物質と記憶』の数ある「目から鱗」な考えの1つだ。 そう1つ。このには他にもたくさんの「目から鱗」な事柄がたくさんある。 そして、そのどれもが納得感のあるもので、僕はこので一気にベルクソンのことが好きになった。 『有限性の後で』より前に昔から、どうしても腑に落ちなかった。哲学が、物質と精神を執拗に分け隔ててしまうことが、だ。 ひどいもの(メイヤスーが「強い相関主義」と呼ぶもの)になると、カントの物自体への接近不可能性を超えて、認識できない存在(物自体)を考えること自体、

    物質と記憶/アンリ・ベルクソン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/08/03
  • 共創とわかりあい|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    共創という形で、多様な人々といっしょに何かを進めようと思えば、互いにわかりあうことが大事なんじゃないだろうか? 他の何をおいといても、互いにわかりあうことを大事にしていれば、そうそう困ったことは起こらないし、仕事を進める上での一体感や信頼感が醸成される。 逆に、わかりあうことを誰かがさぼりはじめた時から問題の火種はくすぶりはじめるし、チーム全体が不信感に包まれたりする。 わかりあうことにかかる労力より、一度燃え上がった火を消す労力のほうや不信感を拭う労力のほうが圧倒的に大変なのに、どうしてはじめからわかりあうというタスクをちゃんとやろうとしないのだろうかと思う。 しないのではなく、できないただ、わかりあうことをしないのではなく、わかりあうことができないという場合の方が多いのだろう。 やる気の問題以上に、技術の問題だ。 やる気が出ないのも、技術が伴わずできないから、やる気もなかなか出にくいの

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    gitanez 2019/08/01
  • 動物としてのバランス|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    物事の行いやすさというのは、体系化された手法の中にあるのではなく、もともとの身体の感覚がもつ性質に忠実かどうかだと思っている。 手法から入るのではなく……いまから10年以上前に「デザイン思考」のを書いたときも、デザイン思考を手法として利用する以前に、自身の感覚を研ぎ澄ませて、感覚に従った判断ができるようになっていないと、オブザベーションも、KJ法を使った発想もできないと思って書いた。 すこし前に「理解力と転換力」という記事で、手法だけでは足りず教養が必要だと書いたのも、手法よりも教養という記憶の延長にあるものの方が、身体に伴う機能に親和性が高く、すぐに思考を含めた行動に結びつきやすいと思っているからだ。 手法から入ってしまうと知識と身体の連動がうまくいかない。 だって、手法としての体系化する際の説明はたいてい間違ってたり、説明を欠いていたりするから。それでは考えることと身体の動きがバラバ

    動物としてのバランス|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/07/29
  • 質量をもった大切なピースたち|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    気持ちよく過ごすためにはそのための行動がいる。うまくやるためにはそうなるようにしないといけない。 自分から、そういう風に仕掛けないのにうまくいくことを望むのは、なかなか図々しい。良くない結果を望まないなら、自分で考え、ちゃんと仕掛けていく必要がある。 楽しく楽してやれるように考えることが大事だと思う。 まわりも自分も楽しみながら必要以上の苦労なく過ごし、目指すべきところに向かうためには、どうしたらいいかを考え、実行する。 そうしてはじめて、物事はうまくいく。 自業自得人間は、物理的な大きさを持たない抽象的な点などではない。 どこにいるにしても、何をやるにしても、そっと気配を消しているつもりであっても、「自分」という存在はちゃんと物理的に存在していて、まわりの環境に影響を与えている。 通り道の真ん中で立ち尽くしていれば通行の邪魔になる。 街中で大きな声で騒いでいればまわりの人の迷惑になる。

    質量をもった大切なピースたち|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
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    gitanez 2019/07/29
  • 三体/劉慈欣|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    『三体』は中国の作家、劉慈欣(リウ・ツーシン)が2006年に連載し、2008年に単行化されたSF小説。 2014年に英訳され、2015年に世界最大のSF賞といわれるヒューゴ賞長編部門を受賞。そして、今月いよいよ日語訳が出版されたばかりの1冊で、なんとなく直感的に興味を惹かれてさっそく読んでみた。 400ページを超える作品だが、面白いので通常の読書ペースでも無理なく4日ほどで読み終えられた。 『三体』は3部作の1冊目にあたるらしく、すでに中国では3部作は完結している。 3部作あわせた累計発行部数は中国語版だけで2100万部に達するという桁違いの作品なのだそうだ。 さらには、amazonがドラマ化を計画しているとも言われている。 three-body problemネタバレしないように紹介しようと思うので、面白さを伝えるのはむずかしい。 何から話をはじめればいいか迷うが、まあ、ここからがい

    三体/劉慈欣|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/07/26
  • 新しい価値を見出すために:いま最も注目されるキュレーター、アマンダ・シュミット interview

    ユートピアを求め、翻弄される東京に喝。センサーシップやジェンダーにも斬り込む展覧会「Defacement」とは?

    新しい価値を見出すために:いま最も注目されるキュレーター、アマンダ・シュミット interview
    gitanez
    gitanez 2019/07/26