タグ

思考とセルクマに関するgodfreyのブックマーク (2)

  • この一週間で考えた事 - 試作型思索と詩作

    表現, 雑感この一週間ほど、公開の日記の方は休んでいた。なんというか、じっくり考えてみようと思ったので。相変わらず、毎日、何かしら書いてはいたのだけど、それを元に少し考えた事を書いてみようか、と思う。 自分達にとって規制や強制が暴力であるように、お互いに余裕を作ろう、という空気も加害者の論理として、他の誰かには暴力になる。これは、確かにその通りだ。じゃあ、どうすれば良いのだろう、と。守りたいものの優先順位は人それぞれ違う。多数決と平均で優先順位を決める?いやいや、だから、それこそが暴力だろう、と。誰にとっても、暴力にならない事ってどこにあるんだろう。それが無いから、人それぞれ立ち位置を決めるしかないのか?それで、互いに認めることになるのか?きっと、ならない事が多い。 自分が加害と被害を相対化し、萎縮効果のあるゾーニングを嫌った理由立場というものに縛られることが自分は嫌いだった。「〜のくせに

    godfrey
    godfrey 2008/11/12
    長文の自分語りと答えの無いエントリ。要約すると、「自分の痛い所を自分で掘り返してみたけど、答えは出ませんでした」/隙の多いエントリは忘れてしまいたいけど、どこかで忘れたくない物の集まり。
  • 自己満足なネガティブでは何も変えられない - 試作型思索と詩作

    心理ポジティブな満足感や達成感、精神論だけで具体的なことを考えないままでは何も変わらない、という話がよく言われるが、これと同じようなことが、ネガティブな思考の中でも起こると自分は思う。自分をとにかく否定して、々とした気分で動けなくなったまま、具体的にどうするかまで考えることができないという状況に、人間はよく陥ってしまうのではないだろうか。「自分はダメだ」という自己否定は、自分を否定するというそのあり方から、客観性のある行為のように一見思えてしまう。そして、その客観性の存在をアピールすることによって、周囲の攻撃に予防線を張ろうとする行為とも言えるだろう。簡単に言うと、自分を否定しまくるというのは、いじめられる側になりたくないから、みんなと一緒にいじめに加わるという行為と質的には同じものであることが多い。いじめる対象が他人であるか、自分であるか、それが違うだけだ。自分の経験上では、それで周

    godfrey
    godfrey 2008/02/25
    あらためて読むと、自分に向けて書いた部分もかなり大きいエントリと思ったのでセルクマ。
  • 1