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思想に関するgooのブックマーク (14)

  • SYNODOS JOURNAL : オウム真理教とアカデミズム 大田俊寛

    2012/5/159:0 オウム真理教とアカデミズム 大田俊寛 大田俊寛氏 「日の宗教学は、オウムという対象に自らが躓いたことを、率直に認めなければならない。しかし同時に、そこで終わってはならない。なぜなら、学という営みは根的に、過去の行為に対する批判と反省の上に成り立つものだからである。オウムに躓いたことそれ自体ではなく、なぜ躓いたのかということに対する反省を怠ったとき、宗教学という学問は、当に死ぬことになるだろう」(『オウム真理教の精神史』あとがきより) 1995年にオウム真理教によって地下鉄サリン事件が引き起こされてから17年。同事件によって、社会的な信頼を失ってきた日の宗教学が、今直面している課題とは何なのか。『オウム真理教の精神史』で近代宗教としてのオウム論を展開した気鋭の宗教学者・大田俊寛さんに話を伺った。(聞き手 / 芹沢一也、構成 / シノドス編集部・宮崎直子) オ

  • Q&Aオウム真理教 ―曹洞宗の立場から― | 曹洞宗 曹洞禅ネット SOTOZEN-NET 公式ページ

    質問1 オウム真理教の教えについて概要を説明して下さい。 答 はじめに結論的なことを申しますと、オウム真理教の教えは一見仏教的ですが、「個人の尊厳」と「生命」をないがしろにするこのような教えは、けっして仏教であるとは言えません。 オウム真理教は1980年代半ばに、「ただ一人の最終解脱者」を自称する麻原彰晃(名・松智津夫)教祖が15人ほどのメンバーとともにヨガ道場を始めたことに端を発する「新宗教」と称される新しい宗教団体です。オウム真理教の教えは、インドの思想を底流にしながら様々な宗教の教えを取り込みつつ、日人にも馴染みの深い仏教的な観念を現代風にアレンジしたもの、といえます。 オウム真理教における最高の神はシヴァ神です。シヴァ神は来ヒンズー教の神ですが、オウム真理教においてはそれと同一ではなく、世界における唯一最高なる神であり、キリスト教でいう「ゴッド」も、仏教でいう「大日如

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    goo 2012/04/09
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  • 大田俊寛「オウム真理教の精神史」:オウムの「なぜ」を描き出した一冊で、学問としての社会的責務を宗教学者が真摯に考えた立派な本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」

    オウム真理教の精神史―ロマン主義・全体主義・原理主義 作者: 大田俊寛出版社/メーカー: 春秋社発売日: 2011/03メディア: 単行購入: 61人 クリック: 1,271回この商品を含むブログ (25件) を見る 先日、オウム関係者の死刑判決で、遺族は「なぜ」がわからず不満顔だったという報道について、ぼくはなぜなどと問うべきではない、どうせ答えなんか出ないんだから、という話を書いた。が、書はその「なぜ」をまがりなりにも分析して一応の答を出したであり、またオウム事件に対してこれまでまともな対応を見せてこなかった宗教学の学者が、そうした現状を真摯に反省して宗教学的な取り組みからオウムを切ってみせた点でもきわめてえらい。 読んでいて、まさに上で出てきたリアリー『神経政治学』(そしてぼくのあとがき!)が引用されていてびっくりしたんだが、オウムがどんな宗教・思想的な系譜につながるのかを明

    大田俊寛「オウム真理教の精神史」:オウムの「なぜ」を描き出した一冊で、学問としての社会的責務を宗教学者が真摯に考えた立派な本。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
  • 2012年大学入試センター試験「倫理」第四問問7(フッサールに関する問題)について - 研究日誌

    今年の大学入試センター試験の「倫理」で「フッサールの思想の記述として最も適当なものを、次の1から4のうちから選べ」という問題が出た(こちらで見ることができる)。選択肢は以下の通り。 人間は自己の在り方を自由に選択するため、実存が質に先立つ。 事物は知覚とは独立に存在せず、存在するとは知覚されることである。 言語の限界を超える語り得ぬものについては、沈黙せねばならない。 自然的態度を変更し、判断中止を行うことが必要である。 正解とされているのは4なのだけど、そこに書かれていることはフッサールの思想の記述としてはちょっと(あるいは、場合によってはかなり)まずいように思われる。というわけで、フッサール研究者の端くれとして、私がなぜこの問題に難があると思ったのかについて簡単に書いておく。 I. 「判断中止」という言葉について まず指摘しなければいけないのは、「判断中止」という言葉はフッサールの著

    2012年大学入試センター試験「倫理」第四問問7(フッサールに関する問題)について - 研究日誌
  • 「騙された」とか歌って喜んでる斉藤和義と信者はこれ読めよマジで

    戦争責任者の問題伊丹万作  最近、自由映画人連盟の人たちが映画界の戦争責任者を指摘し、その追放を主張しており、主唱者の中には私の名前もまじつているということを聞いた。それがいつどのような形で発表されたのか、くわしいことはまだ聞いていないが、それを見た人たちが私のところに来て、あれはほんとうに君の意見かときくようになつた。 そこでこの機会に、この問題に対する私のほんとうの意見を述べて立場を明らかにしておきたいと思うのであるが、実のところ、私にとつて、近ごろこの問題ほどわかりにくい問題はない。考えれば考えるほどわからなくなる。そこで、わからないというのはどうわからないのか、それを述べて意見のかわりにしたいと思う。 さて、多くの人が、今度の戦争でだまされていたという。みながみな口を揃えてだまされていたという。私の知つている範囲ではおれがだましたのだといつた人間はまだ一人もいない。ここらあたりから

  • 「見知らぬ他人妄想」と「脳の中のゴースト」 | WIRED VISION

    前の記事 ミツバチ集団失踪:疑惑の殺虫剤と米環境保護局 「見知らぬ他人妄想」と「脳の中のゴースト」 2010年12月16日 サイエンス・テクノロジー コメント: トラックバック (0) フィードサイエンス・テクノロジー Jonah Lehrer イタリア、ベニスで販売されている、カーニバル用の仮面。画像はWikimedia よく見知ったはずの人物が非現実的に感じられ、「見知らぬ他人に入れ替わっている」と感じられる妄想がある。古典的には、カプグラ症候群と呼ばれる精神疾患だ。[カプグラ症候群は、「家族・恋人・親友などが、瓜二つの替え玉に入れ替わっている」という妄想を抱く精神疾患の一種で、1923年にフランスの精神科医カプグラによって報告された] 以下、Benedict Carey氏が『Times』に書いた記事から引用しよう。 アイデンティティ[人格の同一性]に関連した妄想を生じる時、その脳は、

  • 茂木健一郎 クオリア日記: ダライ・ラマ法王にお目にかかる

    ダライ・ラマ法王と対談しないか。この話を持って来たのは、白洲信哉である。 いかにも彼らしく、特別なことは言っていないという素振りで、しかし、事の重要性は十分に把握しているというふうだった。 「もちろん」と私は答えた。光栄なことだし、そんなにある機会ではない。 ダライ・ラマ法王がラサにお戻りになるという話を、私は2006年に発表した小説『プロセス・アイ』の中で書いたことがある。 猊下に会いに、新居浜に来た。聞くに、猊下もまた風邪だという。 出来る限り万全なコンディションでお会いしようと、飛行機の中でも、移動の車の中でもひたすら目を閉じて、眠った。 会場のホテルに着く。何かがすでに違っている。何かを待つかのように、ロビーのあちらこちらに立っている人たちがいる。 日事務所のラクバ代表や、ダライ・ラマに随行する医師バリー・カーズィン博士、それに今回のイベントを企画された斎藤友巌住職らと昼をとる

  • 雑感 - finalventの日記

    たぶん真理は宗教の中にはない 倫理的な意味ではあるかもしれないが。 以前というかもう随分昔になるが、大森荘蔵のエッセイを読んでいて仏教への批判というか、ごく普通に仏教の考え方を疑問視しているのがあって、ああ、仏教が必ずしも真理ではないのだろうなと思ったことがある。いやそれだけいうと稚拙だが、こういうスキームではいつも仏教とはなんぞや、仏教における真理とはという問いかけに転換する(おまえの仏教理解は全然違う正しい仏教はなんたら議論)が、それはそもそも間違いだろうなという含みである。哲学は、数学なんかと同じで、実は、けっこう真偽が問えるものも多く、意外と宗教的な真理も包括して偽を下せるのではないかと思った。私は宗教には別段真理などないんじゃないかと思っている。 まあ、いわゆる仏教、とするしかないが、縁起説と無我説がある。前者は時間と因果と意識をどう含めるかで実際には多様な議論があるが、無我説が

    雑感 - finalventの日記
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    goo 2010/03/21
    哲学的な真理、認識というのは、人の苦を救わない
  • 恐山あれこれ日記: 僧の立ち位置

    僧の立ち位置 命は大切なものだ、と最初から決まった話ではないでしょう。最初から決まった話なら、それを大声で言いながら、人類始まって以来、こうも互いに殺し合いを続けるはずがありません。そうではなく、誰かが命を大切にするから、それが大切なものになるのでしょう。 このとき、命とは生きていることと、死ぬことを意味します。つまり、命を大切にするとは、生きることと死ぬことを大切にすることなのです。 さて、昨今、臓器移植法という法律が「改正」されて、「脳死」が「人の死」にされ、家族のみの同意で臓器が摘出され、その提供に年齢制限もなくなりました。 私がここで言いたいことは、「脳死」を「人の死」と定めることや、そのほか、法律の内容の是非についてではありません。 しょせん「人の死」の判定なんぞは、「大人」と「子供」の区別と同じで、時と場合によって、必要に応じて適当に判断する以外に方法はなく、だからこそ「法律」

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    goo 2009/07/30
    脳死について 宗教者のありかた
  • まるごと死んでゆく - kom’s log

    長期脳死、人の意思表示@参議院での発言(森岡正博さん) http://d.hatena.ne.jp/kanjinai/20090708/1247014793 ここから、私の個人的な見解、といいましょうか、思想、哲学になるのですが、 こどもたちには、自分の身体の全体性を保ったまま、 外部からの臓器摘出などの侵襲を受けないまま、 まるごと成長し、そしてまるごと死んで行く、 自然の権利というものがあるのではないでしょうか。 そして、その自然の権利がキャンセルされるのは、 人がその権利を放棄する事を意思表示したときだけではないでしょうか。 日の国政の場でこのようなスピーチがあったことに拍手したい。「日文化では、臓器移植はいやがられる」的な形で文化論にもっていって「しかしながら欧米では」といった”脳死は人の死”擁護論があるけれども、上のリンク先を読めば、文化バイアスではなく脳死状態はひとつ

    まるごと死んでゆく - kom’s log
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    goo 2009/07/08
    まるごと生きてまるごと死ぬ
  • ホーリズムとリダクショニズム | wrong, rogue and log

    科学の基礎となる世界観にも、流行廃りというのがあって、事態を思いっきり単純に二元論的にいってしまうと、それはホーリズムとリダクショニズムのせめぎ合いによるものではないかと思っている。 ホーリズムとは、全体は部分に還元できず、全体は部分の和以上のものであると見なす、アリストテレスの形而上学をはじめとする考え方のことだ。これに対して、全体は部分に還元可能だし、部分は全体に統合可能だと規定する、デカルト流のリダクショニズムがある。ホーリズムとリダクショニズムは正反対をなしているとされる。 最近、福岡伸一さんが新書を中心に盛んにエバンジェリングをしているシェーンハイマーの「動的平衡仮説」なんて、典型的なホーリズムである。その他にも、ニールス・イェルネの免疫ネットワークや、デビット・ボームのホログラフィックユニバースのようなものもある。80年代から90年代中盤まで流行って廃れた複雑系科学は、ホーリス

    ホーリズムとリダクショニズム | wrong, rogue and log
  • 雲ゆき 水ながれ:ダンテスダイジ - livedoor Blog(ブログ)

    だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ 死んだら あたたかい夜のぬくもりの中で 君と僕は 君と僕のいのちを あたためあう 夜闇のフクロウも 僕達の命だ フクロウの鳴き声が 静かに僕達の瞳をしめらすことだろう だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ 死ぬべき君には もうどのような恐れも無用だ そして僕達は 時間を忘れた夜明けの すがすがしい大気を吸い込む まるで初めて 大気を吸いこんだように 僕達は 夜明けの息吹きを感じることだろう だいじょうぶだよ やがて死ぬ時が来る 僕達の宇宙ゲームを終らせて 夢もない眠りに やすらかに帰る時がくる 初めがないここには 生も死も 初めから夢にすぎなかった だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ さあ今 君は君自身に帰る 帰っておいで 君自身である 僕自身の胸の中に 人々は どういうわけか 死をいみ嫌っていた だが だいじょうぶだよ 君もやがては死

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    goo 2009/04/17
    ダンテスダイジ だいじょうぶだよ 君は必ず死ぬ
  • ドクター苫米地ブログ - Dr. Hideto Tomabechi Official Weblog:イエス・キリストを理解してない人たちへ、-(仏陀を理解していない人たちも) - livedoor Blog(ブログ)

    2007年02月22日13:27 カテゴリ イエス・キリストを理解してない人たちへ、−(仏陀を理解していない人たちも) http://www.tomabechi.com の掲示板の2004年の2月過去記事: >>>>【記事番号:497】 サトリの先にあるもの・2 投稿者: 苫米地英人 投稿日時: 04/02/16 18:53:44 近代宗教(キリスト教、イスラム教、仏教など)は、原始的宗教に一般に見られる矛盾=神と人間の関係が対等であるという立場、もしくは、人間が神を使役するという、人間が神の上位になる関係を避けることで成り立ってきたといえます。例えば、日の古来の「御利益」の概念は、人間が、一心不乱に祈ったり、水行をしたり、生け贄を捧げたりして、なんらかの犠牲を神に払えば、神がお返しに御利益をくれるという概念です。これは、人間の行為に神が見返りを提供しなければならないという、人間と神を対

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    goo 2009/04/13
    何度でも読もう。
  • また少し現成公案メモ - finalventの日記

    こんなことに関心を持つ人がいるかわからないし、仏教や道元に関心を持つ人でも、私が何を考えているのかバカみたいに見える人もいるだろうけど、そこはご愛敬で、メモ、と。 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。 「諸法の仏法なる時節」という限定節が何を意味しているかが、まず難しい、のだが、これは単に「時節」であり、「時」ということだと思う。ここで現代人が道元を誤解するのは、「時」に対する基的な認識を異にしている部分が大きいだろう。 道元にあっては、時とは有であり、彼は有時といっている。有るということは時である。ここで、おそらく道元がその前半生で悩んでいた問題は、たぶん、ゼノンパラドックスと同じだろうと私は思う。飛んでいる矢は止まっているということだ。もちろん、道元はゼノンパラドックスは知らないし、その思考の枠組みで考えているわけではない。 ただ、たぶん、道

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