ブックマーク / kai-hokkaido.com (89)

  • 「大学村の森」が受け継ぐもの|特集|北海道マガジン「カイ」

    「第2農場」から車で約10分。「大学村の森」は広さ約1.8ヘクタール、札幌市東区の住宅街にぽっかり現れる 「第2農場」の特集なのに、「第3農場」のハナシ? はい、そうなんです。だって、とても素敵な緑地空間に生まれ変わっていたものですから。ご存じですか、札幌市東区にある「大学村の森」を。時代に埋もれそうだったこの場所を、愛し、見守る人たちに、会いに行きました。 都市に残る〝森〟へ 「ちょっと不思議な公園だよ」。 取材前にそう聞いたけれど、初めて訪れたときは確かに驚いた。 うねるように枝を伸ばす大木。その根元を細枝が覆い、深緑の絨毯が広がる。 散策路や遊具が整ってはいるが、蒼とした雰囲気は、原始の匂いを放っている。 郊外ならともかく、ここは住宅街。札幌農学校「第3農場」の歴史を持つ、「大学村の森」である。

    「大学村の森」が受け継ぐもの|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 七飯から、東アジアの近代が見える|特集|北海道マガジン「カイ」

    幕末当時の欧米列強は東アジアや日、そして蝦夷地をどのように見ていたのだろう——。かつて七飯町にあったガルトネル農場は、北海道のもうひとつの歴史地図を僕たちに考えさせてくれる。 プロシア駐日領事とガルトネルの蝦夷地調査 幕末から明治にかけて、プロシアからやって来て七飯(ななえ)に農場を開いたラインハルト・ガルトネル(以下R.ガルトネル)。彼の農場は開拓使に引き継がれ官園に発展して、国策としての農業フロンティアのひとつになった。R.ガルトネルはそもそもなぜ日にやってきたのだろう。そこを考えるには、19世紀後半の東アジア情勢にまで構図を広げなければならない。 プロシアとは現在のドイツ連邦共和国の母体になった王国(首都ベルリン)で、オーストリアとの戦い(1867年)や普仏戦争(1870〜1871年)の勝利を経て、分裂していた小国群をドイツ帝国として統一したのが、鉄血宰相ビスマルクだ。時は187

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  • 噴火湾350年の旅へ|特集|北海道マガジン「カイ」

    洞爺湖のすぐ南にある活火山有珠山(733m)。この山が数千年の眠りからさめて大噴火を起こした17世紀は、噴火湾を囲むほかのいくつもの火山が呼応するように激しい活動を繰り広げた時代だった。そのふもとでは、人々のどんな営みが重ねられていたのだろう。 湾が火山の噴煙につつまれた時代 直径ほぼ10キロで周囲約43キロ。湖畔道がフルマラソンの距離に近い円い洞爺湖の東には、さらに円い倶多楽(クッタラ)湖がある。長大な海岸線をもつ噴火湾(別名内浦湾)は、直径約50キロ。渡島半島に西から抱かれてみごとに円い。洞爺湖一帯の地勢には、どうやら「円」をめぐる主題が埋め込まれている。洞爺湖や倶多楽湖の円さは、太古に激しく繰り返された火山活動のカルデラに由来するものだ。 円い噴火湾には、冬から春、流氷で冷やされて千島列島から南下する千島海流が反時計まわりに入る。そして夏からは、日海を北上する対馬暖流の支流が勢いを

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  • バスから始まる物語。|特集|北海道マガジン「カイ」

    人気ブログ「主婦バスガイド花子でございます」でご存じの方もいるでしょう。「バスガイド花子」さんは、観光案内のスペシャリストでありながら、プライベートで北海道を旅するのも好きだという彼女。バスガイド秘話からバス旅の魅力、さらには妄想ツアーまで。縦横無尽なバス談議をどうぞ。 バスは舞台、ガイドは女優!? バスガイドさんに、初めて会うのはいつだろう。 「修学旅行」という人が、多いのではないだろうか。 観光シーズン真っただ中、6月末にお会いした「花子」さんは、数日前に州からの修学旅行生をガイドしたばかりだった。 18歳でバスガイドになり、ウン十年。ベテランの彼女でも、「ステッカーを持ってお客様を迎えるときは、毎回緊張します」というから驚きだ。何でも、全国各地、どこから来るかにあわせて挨拶の中身を変えるのだそう。 というわけで、突然ですがお願いしてみました。「バスガイド花子」さんの挨拶です。 「○

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  • コシャマイン記(鶴田知也著) | 北海道マガジン「カイ」

    あらすじ セタナの酋長ヘナウケは六つの集落を率いて蜂起するが、松前藩の騙し打ちにあい殺される。その子コシャマインは、母や従者と逃亡生活を送ったあと、ユーラップの酋長イトコイの庇護を受け、ユ―ラップ川上流に隠れ住む。しかし、彼らに待っていたのは、和人の奸計による悲惨な結末だった。 憎しみの連鎖に警鐘 北国諒星/一道塾塾生 渡島管内八雲町は、明治維新後、旧尾張徳川家の家臣たちが入植し、農場を拓いたところだ。作家鶴田知也がこの地に足跡を残したのは、大正11(1922)年8月のことである。 鶴田は東京神学社神学専門学校を信仰上の懐疑から中退し、八雲町出身の友人とともにこの町を訪れた。ふたりは駅から西方15キロほど離れたトベトマリ(ユーラップ川上流の上八雲)に達し、丘の上に住んで自炊生活を始めた。 翌年春、知也は8カ月の八雲生活を切り上げ、名古屋で労働運動に入るが、昭和2(1927)年には、プロレタ

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  • 江部乙の美しい農業景観|カイ×アルキタ まちぶらNAVI|北海道マガジン「カイ」

    2015年10月、滝川市江部乙町が「日で最も美しい村」に正式加盟した。評価のポイントは地域資源としての「日一の菜の花畑」と「防風林に囲まれたりんご畑」。 江崎さんは江部乙で生まれ育った農家の3代目で、滝川の「なたね生産組合」の組合長を務める。江崎さんの父親は江部乙でも早くに菜の花栽培に取り組んだ。 「菜の花の栽培を始めて20年くらいになります。菜の花は連作が難しく、4~5年のサイクルで畑を回しながら作っています。なたね油をしぼるのですが、やがて収穫前の景観が注目されるようになったのです。最初は地元の人に喜んでもらえればと、村の祭りのような感じで始めたのですが、今では多くの人に来てもらえるようになりました」。 作付面積日一の冠もあり「たきかわ菜の花まつり」には毎年10万人前後が江部乙に足を運ぶ。かつて江部乙の農作物といえばリンゴが有名だったが、生産者の高齢化や後継者不足などもあり、リン

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  • 鳥になりたいなら、滝川へ!|カイ×アルキタ まちぶらNAVI|北海道マガジン「カイ」

    滝川のコミュニティFM「Gsky」は2001年に商店街活性化の実験事業としてスタートし、市民の反応もよく、その後に株式会社化された。そこで“あけみさん”としてパーソナリティ兼営業部長を務め、市民に人気の庭野さん。パーソナリティ歴は16年、子供の付き添いから始め今やライフワークになったという空手歴は25年、そして滝川での生活歴は32年を数える。 そんな庭野さんが、滝川に来たのなら、ぜひ体験してほしいと思うのがグライダー。国道等で見かけるカントリーサインも、滝川はグライダーがモチーフになっている。 「静かな世界と、滝川だけでなく中空知全域が視界に飛び込んでくるギャップがものすごく大きく感じます。自分がいつもと違う次元の中に存在しているようで、これがグライダーの魅力なのでしょうね」 滝川市の石狩川河川敷には日で最初の格的な航空公園「たきかわスカイパーク」があり、4月中旬~11月中旬の飛行シー

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  • サッポロ珈琲館平岸店 | 北海道マガジン「カイ」

    札幌軟石に刻まれた、平岸リンゴの記憶 それは、地下鉄平岸駅のある環状通から1北に入った小路沿い、マンションの陰に隠れるようにひっそりと建っていました。案内してくれたのは、札幌建築鑑賞会の代表・杉浦正人さん。古い建物にまつわる歴史や物語を採集しながら町歩きを楽しむ達人です。 「この札幌軟石の建物はですね、昭和13年、平岸のリンゴ農家の方々が共同で建てたものです。1階がリンゴの貯蔵庫、2階がリンゴの共同選果場兼集会場でした。ほら、2階にくらべ1階の窓が極端に少ないでしょう?」 玄関は後から造られたもので、1階の大きな窓がかつての出入り口だそう。そう言われてみると、1階には小窓が一つしかありません。なるほど、温度変化を避ける工夫だったんですね。 この建物で喫茶店を経営する伊藤栄一さんにもお話を伺いました。伊藤さんは札幌市内に12店舗を展開するサッポロ珈琲館の代表取締役会長です。 「以前は沢田珈

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  • 「一の橋バイオビレッジ」のシイタケとイタリアン|特集|北海道マガジン「カイ」

    かつて名寄線「一の橋駅」があった場所に生まれた地域堂「駅カフェイチノハシ」のランチパスタ。地域おこし協力隊でイタリアンのシェフ、宮内重幸さんが腕をふるう 「一の橋バイオビレッジ」誕生まで 下川町中心部から国道を東へ10kmほど走ると「一の橋地区」に到着する。 人口約140人、周囲を山に囲まれた緑の美しい小さな集落だ。1920(大正9)年に鉄道の駅が開設され、一の橋営林署を中心として林業で栄えた。最盛期の1960年には人口が2000人を超え、集落は活気に溢れたという。しかしやがて林業が陰りを見せ始め、1988年に営林署が下川に統合、翌年JRの廃線とともに駅がなくなり高齢化と過疎化が一気に進んだ。 2001年から地区の人たちと町が「一の橋市街地活性化プラン検討会」を開催し、これからの一の橋地区について考えることになった。下川町環境未来推進課の平野優憲(ひらの・まさのり)さんは言う。 「産業

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  • 残響(田中和夫著) | 北海道マガジン「カイ」

    あらすじ 薩摩藩のイギリス留学生の一人として、西洋の文化に触れた村橋久成は、ひとつの藩から、日という国家を考えるようになってゆく。やがて開拓使に出仕して、イギリスで見た西洋式大農経営や近代的農業器械技術を、北海道の開拓に役立てたいと夢みる。 麦酒醸造所決定を覆し札幌へ 山崎由紀子/一道塾塾生 村橋久成は、薩摩藩主島津家の一門である加治木島津家の分家という由緒ある家柄で、将来は家老職につき藩を背負って行く地位にあった。慶応元(1865)年のイギリス留学生の中でも、家柄の良さは群を抜いていた。それだけに、西洋の文明を学び世界の進歩に目を見張り、藩人という意識が薄れて行くことに恐れを抱いた。悩み、葛藤に耐えきれなくなり、一年早く帰国した。 藩命によるイギリス留学を途中放棄して帰国した藩中の眼は冷たかった。帰国の真意を説いても、西洋を知らなくては理解できる筈もない。村橋は、いつの間にか黙して語ら

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  • 少年の遊び心をくすぐる「男のドォルハウス」|カイ×アルキタ まちぶらNAVI|北海道マガジン「カイ」

    寂れたトタン屋根、古びた板張りの壁、さっきまで誰かがいたような気配。 そのノスタルジックな作品を見るまで、ドールハウスといえば、 花柄が似合う女たちのファンシーな世界だと思い込んでいた。 建築模型とは少し違う。男心をくすぐるリアル感は、情景模型とでもいえるだろうか。 60~70年代のアメリカのような、北海道のような 色あせた日除けシェード、扉のペンキは剥げ落ち、看板もサビついている。その日光や雨風にさらされた愛着のような風合いは、どこか男の勲章にも見える。ラジオからはボブ・ディランの歌が聴こえ、エンジンオイルと汗の匂いが漂ってきそうだ。女性が描く可愛いドールハウスとは一線を画したくて、作家の杉山武司さんは「男のドォルハウス」と名付けた。夕暮れ時が似合うような、どこか懐かしい世界ではあるけれど、昭和レトロではない。「僕が描いているのは、60~70年代のアメリカのような、日のような、北海道

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  • 塩狩峠~ふたつの大河を分ける物語-2|特集|北海道マガジン「カイ」

    和寒町JR塩狩駅のすぐそばに、旅好きたちに知られた宿がある。開業5年目のこの若いユースホステルから、塩狩峠をめぐる人と鉄路の話がはじまる。 鉄路で塩狩峠を越えたくて 旭川から一両だけのディーゼル機動車に乗って北へ。塩狩を目ざした。宗谷線の普通列車は、ワンマン運転。北比布(きたぴっぷ)をすぎると田園風景は終わりを告げて、蘭留(らんる)からしだいに山あいに入っていく。勾配がきつくなるにつれ、エンジジンの息も上がった。しばらくあえぎながら、単行列車がようやくひと息つく峠のピークが和寒町の塩狩駅だ。峠といっても、ダイナミックな眺望が開けるわけではない。天「塩」川水系と石「狩」川水系の分水嶺となるこのあたりは、尾根のあいだの川筋をぬって太古からアイヌの人々が行き交ったルートだったという。アイヌ語の「ル」は道の意味だが、ランルとは「下る・道」。天塩川源流域を上り詰めてから上川盆地に下ることにちなむのだ

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  • 小さな酒蔵が醸す夢|特集|北海道マガジン「カイ」

    上川町は「北海道の屋根」とも言われる大雪山連邦の麓に広がる町。年間200万人もの観光客が訪れる層雲峡温泉を有する 層雲峡の名前は知っていても、どの町の温泉地か知らない人は多いかもしれない。北海道上川町。日最大の山岳公園「大雪山国立公園」の玄関口に位置し、ダイナミックな自然に抱かれた小さな町だ。その町から聞こえる熱い声に耳を傾けていくと、壮大な夢が浮かび上がってくる。 常識を変える「緑丘蔵」 札幌の居酒屋で、隣の席の会話がふと聞こえてきた。 「新しい酒蔵ができるんだって?」「そうそう。杜氏があの川端さんらしい」。 雪降る2月、酒蔵はまだ建設の途中。この後に取材する人たちの注目度がわかる出来事だった。 北海道で12番目となる新しい酒蔵は、北海道のほぼ中央に位置する上川町に誕生。雄大な大雪山系を望み、石狩川の「最初の一滴が生まれる場所」とも言われる名水の里だ。 2016年11月に設立された、上

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  • 上川町に移住した杜氏|特集|北海道マガジン「カイ」

    川端杜氏を囲む「酒蔵支え TaI」の皆さん。上川町のマスコットキャラクター「かみっきー」も駆け付けてくれた 川端慎治さん。北海道の日酒党には広く知られた杜氏で、前に在籍していた酒蔵を辞めた時は、復帰を求める署名運動が起こったほどだ。その杜氏が約2年ぶりに酒造りの現場へ帰ってくる。選んだ職場は、上川町に誕生する新しい酒蔵。完成したばかりの「緑丘蔵」へ噂の杜氏を訪ねた。 道民が愛する、飲まさるお酒 日酒のことはあまり…という読者のために、川端慎治(かわばた・しんじ)さんのことをまず紹介したい。北海道小樽市生まれ。金沢の大学時代に出会った日酒に衝撃を受けて酒造りを志し、日各地の酒蔵で経験を積む。2010年、金滴酒造(新十津川町)の杜氏となり、翌年、道産米のお酒で全国新酒鑑評会の金賞を受賞し、金適酒造の名前を世に広めた。 「40歳になったら北海道に戻ろうと決めていました。それまで酒造りに道

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  • 全国から羊肉好きがやってくる「ラ・ペコラ」|カイ×アルキタ まちぶらNAVI|北海道マガジン「カイ」

    「羊1頭まるごと使いこなす料理を広めたい」 滝川で道産羊料理にこだわる父の背中を見て、故郷に戻ってきた河内一輝シェフ。 春しかべられないミルクラムを求めて、東京からやってくる客も少なくない。 羊料理を息子に遺し、初代シェフは旅立った 店名の「ラ・ペコラ」は、イタリア語で「一匹の羊」を意味する。初代シェフの河内忠一さんは、1990(平成2)年、ある決意を持って滝川に道産羊料理べられるレストランを開いた。当時、滝川には畜産試験場があり、サフォーク種の飼育や用の研究をしていた。職員の誘いで肉処理場に出入りをし、羊が息絶える瞬間に立ち会う。 羊の内臓が捨てられていることを知り、少年期、家で飼っていた羊の毛でマフラーや手袋を編んでくれた母の言葉を思い出す。「これは羊からの贈り物だよ」。料理人として「羊1頭まるごと使いこなす料理を広めたい」と、内モンゴル、スイス、イタリアへと羊料理を学ぶ旅に

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  • 塩狩峠~ふたつの大河を分ける物語-1|特集|北海道マガジン「カイ」

    開拓とともに延びていった北海道内陸の主要交通網のほとんどは、古来アイヌの人々が踏み分けていた道がもとになっている。そのことの意味を考えてみるのに最適な場所が、天塩川と石狩川の分水嶺である塩狩峠だ。 アイヌの冬の道をなぞった道路と鉄路 道北の和寒(わっさむ)町にある塩狩峠(272.9m)。ここはこの島が北海道と呼ばれるはるか前から、上川盆地と名寄盆地を分ける交通の要衝だった。太古に南側の上川盆地を作ったのは、上川町が位置する石狩川の水系。北側の名寄盆地を押し開いたのは、下川町のある天塩川の川筋だ。 1869(明治2)年、開拓使東京出張所の高級官僚(判官)だった松浦武四郎は、「蝦夷地」に替わる地名「北加伊道」を明治政府に提案した。それが「北海道」となったのだが、同時にこの島を千島を含めて11の国に分けている。それぞれには、日高、後志(しりべし)、胆振(いぶり)といった日書紀を原典とする国名や

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  • なぜ北海道でジンギスカンが広まったのか|カイ×アルキタ まちぶらNAVI|北海道マガジン「カイ」

    北海道で羊肉がべられるようになったのは大正時代。 農家の副業として江部乙村で5頭の羊が飼育され始めたのは1913(大正2)年。 滝川町では1915(大正4)年に13頭の飼育記録が残っている。 数ある羊肉料理の中から、なぜジンギスカンがこれほど広まったのか。 かつて羊毛は軍需品だった 北海道に初めて羊がやって来たのは1857(安政4)年。箱館奉行所で10頭飼育したのが始まりだ。箱館開港の2年前、捕鯨船に便乗して箱館に上陸した米国の貿易事務官ライスが助言していたという。開拓使に雇われ、北海道の畜産業に大きく貢献した米国の獣医師エドウィン・ダンが七重農業試験場に赴任する18年も前のことだ。 開拓当初、理想的な羊毛が取れるメリノや“羊肉の王様”と呼ばれるサウスダウンなど、さまざまな品種を輸入していた。開港により西洋文化がもたらされ、羊毛製品の消費や習慣も変わると思われた。しかし、開拓使が開いた

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  • 満月の森を歩く|特集|北海道マガジン「カイ」

    まちの面積の約9割を森林が占める北海道下川町で、森と関わる人たちに会った。苗木を育てる人。伐った木を材にする人。その材で家をつくる人。森を守る仕組みをつくる人。その恵みを大切に使う人。森と関わることは、下川で暮らすことそのものだった。第1回目は、森を案内する人のお話。 森の静寂 2017年3月12日、月齢13.49。 下川町の「NPO法人森の生活」が毎年開催する「ムーンウォーク」という催しに参加した。冬の満月の夜、スノーシューを履いて森の中をゆっくりと歩くイベントである。雪が積もっていると、ふだんは歩けないような場所でも歩きやすいうえ、落葉樹がすっかり葉を落としているので見通しがいい。空気はどこまでも澄みわたり、夜空もとびきり美しい。森歩きには最高の季節だ。午後7時、町内の五味温泉駐車場に集合してスノーシューを装着。森へと出発した。 10分後、あっという間に他の参加者から遅れをとった。初め

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  • 川が流れるように|特集|北海道マガジン「カイ」

    北海道下川町は1953年、1221haの国有林の払い下げを受けたことをきっかけに積極的な植林を開始した。毎年約50ha植林し、60年で伐採する「循環型森林経営」のはじまりである。森で生まれる資源は、川の流れのようにまちのあちこちに広がっていく。その流れをつくり出した一人に会った。 「山ちゃん、頼む」 下川町森林組合の組合長を20年つとめ、現在は集成材を加工する「下川フォレストファミリー株式会社」の社長である山下邦廣さん。通称「山ちゃん」が、木の香りに包まれる事務所で私たちを迎えてくれた。 「集成材は原料になる木の節や割れを除き、いいところだけを貼り合わせて作る材木です。この事務所は全部うちの製品を使って社員みんなで建てたんですよ」 会社設立は2014年。それまでは、森林組合の事業の一つとして集成材加工を行ってきた。現在の下川の「循環型森林経営システム」を提唱した前々町長、原田四朗氏が「付加

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  • 母(三浦綾子著) | 北海道マガジン「カイ」

    あらすじ 秋田の小作農家に生まれたセキは7人の子どもを生み育てる。優しく親孝行だった 多喜二は1928(昭和3)年に起きた三・一五事件を題材に『一九二八年三月十五日』を『戦旗』に発表。作品中の特高警察による拷問の描写が、特高警察の憤激を買い、後に拷問死させられる引き金となった。 愛してやまない息子の理不尽な死を乗り越えて生きていくセキ。母と子の愛と慈しみにあふれた物語は、秋田弁で語られていることで、悲しみと優しさをいっそう深く伝えている。 多喜二を生み育て慈しみ抜く 斉藤康子/一道塾塾生 『蟹工船』の作者で、プロレタリア文学の旗手とされる小林多喜二の母セキを描いたこの作品は、セキが亡くなる1カ月前に話を聞いたという設定でのもと、全編やわらかな秋田弁の語り口調で書かれている。 わだしはね、再来年は数えて九十になるんですよ。こったら年寄りが、こうしてみんなに、大事に大事にしてもらってねえ。もっ

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