タグ

gitanezのブックマーク (4,586)

  • ドラクロワとユゴーと|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    1814年のナポレオン没落後、フランスは王政復古の時代に入る。 24年までをルイ18世が、30年までをシャルル10世が王位に就いた。 この復活したブルボン王朝は、まるでフランス革命など、なかったかのように、貴族や聖職者を優遇し、市民は不満を募らせた。 シャルル10世は国内の不満をそらすため、1830年にアルジェリアへの侵略を開始。それでも不満はおさまることなく、シャルル10世は自由主義者の多かった議会を解散し、選挙権を縮小する勅令を発した。 これにより市民の不満は爆発。立憲君主制のオルレアン朝を擁する7月王朝へとつながる7月革命を引き起こすことになる。 横たわる屍体ウジェーヌ・ドラクロワがあの有名な『民衆を導く自由の女神』を描いたのは、そんなときである。 このGWにパリのドラクロワ美術館で、この下絵を観た。色数も少なく、ラフなタッチで描かれているが、僕がドラクロワの作品が好きな理由でもある

    ドラクロワとユゴーと|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/05/30
  • プロトコル/アレクサンダー・R・ギャロウェイ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    2018年4月、アフリカ北西部の国モーリタニアでは2日間、国全体がインターネットに接続できない事態に陥った。原因はアフリカ沿岸部の国々とヨーロッパをつなぐ海底ケーブルの切断だった。理由は明らかになっていない。 分散型で冗長性をもつインターネットは従来こうした危機からは強いと思われていた。だが、この事件で1つの脆弱性が明らかになったわけだ。 もし日でインターネットが2日間も国単位で遮断されたらパニックになるだろう。しかし、それもない話ではない。この4月には、実際に東京都の御蔵島と神津島、式根島、新島の4島が海底ケーブルの故障で、電話やインターネット、金融機関の一部ATMが使えない状態になったりもしている。 分散することで冗長性を保ち、レジリエンスも備えたインターネットも、物理的なケーブルで集中している箇所があれば、そこが弱点となる。一方、複数のルートが用意されてさえいれば、冗長性は確保でき

    プロトコル/アレクサンダー・R・ギャロウェイ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/05/30
  • 視野の外|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    どんなことでも良い。 何かを考え、そのことについて他人とディスカッションするとき、物事を見る視野が狭くて、自分の視点でしか考えずに話していると、相手と話が噛み合いにくい。そのことによって会話の時間そのものが不毛なものになってしまうことも少なくない。 しかし、視野が狭い当人には何故相手と話が噛み合わないかさえ、わかっていないはずだ。だって、当人にとっては見えてる世界がすべてで、相手がその世界の外のことを話していることなんて考えてもみないのだから。 大蛇の上に大きな亀が乗り、さらにその甲羅の上に無数の象が並んで地平を支えているという古いインドの世界観が妄想であるのと同じくらい、視野が狭い人たちの見ている世界は、現実離れしてしまっているのだが、昔のインド人たちが蛇と亀と象が支える世界を真実の世界だと思ったように、視野の狭い人も自分が見ている世界がすべてだと信じているのだ。 だから、自分の見ている

    視野の外|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 獲物の気配|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ヨーロッパ各地の街に行ったときの1番の楽しみは、その地の美術館に行くことだ。日で名前の知られた美術館でなくても、その街にちゃんとした美術館があれば逃さず行きたいと思う。 現代美術館もいいが、好きなのは、ルネサンス以降、19世紀くらいまでの作品を扱う美術館。 そう。美術史家のダニエル・アラスが『モナリザの秘密』で「14世紀初頭から19世紀末にかけてのヨーロッパ絵画を特徴づけるのは、それが自然の模倣という原理のもとで描かれているということです」と書いている、まさにその時代の作品を扱った美術館。 パリで言えば、ポンピドゥやオルセーよりルーブル、ミュンヘンで言えば、ピナコテーク・デア・モデルネやノイエ・ピナコテークよりもアルテ・ピナコテーク。 だから、このGWで行ったローマなどは比較的ルネサンスからバロックあたりの作品が数多く集まるので、ヴァチカン美術館は当然のこと、カピトリーノ美術館やボルゲー

    獲物の気配|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 群れと、組織と、|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    プロジェクト単位で、毎回結構内容の異なる課題にチャレンジすることになる僕のような仕事をしてると、「一手一手に勝負を賭ける」というのは、比較的普通のことのように思えるが、まあ、たいていの仕事はそうではないだろうというのもわかる。 いや、僕の仕事だって、それなりには計画されているのだから、組織立っていたりもするわけで、そんなにすべてが「賭け」なわけではない。 ただ、「蓄積=資」があるかというと、初体験ゆえに、それは欠いていることが多い。 樹木とリゾーム 群れや徒党のリーダーは、一手一手に勝負を賭ける、つまり彼は一手打つたびにすべてを新たに賭け直さねばならないのだ。これに対して団体や群衆のリーダーは、獲得したものを統合し、蓄積化=資化するのである。 個人がバラバラに群れを成しただけの集団の仕事と、組織化された団体の仕事をこのような形で区別してみせるのは、ドゥルーズとガタリの『千のプラトー』だ

    群れと、組織と、|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • イシス探求/ユルギス・バルトルシャイティス|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    記憶というものは、こうも人間の考えや行動に影響を与えるものなのかと思う。頭の中に残っているものによって、人の行動や考え方は大きく変わってしまう。しかも、強くこびりついた記憶は、もはや現実と即したものを失ってなお、思考や行動を制約し、過去にしがみつくように保守的な選択に人を導いてしまったりする。 個人にとってだけではない。 社会にとって、いや時代を越えて、ある民族に対してという規模でさえ、記憶あるいは情報というものは、これほどまでに大きな影響力をもつものなのかと感じる。 古代エジプトの神話が、後のヨーロッパの人々において、どれほど自分たち自身の文化や民族的な成り立ちに強く関連しているかということにはじまって、さらには遠くインドや中国、果てはメキシコなどの中南米にいたるまで、広く人類の文化の起源になっていたと信じられていたという記憶というものに関する衝撃的な歴史的現象を描きあげた、1967年出

    イシス探求/ユルギス・バルトルシャイティス|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/05/21
  • ユーモラスな継ぎ接ぎ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    このGWにローマに行って感じたのは、街がいくつもの時代が地層のように折り重なってできているということだ。そういうものだという、あらかじめの知識はあって行っても、直に目にするとやはり感心する。 古代の遺跡の上に、中世やルネサンスの建物が自由に覆いかぶさるように建っている。二重三重と古い構造物の上に、新しい構造物が継ぎ接ぎされる。その継ぎ接ぎだらけの建物を現代的な内装やお店の看板が覆う。道行く車が建物を影に隠してみたりする。 異なる時代が混じり合いつつも、互いに排除しあうことなく、折り重なっている。複数の時代が混線したまま、固まってしまっている。 ローマというのは、そんな印象の街だ。 過去と現在の不思議な混在マリオ・プラーツが『ローマ百景Ⅰ』で、こんなことを書いていた。 ピラネージは、イタリア文化が「秋」に入ったころに、その遺産目録を作成したのである。そして、彼はローマを遺跡の都として確立した

    ユーモラスな継ぎ接ぎ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 神を迎え神送る道行の向こうには人新世が……|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    の家屋には、ハレの出入り口とケの出入り口があるという。 ハレの出入り口のほうは庭から入って縁側を通って座敷に入るそうだ。 門のそばの庭木戸から池などをめぐりながら庭をあるき、脱石から縁をとおって座敷にはいるのが正式の玄関だった。 と『日人と庭』で上田篤さんが書いている。 縁側に脱石があるところ、それがハレの出入り口。 しかし、それは……、 いいかえるとそれは神迎えをし、また神送りをする道行である。あるいはその家の祖霊がやってきて、去る道でもあった。そういう庭の意味をしめすように、これらの庭の片隅には灯籠と蹲がおかれた。神や祖霊をむかえるときに身を清めるためである。 そうして、神か祖霊かのように、ハレの出入り口から迎えられる先で、TSUKUBA SCIENCE ART EXHIBITIONは行われていた。 肉体に閉じこめられた精神という区別は、もはや見事なまでに溶解して「啓蒙時代、

    神を迎え神送る道行の向こうには人新世が……|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/05/15
  • 海外ミレニアル世代に起こる「サスティナブル・ファッション」とは? | AMP[アンプ] - ビジネスインスピレーションメディア

    最近若い世代を中心に、ソーシャルメディアを使ってファッションにサステイナビリティーを求める活動がみられる。 個人消費者が大きなカギを握るファッション業界において、トレンドを作る若者から起こるサステイナビリティ活動は、スマートフォンを駆使する彼らならではの業界に訴えかける活動といえるだろう。 今回は、今若い世代がファッションにサステイナビリティーを求めている理由、ファッションをサステイナブルにしようとする様々な取組みを、オランダの活動を例にして紹介する。 忘れてはならないファッション業界の大惨事、ラナプラザ サスティナブルファッションのムーブメントを起こすきっかけとなったのが、2013年4月24日にバングラデシュで死者1,134人、負傷者2,500人以上を出す最悪の惨事だった。 起きた原因は震災や津波など自然災害ではなく、ファッション産業が引き起こした完全な労働災害である。 事故は前日に予兆

    海外ミレニアル世代に起こる「サスティナブル・ファッション」とは? | AMP[アンプ] - ビジネスインスピレーションメディア
  • つながれ!地球のためのファッション革命 / Fashion Goes Circular

    © Condé Nast Japan ALL RIGHTS RESERVED | WEBサイト内の商品価格表示について、2021年4月1日以降は消費税込み総額表示に統一いたしました。

    つながれ!地球のためのファッション革命 / Fashion Goes Circular
  • Sustainable Fashion Genealogical Studies

    gitanez
    gitanez 2019/05/13
    fashion
  • 日常の過ごし方がすべてをむずかしくする|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    むずかしいを読んでるね、と言われることは少なくない。 まあ、そうだとは思う。 でも、一方で「むずかしい」って何だろう?と思ったりもする。 むずかしいとそうではないがあるような言い方だが、果たしてそうなのか? そんな風には到底思えない。だって、むずかしいと言われると、そうでないに違いなんてないんだから。 むずかしさはの側にはない、日常の側にあるそのものがむずかしいことなんて、そんなに滅多にない。 大抵の「むずかしさ」は、子供がはじめて自転車に乗るときのむずかしさと同じだ。 やったことないからむずかしい。 慣れないからむずかしいだけである。 ようは経験値の問題が大きく、の場合に戻すと、そこに書かれている事象に馴染みがない場合、むずかしいと言ってるだけだ。 ビジネスマンだったら日常の言葉や論理展開に近いビジネスを読むのがむずかしいと感じなかったり、小説などは日常的な会話や感情

    日常の過ごし方がすべてをむずかしくする|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    実は、「正しさ」なんてものを信用したことは一度もない。 何かがその時々の状況に応じて「適切である」ことはあって、その選択がその条件のもとで正しいことはあっても、何かが無条件に正しいなんてことはないと信じている。 だから前回「牛、蜂、そして、百合の花」で書いたような、古代エジプト人たちが「変身」という思考装置を用いて世界を理解していたという話にしても、いまの僕らにとってはまったくもって「あり得ない」ことだとはいえ、その思考が「正しくない」なんてことはないと思うし、その思考は十分その条件下においては論理的だし「正しい」。 そういう思考のオルタナティブを示してくれるからこそ、そうした過去の人類の信仰や文化に触れたりすることは楽しい。自分たちがいかに凝り固まった考えに囚われているかに気づかせてくれるから。 それに、現代の僕らの判断だって、状況をどう捉えるかによって、一見「正しい」と思えるものが「正

    わからないことに立ち向かう方法を想像することをデザインという|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 牛、蜂、そして、百合の花|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    古今東西問わず、さまざまな神話をみると古代の人々のなかに「変身」という概念がごく当たり前のようにあったのだろうということに気づく。 西洋であろうと、東洋であろうと、はたまた現代においてもアメリカ大陸先住民の神話の世界であろうと、いまでは信じがたいくらい異質なもの同士のあいだの形態変化がごくごく普通に語られる。そこでは明らかに僕らが信じているのとは、まるで異なる世界の存在および生成の原理が信じられているのだ。 「この全世界に、恒常なものはないのだ。万物は流転し、万象は、移り変わるようにできている」と語られるのは、オウィディウスによるローマの叙事詩『変身物語』のなかだ。「『時』さえも、たえず動きながら過ぎてゆく」とされ、「それは、河の流れ同じだ」とオウィディウスは歌う。 河も、あわただしい時間も、とどまることはできぬ。波は、波に追いたてられる。同じ波が、押しられながら進みつつ、先行する波を押し

    牛、蜂、そして、百合の花|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • パリとローマのエジプトかぶれ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    今回、ローマとパリを旅行する前に、バルトルシャイティスの『イシス探求』を読んでいた。 きっかけはヤン・アスマンの『エジプト人モーセ』を読んだことだ。ヨーロッパとエジプトのつながりに興味を持ったので、エジプトの女神イシスを題材にしたバルトルシャイティスのを手にとったのだった。これが旅行直前の心理状況において、殊の外、興味をそそる内容だった。 こんなことが書かれていた。 「パリは河の中に作られた都市であり船をシンボルとしている。この船とはイシスの象徴である」と。セーヌ川の中州であるシテ島がパリのはじまりであることくらいは知っていた。しかし、このイシスの「船はバリス Baris と呼ばれた。この発音がガリアの訛りのせいでパリ Paris となった」というのを知ると俄然興味が出てきた。 イシスの船という名の街パリ。 そして、たくさんのオベリスクが建つ街ローマ。 この2つの街をまわる際の裏テーマと

    パリとローマのエジプトかぶれ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 感染するイメージ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    パリで美術館をはしごして過ごしている。 この2日間で、ルーヴル美術館、オルセー美術館、リュクサンブール美術館、ドラクロワ美術館、ピカソ美術館を回った。あと残りの2日間もいくつかの美術館を訪れるだろう。その前のローマも含めれば、このGW中、かなりの数の美術館を回ったことになっているはずだ。 こうやって短期間でたくさんの作品を観てまわっているからこそ、気付くこともある。それは西洋美術史の流れの中では先行する芸術家の作品をベースに自分の作品をつくる芸術家がそれなりに多いということだ。 例えば、ドラクロワの作品を模写したものも今回多く観た。 ルーブル美術館にあり、今回も観たドラクロワ作品の中でも大好きな、この《アルジェの女たち》。 この作品に関しても、《ドラクロワ礼賛》というドラクロワの肖像画を彼を信奉した若い画家たちが取り囲む集団肖像画も描いたことで知られる(今回オルセーで実物を観た)、アンリ・

    感染するイメージ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 幻惑のローマ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    どうやら行く場所がマニアックな傾向があるようだ。 前からローマに行く機会があれば絶対に行きたいと思っていて、今回颯爽と出かけたヴィッラ・ファルネジーナ・キージも、観光客らしい人は比較的少なかった(途中で団体客がやってきたけど)。 それに比べて、ローマ滞在4日目にしてようやく足を運んだスペイン広場の人の多いこと。これは楽しくない。 当然、ゆっくりお目当てのラファエッロ作《ガラテア》をみることができたキージ荘のほうが楽しかった。 異教の神々を嗤うさて、ヴィッラ・ファルネジーナ・キージは1520年完成の初期ルネサンス様式の館だ。シエナ出身の銀行家アゴスティーノ・キージが建築家バルダッサーレ・ペルッツイに依頼して作った個人の邸宅。その後、16世紀の終わりにファルネーゼ家に渡っている。ファルネーゼ家はローマ法王も輩出したイタリアの名門だ。 みたかったのは、先にも書いたように、ラファエッロ作のフレスコ

    幻惑のローマ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 詩がない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    詩を感じないものには、心が躍らない。 もちろん、いちいち、いろんなものに心が躍っていたら、まともに日常を生き抜いてはいけない。だから、心躍るものはそこそこの頻度であらわれてくれればいいとは思ってはいる。 けれど、来、心躍らせてしかるべきものと面と向かったときにさえ、「あ、詩がない」と感じてしまうと、やはり、むむっとなる。 そこでの詩人の不在は、もはや罪のレベルだと思う。 詩であるということ詩とは、ある意味、神話的な歴史を語る言葉なんだと思っている。 ひとつ前のnoteで書いた事実史の対象ではなく、想起史の対象になるようなものが、詩の対象でもあると思う。 西洋の歴史画と呼ばれる分野の絵画が古代の神話を描くのと同じ意味で歴史。そして、そこで描かれているようなものが詩の対象でもある。 ようは、ここで僕がイメージしてるのは叙情詩というより叙事詩的なものだということだろう。 神話だから、その対象は

    詩がない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • エジプト人モーセ/ヤン・アスマン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    自然と文化。 このnote上でも紹介してきたように、これまで二項対立的に扱ってきた両者を、最近の哲学の流れでは区別できないものとして扱われるようになっている。 境のない状態をどう捉えるかは、いろんな考えがあり、『ポストヒューマン 新しい人文学に向けて』(書評)のロージ・ブライドッティは、自然-文化連続体という概念で唯物論的な捉え方をするし、このスタンスは『社会の新たな哲学: 集合体、潜在性、創発』(書評)のマヌエル・デランダの考えにも近い。 また、科学人類学を提唱するブルーノ・ラトゥールは『虚構の「近代」―科学人類学は警告する』(書評)で、人間と非人間を完全に分離することを善とする近代の「憲法」的なものが両者を区別しつつ背後でその両者のハイブリッド(混淆物)を大量に生み出したことを指摘しつつ、二項対立の背後にあるハイブリッドを生みだす仕組みをアクターネットワークとして分析しているし、さらに

    エジプト人モーセ/ヤン・アスマン|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
    gitanez
    gitanez 2019/04/23
  • はたしてセーヌのほとりに立ったとき、どんな顔をするのだろう?|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    最初に訪れたのは2013年。 ちょうど850周年の記念の年で、たくさんの人が集まっていたので、長蛇の列に並んで入るまでに時間がかかったのを覚えている。 でも、はじめてだったこともあって、ファサードの前で彫刻をみたり、扉の金属細工の文様をみるのも楽しかった。 その後も2度ほど中にも入ったし、外から眺めるだけなら、その年から毎年お見かけくらいはした。昨年がすこし遠くから一部だけしか見られなかったから、まさかあれが最後だとは思わなかった。 でも、印象に残っているのは、やっぱり一番最初に中に入ったときの感動だ。 ひとがたくさんいたのにもかかわらず、なんてクリーンな空間なんだろうって思った。 その後もほかのいろんなカテドラルを見たけど、ランスのそれも、ストラスブールも、ルーアンのも、メッスやアルビの大聖堂も、そして、ケルンやルクセンブルクのノートルダムも見たが、一番気品を感じたのが、パリのノートルダ

    はたしてセーヌのほとりに立ったとき、どんな顔をするのだろう?|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi