1172年よりホラズム・シャーのスルターン・シャーと、その異母兄アラーウッディーン・テキシュの間で王位争いが起こり、弟に対抗して西部に自立したテキシュは初めてスルターンを称した。争いは長期化するが、1189年にテキシュがスルターン・シャーと講和して王位を認められ、1193年のスルターン・シャーの死によってホラズム・シャー朝の最終的な再統合を果たす。 テキシュの治世にホラズム・シャー朝はイランへの拡大を開始する。1194年にはアゼルバイジャンのアタベク政権イルデニズ朝の要請に応じて[6]、中央イランのレイでイラク・セルジューク朝のトゥグリル2世を破ってセルジューク朝を滅ぼし、西イランまでその版図に収めた[7]。1197年、テキシュはアッバース朝のカリフから正式にイラクとホラーサーンを支配するスルターンとして承認され、大セルジューク朝の後継者として自他ともに認められることとなった。 もともとホ