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lifehacksに関するgitanezのブックマーク (86)

  • おもしろいこと: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 おもしろいことやりてぇな。 オフィスの外の通路の片隅に設けられた喫煙スペースで、ニコニコしながら煙草をふかし、そう口癖のようにひとり言をつぶやいていたのは、前に勤めていた会社の社長でした。 僕は、その言葉をきくと、なんだか安心できたものです。 その言葉は何度も耳にしましたが、もちろん「おもしろいことってなんですか?」なんて野暮なことは訊ねたことはありません。訊いて答えの返ってくるようなことは、たぶん、耳にしてもおもしろくない気もしたからです。それよりも、その社長がおもしろいと思うことに協力できれば、と思えて、それが自分自身の仕事に対する安心につながったのだろうと思います。 おもしろいことをやりたい。 そのおなじ言葉をいまの会社の直属の上司の口からも耳にします。前の社長とおな

  • 自分自身の心の動きの正体にこだわってみる: DESIGN IT! w/LOVE

    最近のワークショップなどの講義では「誰のせい?」という話をすることが多いです。その話の最後には「誰のせい?」かを問う姿勢とは別に、「仕方がない」という受け止め方があることを指摘しています(例えば、突然雨が降って来て濡れてしまうのは「誰のせい?」ではなく「仕方がない」)。 ただ、それ以前に問題を自分自身が関わる問題として受け止められるかということがあるのかもしれません。 問題を他人事として受け止めることができない。自分自身の問題として受け止められない。他人のよくないところを見つけることはできるのに、自分のよいところを見つけられない。いや、そもそも自分自身に向き合うことができず、自分が何を言っているのかを考えようともしない。考えることから逃げてしまう。 そういう姿勢に自分自身が陥っていないかどうか。 「誰のせい?」と責任の所在を外にばかり求めるのではなく、逆に他人の問題をも自分の問題として受け

  • 入力したものをどうするか?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと」ではインプットの基をまとめました。 そこでは話し相手という例をあげましたが、実際には「「我を捨て、自分の外にでる」ということの意味」で補足したように、インプットの対象は話をする相手だけでなく、もっと一般的な意味での人間だったり物事だったりします。そこでも書いたとおり、インプットを行うのは、我を捨てて自分の外に出て、自分の中にないものを発見するためです。 自分の思い込み・当たり前・固定観念の外に出るために、観察対象の立場になって観察・聞き取りをする。いわゆる質的調査と呼ばれるものです。質的調査を通じて僕たちはそれまで居た自分の内側の世界から外の世界を旅することになる。 僕は、西行や芭蕉のような歌人や俳人が日各地を遊行して

  • 「我を捨て、自分の外にでる」ということの意味: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「僕にはそれは無理」「私にはちょっとむずかしすぎる」 うーん。なんでそう自分を決めつけちゃうんでしょうね。自分を一点に縛りつけようとするんでしょう。 そのほうがラクだからなんでしょうね、気持ち的に。 私は○○だ。○○はそれはできない。だから、私はそれができない。 と言い訳を組み立てた方が「できない」ということが理屈にあってて仕方のないことだという気がしますからね。 実際にはそうはいってても「できない」はずのことが「できちゃった」なんてなる日が来ないとは限らないんですけど。人って自分で自分をいくら決めつけたところで変わるものですから。 その意味で、ある時点であることができた/できないということで、自分の可能性なりタイプなりを固定してしまうことには大した意味はないし、むしろ、そ

  • アウトプットができない人がまずやるべき3つのこと: DESIGN IT! w/LOVE

    これも立派な意見だと思うんですが。 さて、問題は、自分の意見がない場合だ。そういう場合も当然意見が少なくなる。自分はどちらかというとこちら側にあてはまるかもしれない。おそらく何を考えればいいのかがぶれてしまうのだ。 意見をいわなくてはいけないとか、むずかしく考えすぎてるんじゃないでしょうか? そりゃ、時が来れば自分の意見を求められる場面もあると思いますけど、アウトプットを増やさなくてはいけないのは、そんなタイミングじゃないんですね。もっと前、ずっと前の段階です。自分の意見を言わなきゃなんていう最後のタイミングのことばかり考えちゃうから間違うんですね。 むしろ、アウトプットができない人がまずやるべきなのは、相手が話しているあいだの自分のインプットを増やすことだと思います。 ようは次の3つ。 オウム返しをする質問をする相手の話の良いところをほめる ここでいう相手は、あなたに何か課題をあたえる人

    gitanez
    gitanez 2009/05/01
    [i/o][change][不確実性][考え方]
  • 稽古不足: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 稽古の「稽」は「考える」という意味です。「古を考える」「昔のことを調べ、今なすべきことは何かを正しく知る」が、漢語「稽古」の原義だといわれます。これは常に新しい時代よりも古い時代のほうが優れていたと保守的な考えをもつ中国ならではの姿勢だと感じます。 稽古の喪失ただ、常に古い時代のほうが優れているかはともかくとして、確実に過去のほうが優れていたこともあったはずで、それに学ばないのは単純にいって損じゃないかと思います。 とにかく、自分たちの現在が過去と陸続きであるという感覚をもてない人が多いのかなと思います。自分たちがどう考え、どう生きるのかということがいかに過去の恩恵を得ているかということに無神経なまでに鈍感です。 茂木 いま、われわれが持っている道具とか方法というのも、結局

    gitanez
    gitanez 2009/03/22
    恋はいつでも初舞台
  • 方法依存症: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 方法論の収集ばかりに明け暮れている人を、仮に方法依存症と名づけてみたい。 方法依存症に値するもうひとつの条件は、方法論を収集している割にその方法を使ってうまくいったことがすくないということである。 これはもったいない。意欲があるのに空回りしてしまっているのだから。 そこで、このことについてちょっと考えてみた。 まず、そのことを考えていくにあたって、方法を区別してみる。 形式知化された方法と暗黙知的な方法に。 形式知的な方法:例えば、KJ法形式知化された方法とは、方法に含まれるタスクの内容が明文化でき、かつタスクを行う手順やプロセスが明記されているものをいう。逆に暗黙知的方法とはそうでないものを指している。 例えば、KJ法であれば、 最初に単位化された情報を書き込んだ束を作成

  • 人的資源の生態学的問題: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 最近、このブログのエントリーの人気の傾向ははっきりしていて、歴史系・民俗学系のエントリーはことごとく無視に近い状態にある一方で、「読解力」だとか「問題解決」だとか、「行動力 」、「フレームワーク思考」などといったライフハック系とも呼べるようなキーワードが含まれるエントリーには割と恒常的に人気があるように感じられます。 こうした傾向は以前からあって、昔のエントリーでも「粘り強さ、継続性」とか「アウトプット速度」とか「PR下手で損してる」とか「」なんていうフレーズがタイトルに入っていると人気は得やすいようです。 これらの問題は単に個人レベルだけの問題なの?人気はないよりあったほうが書くモチベーションも上がるが、かといって人気を得るためにそうしたエントリーばかりを書こうという風に

  • デザインする人に必要な能力は?: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 発作的に、なんとなくデザイン(企画・設計)をする人に必要な能力なるものをまとめてみたくなったので実行(ようは自分の頭のなかを整理するため)。 もちろん、ここでいう「デザイン」は、ある問題を発見して解決するためのプランを考え実現させることをいう。なので、決して狭義のデザイナーのことではありません。 で、そういう意味での「デザイン」をする人にとって必要な能力をまず、ザクッと分類すると以下の4つに分けられるのではないか、と思います。 知る・感じる・疑問に思う解釈する・発想する・組み立てる具体化する・検証する・洗練させる仕事をはじめ、終わらせる どれもデザインをする上では欠かせない。 というわけで、ひとつひとつ整理していくことにします。 知る・感じる・疑問に思うスタート地点はやっぱ

  • 視野は広くを意識して: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 僕もそれが「楽しい」と思います。 私は「面白い」と感じたら何でも顔を突っ込み、手を出してしまう。いつの間にか熱中している。「面白い」と感じる、「興味を持つ」という行為のハードルがとても低いのだろう。こうやって好奇心旺盛で生きていくのは、時に体力気力がついていかなくて疲れると感じることもあるが、やっぱり楽しい。 前にも書いたけど「疲れる」よりも「憑かれる」がいいよね。何かに取り憑かれたように好奇心を揺さぶられる感じがいい。 そもそも「疲れる」は「憑かれる」が語源だそうです。 「憑く」も「着く」も「付く」も「就く」も、みんな「ツキ」のファミリーだそうです。ツキがあるとかないかという「ツキ」。そして「ツキ」は「月」です。 月に憑かれてツキを自分の側に手繰り寄せたいじゃないですか。

  • 本来と将来: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 昨日からなんとなくこのことが気になっています。 私たちは日の「来」と「将来」の両方にまたがって暮らしています。(中略)私は未来論というものをほとんど信用していないので、あえて「将来」という言葉を使うのですが、将来のためには「来」がよく吟味されなければならないと考えてきました。 僕がいう、このことは、<将来のためには「来」がよく吟味されなければならない>ということです。 生の始めに暗く/死の終わりに冥しただ、この「来」というのは、決して確実な答えとして存在するものではない。むしろ知ろうとすればするほど、不確実なものとしての存在性を明らかにしてくる類いのものです。それゆえ、来の自分探しのような活動は必ず泥沼化します。 そのことを理解するためには、松岡さんが『空海の夢

  • わかること。それはガイドブックも道案内もない冒険の旅: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 なんなんでしょうね。自分の頭で考えて答えを出すということが身についていない人が多い、この状況は。あるいは、自分でやってみて理解しようという基姿勢のなさは。いったい、なんなんでしょうね? 前に「を読んだり、他人の話を聞いただけで、何をわかろうというのですか?」というエントリーで、「どこがスタート地点で、なんとなくどっちの方向に、どんな風に進めばいいかの見当だけつけたら、あとは自分の足で崖から飛び降りてみない限りは、わかるはずもない」と書きましたが、そういうこと自体、よくわからない人が結構いるみたいです。どうも正しい答えがないことがあるというのが想像できないようなのです(困ったことに正しい答えを想定する人に限って、何が正しいのか、その基準を定義できていないんですよね)。 わ

  • 大事なことはわかることじゃない: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 今月はぜんぜんブログが書けてないですね。まぁ、この忙しさじゃ仕方ない面がありますけど。 そんな忙しさのなかでも最近思ったことをすこし。 自分の能力を高めるためには、を読んだり、誰かに聞いたりして、すぐにわかってしまうより、わからないことに自分でこだわってみることのほうが大切なことなんだなーと思います。 わからないことにこだわり、自分でいろいろ試して経験するなかですこしずつわかることが増えてくる。そういうわかり方を大切にしたいな、と。 わかった気にならないわかりやすい言葉を読んだり聞いたりして、わかった気になることって簡単です。でも、そういうのってあんまり役に立たない。役に立たないものをどんどんわかった気になって蓄積しても、それこそ役に立ちません。 それにわかった気になって

  • 疑うためにはまずは信じないと: DESIGN IT! w/LOVE

    いったんは信じてみないと疑うこともできませんよ。 白川静人のスゴさは認めるけど、その業績すべてを妄信するのは危険。今から業績再評価が始まるんじゃない? わからなくはないですが、でも、当に業績再評価がはじまると思うなら、まず自分が率先してはじめなきゃいけないと思うんです。業績再評価を他人任せにしていても、いつまで経っても埒はあかないと思います(それはあとで説明)。 自分で再評価をはじめるには、最初から疑ってかかるよりはとりあえずその人が言っていることをまずはそのまま理解して、信じてみて、その上で自分でどこがおかしいかを考えていくのが正解なんじゃないかと僕は思います。 なので、最近の白川静さん関連エントリーは僕なりの「業績再評価」でもある。基、僕のスタンスはとりあえずその人の言うことに従う。そして、それを信じていろいろ展開するなかで、矛盾が出はじめたら、それがその人の論の限界かどうかをあ

  • 自分は引き際の良さ、時機の見極めができてないなと感じる人のための3つの処方箋: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「自分は粘り強さ、継続性が足りないなと感じる人のための3つの処方箋」に続いて、こちらもご要望があったので、いい機会なので自分の考えをまとめてみようか、と。 引き際の見極めができるようになるための3つのポイントとはいえ、まずは「粘り強さ、継続性」がない人は「引き際の良さ、見極め」もできないんだと思うんですよね。つまり、タイミングが読めないんです。どこで引くか/引かずに続けるかというタイミングというものが見えない。なので、イヤになっちゃってやめるか、いつまでもグズグズ引き延ばすか、いずれかになってしまうのでしょう。 しかも、その時点で辞めやすければ辞めるし、辞めにくければ辞めないというだけ。いずれにしても、あんまり自分の意志じゃないんですね。引き際も継続性もあったもんじゃない。

  • 自分は粘り強さ、継続性が足りないなと感じる人のための3つの処方箋:DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 粘り強さというか、継続性というか、とにかく自分がやると決めた事柄を最後までやり遂げられない人が多いような気がしています。 もっともらしくやりたいことや意欲を口に出すのはいいんですけど、結局、それが具体的な活動に落ちていかないし、たとえやり始めたことがあっても続けられません。なんでそうなってしまうのか、僕にははっきりとその理由はつかめていませんけど、とにかく具体的な活動を継続して積み重ねることでしか結局のところ何も身に付かないし結果も出ないんだということが理解できていないのでしょう。それにゆえに継続性の価値、粘り強い忍耐力をもって事にあたるということに価値を見いだせないのかもしれませんね。 途中でやめるということがカッコ悪いことだという認識がないんだと思います。 僕は自分でや

  • いつでも準備しておくこと: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「質問ができる人/できない人」に対する反響のなかに「その場ですぐに質問を組み立てることができない」という旨のものがありました。 あのエントリーそのものは「自分が興味をもって聞いた他者の話に適切な問いを立てることができるか/できないか」であって、即時性やスピードは求めていないので主旨からは外れますが、そもそも、その場で質問を組み立てられるかどうかは、スピードの問題じゃないと思うんですよね。 質問を即座に組み立てられるかどうかは能力じゃなくて準備の問題前に「スピードを上げたいなら速度を上げるんじゃなくてスタートを早めること」というエントリーも書いていますが、その場の対応速度を高めるのではなくて、前もって準備をしておくことのほうがよっぽど即時対応力を高めることができると思うんです

  • 「わからない」を自分の身で引き受けること: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「何かを分かるということは、何かについて定義できたり記述できたりすることではない」。 これは原研哉さんが『デザインのデザイン(special edition)』の「はじめに」で書いている言葉です。 デザインというものに関わる人にとって「わからない」ということにこだわる姿勢ほど、大事なものはないと思っています。自分が何がわかっていないかを見つめ、わかったふりをした状態から抜け出そうとしなければ、必要な形・物の輪郭など見えてくるはずはありません。 もがいてもがいて、作りに作って、悩みに悩んで、「わからない」ものに自分の手、目、頭で立ち向かうこと。そうやって目の前のわからなさを自分の身に引き受けられるかが重要です。だって、デザインの答えは自分で見つけ出すもの。だよね? マニュアル

  • 信頼した人の推挙に従う: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 信頼した人の推挙に従う。このあり方って正しいなと思うんです。 もともと私には誰が何を推挙したかということを、とても重視するところがあります。学校の先生が推挙するものに関心をもち、著者が書物のなかで何かを推挙しているなら、まずはその推挙に従ってみる。そういうところがあるんです。ただし、信頼したい人の推挙じゃなければダメです。 実際、僕自身、新しいやそれまで(よく)知らなかった人に興味をもつのは、信頼した人の推挙だったりします。 最近では、松岡正剛さんや高山宏さんの推挙に従って、バーバラ・M・スタフォード、タイモン・スクリーチ、田中優子、マリオ・プラーツ、フランセス・イェーツ、アビ・ヴァールブルクなどに出会うことができました。 最近はそのおかげで、図像学(イコノロジー)、ニュ

  • 機会がないとか経験がないとかいうけれど: DESIGN IT! w/LOVE

    不確実な時代をクネクネ蛇行しながら道を切りひらく非線形型ブログ。人間の思考の形の変遷を探求することをライフワークに。 「機会がないからできない」「経験がないからわからない」 まぁ、間違ってはないですね。 でも、そう思うなら機会を作るため、経験を積むため、行動してるの?っていうと、そうじゃない人が多い。何それ? 「できない」「わからない」って言うために「機会」とか「経験」のなさを口実にしてるだけなのかなって不審に思ってしまいます。 毎度のことですけど、行動力がないな、臆病すぎるよなって感じます。 わかってからやろうとするな、わかる前だからやれとにかく、わからないからやらない、動かないって傾向がある人が多いのかなと思います。 でもね、わからないのは動かないからだよって思うんですね。 恋愛とかでもそうじゃないですか? 出会いがないとかいうけど、それって自分で積極的に行動しないからってところが大き