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thinkに関するgitanezのブックマーク (322)

  • フーリッシュな知性(後編)非人間的な知|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    「フーリッシュな知性」と題し、歴史上、至るとき、至るところに見られる「フール」の文化の変遷を辿りつつ、「理解」という人間的な思考の外側に開いた魔の領域に目を向けた「前編」。 さすがに長文になりすぎたため前後編に分割したが、後編では「使える」ということと「理解」の関係の外側にある非人間的な知性、まさにフーリッシュな知性について考えてみたい。 まずは、前編で紹介したチャップリンに続き、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれる喜劇役者カール・ヴァレンティンのコメディ作品に目を向けてみることから始めよう。 壊れているのは、譜面台か、彼らか『道化と笏杖』のなか、チャップリンとキートンの『ライムライト』を紹介したすぐあと、ウィリアム・ウィルフォードは、「ドイツのチャップリン」とも呼ばれるカール・ヴァレンティンの『魔法の譜面台』という喜劇についても論じている。 この喜劇は、ヴァレンティンと相方のリーズル・カ

    フーリッシュな知性(後編)非人間的な知|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • フーリッシュな知性(前編)理解の外で|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    理解をするということは大事なことだと思う。 対象が何であるかにかかわらず、自分自身でその対象について理解を深めていくということは、とても大事なことだ。 「理解する」という行為は、対象物との関係性を深め、対象に対する配慮やリスペクトや愛を生み、対象との協働の可能性を高めてくれる。 つまり、逆に言えば、「理解している」かは、対象に対する配慮やリスペクトや愛や、利用可能性やコラボレーションの可能性をどれだけ手に入れたかによって測ることができるということだ。 現実において使えないような知識を獲得しただけでは、理解したことにはならない。包丁は材を切るものだと知っていたとしても、それを実際に材を切るのに使いこなせないなら、それは理解に至っていないのだと言える。 誰か他人がつくった理解を鵜呑みにするだけでは、それは自分で使えるものになっているという意味で「理解した」とは言えないし、そんな他人の与えて

    フーリッシュな知性(前編)理解の外で|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 自分で理解する(答えをつくる)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    理解するのには、2つのベクトルからのアプローチがある。 1つは、話をする側、何かを表現し伝える側のほうから、受け手に理解してもらいやすく工夫することで受け手の側の理解を得ること。 もう1つは、その受け手の側、話を聞く側であり、何か表現されたものを視聴したり読んだりする側のほうから、自分から積極的に発信者側が何を言ってるか、言おうとしているかなどを理解するために、内容を整理したり、わからない点を質問したりすることで理解を形づくろうとすること。 現代において、前者の努力は方々でされている一方、後者の努力は前者に寄りかかってばかりであまりなされない傾向にあるように感じられる。 ベクトルは2方向ありつつも、「理解」は最終的に受け手の側の問題なのだが、受け手となった時に「理解」しようという自覚とそれを実現するための自分なりの方法論をもてていない人が少なからずいることに問題を感じるのだ。 インプットを

    自分で理解する(答えをつくる)|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 意味と身振り|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    最近、忙しすぎて更新が滞っているものの、そのあいだにもありがたいことにフォロワーの数が40,000を超えた。 10,000ずつ増えるたびに思うだけれど、何を期待してフォローしてくれるのか、わからないくらい、難解な内容なこのnoteにもかかわらず、当にうれしいなと思う。フォロワーのみなさんに感謝。 僕ができるのは、ただひたすら書き続けることだけだけど、これからもよろしくお願いします。 さて、今回は、いま読んでいるウィリアム・ウィルフォードの『道化と笏杖』から話のネタを。 侏儒や傴僂をはべらせてそもそも、このタイミングで『道化と笏杖』を読もうと思ったのは、その前に、ブルクハルトの『イタリア・ルネサンスの文化』とラブレーの『ガルガンチュア』という不具者や道化を嗤うルネサンスの文化について知ることができる2冊のを続けて、読んだからだ。 前者は19世期に書かれた歴史書、後者はまさにルネサンス真っ

    意味と身振り|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 怪物的なものを愛でて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    Goodとは何か、Truthとは何か。 何が正しいとか、何が当のことだとか、というのは、どうやって決められると思うのか。 そして、それを決める必要はどこにあると思っているのか。どういう想定で、そうした行動の指針になるような価値観が必要だと考えているのか。 とかく、そうした固定した価値観を置きたがる傾向が世の中全般にあると思う。 だが、それが当にどういう想定で必要なのかを検討せずに、「それがないから行動ができない」とか、「それがないからこの悪い状況が生まれている」とか、といった主張を何の分析も反省もないまま、感覚的に発する人が多いのはしょうしょう気持ちが悪い。 と同時に、同じくらい気持ち悪いのが「表現の自由」への主張なのだけれど、それが気持ち悪く思えるのは、先の正しさや良い悪いということにひとつの規範を求めるものとは真逆だと思えることが同時に主張されているように感じられるからだ。 一方で

    怪物的なものを愛でて|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 優れた人は、読書家である|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ちょっとびっくりした。 1つ前で『時間は存在しない』を紹介したnoteの反響のあまりのなさに。 自分ではとても面白いだと思って紹介しただけにこの反応の薄さは予想外。 内容的にも「時間が存在しない」という衝撃的なことを物理学的に分かりやすく教えるものだし、世の中的にもよく売れてたりもするから、自分自身の紹介の仕方がよくなかったのかなと反省している。 まあ、それは仕方がないこととして、今回は、そのの内容自体の驚くべきすごい思考の展開もさることながら、もう1つ驚かされた著者のカルロ・ロヴェッリの読書範囲の幅広さを手始めに、「読書家」について書いてみようと思う。 優れた人は、読書家である。 そう思う。僕はずっとそう思っている。 『時間は存在しない』の著者カルロ・ロヴェッリもそうだ。 時間が存在しないことを示す彼の思考の展開はものすごく優れたものだと思ったし、同時に、彼が読んでいるの幅広さもす

    優れた人は、読書家である|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 箱と中身|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    何をデザインするのでもそうかもしれない。 ウェブサイトだろうと、空間だろうと、組織だろうと、イベントだろうと、学校であろうと。 箱と中身の両方をいっしょにデザインすることがなければ、できたものは素晴らしいものにはならないだろう。 箱偏重になっていないか昔から「箱物行政」なんて言葉もあるとおり、箱をつくるのが得意な人は多い。 「日人は……」とか、つい言いたくなるところだが、たぶん、そうではない。 多くの文化でおそらくそうであるはずで、とりわけ近代化した社会ほど、その傾向はあるはずだ。 つまり、世界は近代化以降、どんどん箱づくりが得意な人だらけになっていっているということになる。 箱をつくるのが得意な多くなる傾向があるのは、そのノウハウは、ある程度、パッケージ化しやすいからだ。 箱だけにパッケージしやすいという駄洒落のようなことを言っているのではない。 箱というのはおおよその場合、機能の組み

    箱と中身|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 知識を深める、とは|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    知識を深める。 簡単に言うが、いまひとつピンとこないワードではあった。 でも、今日そのことについてピンとくる説明にあった。 解像度を上げる1つには「解像度を上げる」ということ。 何らかのテーマについて、どれほど解像度高く理解できているかということ。 どういう状態が解像度が高いかと言えば、特定のテーマを提示されたとき、そのことについて、どれだけ長い時間、さまざまな角度から語り続けられるか?ということだろう。 確かに、それならピンとくる。 僕も1時間でも2時間でもずっと語り続けられるテーマがある。 なんなら8時間くらい、喋り続けられそうなこともある気もする。 そして、それらのテーマに関する知識は確かに深い。そう、感じる。 関連づけを行うもう1つは、学んだことをどれだけ自分の中のさまざまな知識と関連づけを行えているかどうか。 複数の知識との関連づけの数が多くなればなるほど、理解は深まったと言って

    知識を深める、とは|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • くよくよしない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    くよくよしないことが大事だ。 自分の精神衛生上、大事だというだけでなく、より「仕事ができる」ようになり社会的な役割を担えるようになり社会との関係がスムーズになる、という意味において。 つまり、社会との関係において自分に関する何ごとをも考えることがデフォルトになったとき、自然とくよくよなんてしなくなる。 社会に目を向け自分を視界から消す社会のなかに巻き込まれてる自分を認識すること。 社会で現実的に起こっていることをちゃんと認識するようになり、意識の中での「自分」が占める割合がほとんどなくなった状態になること。 いうなれば、利他的になるということにちょっと近い状態にちゃんと自分の意識や姿勢をシフトすること。 その状態では、自分が何かを失敗したり、できなかったりといった小さな出来事は取り組んでいる課題全体に比べれば問題のごく一部でしかなく、改善を試み、そのために必要な手立てをとる必要なことではあ

    くよくよしない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 何かは何故起こるのか?|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    人は何かの不満を言うとき、何故、特定の対象を指定してその問題点をあげるのか? そんなこと、あらためて問うまでもないだろう。そう、思う人が多いかもしれない。僕もついさっきまでそんなこと疑問に思わなかった。 でも、あらためて考えてみると、不満の原因ってそんなに簡単に正しく特定できたりするのだろうか。 自らに不満をもたらす原因を、もしかしたらそれが対象であるものに濡れ衣をかけることになるかもしれないとすこしも迷うことなく、ひとつに絞って特定できるような、そんな優れた観察眼や分析力が備わっている人が果たしてそれほどにも多いのだろうか。 そのことのおかしさにふと気づいてしまった。 原因と結果を混同しないきっかけは、先日から再三紹介している『社会的なものを組み直す: アクターネットワーク理論入門 』のなかのこんな一文だ。 権力は、社会と同じく、あるプロセスの最終結果なのであって、おのずから説明をもたら

    何かは何故起こるのか?|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 僕らを動かすエージェンシー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    僕らは自分たち自身が行っている行為がなぜ行われているのかをほとんどの場合、理解していない。 意識していない、という意味ではない。 たぶん、自分が行った行為をなぜ、そうしたのかと問うたところで、答えがはっきりしているケースはほとんどないだろう。 僕らは自分でもなぜだかわからないまま、日々、いろんな選択をし、いろんな活動をしている。 なんとなく……。 そう、なんとなくなのだ。僕らがその行為を行った理由は。 でも、僕らの行為の背後にある、その「なんとなく」というヤツの正体はいったい何ものなんだろうか。 知らんけど僕らはそんなにいい加減な存在だということなのだろうか。 みずからの行為の理由を「なんとなく」なんていう得体のしれないヤツに預けてしまっている。 「たぶん、なんとなくやないかな、知らんけど」 自分が行為に対して、僕らがとりうるのは、そういう態度でしかない。 箱のなかで死んでいると同時に生き

    僕らを動かすエージェンシー|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • アクターネットワーク理論|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    を買うタイミングとを読むタイミングは同じではない。 読みたいから買うが、いますぐ読むかは別であることがほとんどだ。家に届いたあと、しばらく積んでおいて、読もうかなと思ったときに読みはじめる。 そんな読み方をしてるからか、多くの当に読みたいときに読みはじめられ、そして、たいていの場合、当にドンピシャのタイミングで読めたと感じられる。 現代社会を相対化する今年の2月に買ったブリュノ・ラトゥールの『社会的なものを組み直す アクターネットワーク理論入門』も昨夜読みはじめた。500ページ超えの大著なので読むのに時間がかかりそうだが、80ページくらいは読み進められた。 うん。このも実に良いタイミングで読みはじめられたようだ。すでにそう感じている。 ラトゥールのを読むのはこれが3冊目だ。『近代の〈物神事実〉崇拝について』を昨年の11月に読み、『虚構の「近代」』を今年の2月に読んだ。2冊目

    アクターネットワーク理論|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 他人の人生の一部にコミットする|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    誰かといっしょに仕事をすること。 いやいや、それは特別なことではなく、どんな仕事だろうと誰か他の人といっしょにやる仕事だろう。 たがいに同じ作業をする共同作業者だったり、役割分担して進めるパートナーだったり。仕事をお願いする/お願いされる関係だって、いっしょにひとつの仕事をする協働者の関係だ。 誰かといっしょにやらない仕事なんてない。 自分ひとりでやるパートはあるだろう。だとしても、それが誰か別の人に引き継がれるという意味では、ひとりで完結する仕事なんてない。 いや、おそらくひとりで完結するという時点で仕事ではないのかもしれない。私的なWorkではあっても、JobにおけるWorkではない。 仕事人生の一部だけど、全部じゃない仕事をすることがその相手の人生の一部で、かつ、人生の全部じゃないってことを考えると、いっしょに仕事をするということは相手の人生(の一部)に必然的にコミットしてることに

    他人の人生の一部にコミットする|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 気づかうことの創造性|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    あ、ソクラテスってそうなんだ。 昨日から読みはじめた『神の三位一体が人権を生んだ』(八木雄二著)で、こんな記述を読んで、そう思った。 ソクラテスは、「気づく」という理性のはたらきは、「気づかう」とか「配慮する」とか「留意する」といった理性のはたらきと同類のはたらきであるとみていた。週末に「周囲への気配り(=外部へリソースを配分する)」なんてことを書いたばかりだから「気づかう」とか「配慮する」ということは気になっているテーマでもあったからだ。 じっさい他人の弱さに気づくことは、他人を気づかうことである。気づかうことは、心を配ること、配慮することである。それはまたソクラテスによれば精神的愛であった。気づくこと、気づかうこと。 そして、配慮し心を配ること。 今日もまた、そのあたりからゆるりと話をはじめてみたい。 個と個の対話を通してみずから書いた著作を残さなかったソクラテスは、大勢の前で行う演説

    気づかうことの創造性|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 思いがけない出会いを呼びこむ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    ひそかに取り組んでいたこと、別々に手がけていたことが何かのきっかけにつながって、より面白い展開が新たに見えてくることがたまにある。 そういうときは「おおっ」と思って、当に興奮する。 念じれば通じるというのを信じているわけではないが、何か仕掛けておくと、そこに何かが引っかかってきて、新たな展開が生まれるチャンスが得られやすいということは信じている。 僕自身の経験からいうと、特に、あまり人が手をつけてない領域で、たぶんこれから見込みがありそうなと予感がしたら手をつけておいた方がいい。そこに手を付けておくと、予期せぬチャンスが得られる確率は高くなる。 それ、単品では何も起こらなくて、それこそ何かの拍子に他の何かとつながって物事が動きはじめたりする。 そんなことが時に起こるので、まだまわりのみんなが手をつけてないことでも自分で気になることは手をつけておくと良い。 知的テリトリーを広げるのに読書

    思いがけない出会いを呼びこむ|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 質より量|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    質より量を重視すること。 それはブレストやワークショップなどでのアイデア出しの際のお作法としても言われるし、プロトタイピングを通じてユーザーニーズの有無やサービスの方向性等の仮説検証を行う場合においても基となる方針だ。 細菌はいきなり人間に進化しない共通する考えは、複数の多様な人々が絡んでの価値創造的な場面においては、質の高いアウトプットをいきなり一発で出すことを狙うより、多様な方向性や視点をもった考え方をとにかく量を出してみて共有したり、テストしたりすることの繰り返しや積み上げを通じて、漸進的に質を上げて行くほうが結局は成功への近道だということだ。 生物進化においても、いきなり細菌のような単純な構造のものが人間を代表とする哺乳類のような複雑な構造を持つものには進化しない。 実際の進化が幾重にも段階を重ねて人間にたどり着いたように、標的になるものが遠くにあるほど、質より量を基にした戦略

    質より量|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 共創の技術|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    いっしょに創るための技術が足りない。 これだけ「共創」だとか「協創」なんてことが言われていながら、まだまだ世の中では、どうやったらうまく効果的に異なる文化や専門領域をもった他の人たちと仕事ができるかという観点での技術は、残念ながら未熟な段階にあるなと感じる。 個人においても、組織においても、共創技術が未熟それは個々人の考え方や仕事をする上でのスキルという面でも、共創のスタイルで仕事をするためのものに書き換えられていないし、それを学習、教育するための仕組みもまだまだ整備が圧倒的に不十分だ。 共創に参加しているはずの人が、どうしたら文化や専門性の異なる人たちと、議論し、共同作業し、それぞれの誰もがかたちにしえなかった新たな価値をその共同ワークから作り得るのかについての知識を持っていないケースは少なくない。具体的なワークにおける振る舞いにおいても、どうすれば共創のためのコミュニケーションが成り立

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  • 時間のなかに生きる|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    僕らは空間のなかに生きているのではない。 僕らは時間のなかに生きているのだと思う。 変わらぬ空間を前提にするよりも、変化そのものである時間のなかで生きている、そのことを前提に考えてみる。行動してみる。 自分たちが変化からどんな影響を受け、逆に自分たちの活動によってどんな変化を生み出しているかを考えることが自然にできるようになるといい。 生成であり、変化である時間物質の性質や、種としての生物の特徴も常に変化するようなものではない。 けれど、個々の物質の状態はむしろ一定ではないし、個体としての生物にいたっては止まることなく変わり続け、歳を重ねていく。 この当たり前のことを前提にして思考することができず、間違った行動の前提をおいてしまうことが多いのではないだろうか。 つまり、変わらぬことを前提に「維持」という行動判断をしてしまうことが。 だが、周りが常に変わっていくことを前提とすれば、「維持」な

    時間のなかに生きる|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • こうしたらああなる思考|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    フランス南部のモンペリエ近郊のガラルグルモンテュ村で、気温が45.9℃に達し、フランス史上最高気温の記録を更新したという。 まだ6月である。一方、僕がGWに行ったパリでは雹が降るくらい寒かった。 5月に雹、6月に40度越えの猛暑。もはや季節とは何かわからない。 毎年異常ともいえる猛暑が続くのはヨーロッパだけでなく、ここ数年の日も含め、世界的な現象だ。もはや異常気象というより、温暖化がデフォルトである。しかも、単にデフォルトになったというよりも、どんどん進んでいる。 人間の活動が地球環境に与える影響が僕ら自身の生命と文化の継続を危機的なものにしていることは、もはや明らかになりすぎているといえる。 その観点に立てば、SDGsの環境負荷を減らす目標も単なる数字というよりも僕たち自身に課せられた責任そのもので、何をするにもそのことを考えて行動するしかなくなったのだと感じる。 仕事の目標としてこん

    こうしたらああなる思考|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi
  • 本が読めない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi

    アンリ・ベルクソンの『物質と記憶』を読みはじめた。 最近、シャルル・ペギーの『クリオ』やら、美術史家アンリ・フォシヨンについて書かれたなど、19世紀末から20世紀初頭にかけてのフランスで活躍した著作家のものに触れている。特にそうしようと思っているわけではないのだけれど、手に取るものがたまたまそうなっている。 この『物質と記憶』も同じく1896年に書かれている。 1914年頃書かれたとされるペギーの『クリオ』や、フォシヨンの『かたちの生命』が1934年の発行だったりするので、その2冊にもベルクソンへの言及があった。 それもあってのことだ。 もともとドゥルーズの著作などでの紹介も通じて読みたいと思っていた『物質と記憶』を読みはじめたのは。 なんて、そもそも読みにくいものところで、その『物資と記憶』の「訳者解説」をチラ見したところ、「『物質と記憶』は、ベルクソンの著作の中でもいちばん難解だ、

    本が読めない|棚橋弘季 Hiroki Tanahashi