ブックマーク / kai-hokkaido.com (86)

  • オホーツクミュージアムえさし | 北海道マガジン「カイ」

    金色の鐔(つば)と2つの足金具(あしかなぐ)にほどこされた文様が、3つとも異なることに注目。鋒(きっさき)が両刃(もろは)になるまっすぐな刀は、反りのある片刃の日刀が完成する以前の刀剣。鞘(さや)にほどこされていたと思われる蒔絵は、通常は革が使われる把(つか)にも入れられていたことがわかった。オホーツク文化の遺跡で見つかった交易品だが、国産なのか唐(中国)で作られたものかは現在研究中。 刀装具を金で飾り文様を施した刀の出土は、東北以北で初。また、9世紀初頭の蒔絵の工芸品も国内にほとんどない。地元・枝幸高校の生徒が初めての発掘で発見したというストーリーに驚く。 北の海辺に輝く金の刀 黄金に浮かび上がる、花びらのような文様。その一枚一枚が重なって優美な曲線を生み出し、縁に細かく入れられた線で鳥の羽のようにも見える。これは「宝相華文(ほうそうげもん)」と呼ばれる、植物をモチーフとした文様だ。目

    オホーツクミュージアムえさし | 北海道マガジン「カイ」
  • シラカバを使い、育てる。その先に。―白樺プロジェクトが描く、森と人の未来―|特集|北海道マガジン「カイ」

    北海道を代表する樹木・シラカバ。明るい場所を好むため、山火事や道路づくりなどで木がなくなると真っ先に生えてくる“パイオニアツリー”と呼ばれる(提供:白樺プロジェクト) “北国のシンボルツリー”シラカバに、光が当たっている。北海道では長らく木材として評価されてこなかったが、実はたくさんの活用法があり、持続可能な森林利用を探る可能性まで秘めていることが分かってきた。発足5年目の「白樺プロジェクト」を訪ねて、旭川へ向かった。 「シラカバに魅せられて」というコラムを、旭川デザインセンターのニュースレターに寄稿したのは2020年のこと。シラカバを「市の木」とする北海道・帯広育ちの私にはありふれた樹木だったが、2013年のアニメーション映画「アナと雪の女王」では美しく神秘的に描かれ、モデル地・ノルウェーなど北欧のシラカバ文化を知ったことで魅力を再発見した体験を綴った。その後も雑貨や器を集め、最近はサウ

    シラカバを使い、育てる。その先に。―白樺プロジェクトが描く、森と人の未来―|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 下宿屋さんは令和も健在!~「下宿 上野」の今昔物語|特集|北海道マガジン「カイ」

    昔ながらの学生街にふさわしい、懐かしい響きを持つ「下宿」。北海道大学そばで半世紀近く営業する「下宿 上野」は、多くの学生たちを受け入れてきた。祖父母、母からバトンを受け継ぎ、三代目管理人となった山下雅司(やました・まさし)さん(34)は「“”と“住”で支えたい」と語る。 親子二代でのプロ マスク越しでも、出汁の深い香りが感じられた。 「下宿 上野」の玄関口。正面のドアからひょっこり顔を出した山下さんは、エプロン姿だ。訪れたのは午後の早い時間帯だが、撮影のために晩御飯の仕込みを早めに始めてくれたという。調理場をちらり覗くと、揚げたてのカツが山盛り! 今夜はスタミナ満点のかつ丼だ。 部屋を間借りし、大家さんやほかの下宿人と共同生活する「下宿」。旅館業法で「1月以上の期間を単位として宿泊させる営業」と規定され、東京を中心に全国各地の大学やオフィス街周辺に多く建ち、親元を離れた学生や独身の会社

    下宿屋さんは令和も健在!~「下宿 上野」の今昔物語|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 循環型の地域社会をつくる、旭川まちなかぶんか小屋|特集|北海道マガジン「カイ」

    旭川駅前の平和通買物公園をまっすぐ進み、さんろく街と呼ばれる歓楽地を通り越した7条に、ちょっと変わった店舗がある。その名も「まちなかぶんか小屋」。パッと見ただけでは営業内容が分からない不思議な店構えだ。 旭川市が開設した施設を、市民団体で運営 まちなかぶんか小屋は、市民の任意団体によって運営されている多目的スペースである。新型コロナ感染症が広がる前の2019年度は、年間で383回のイベントやワークショップが開催され、のべ6895人が参加する、にぎやかな場所だった。コロナ禍でイベントこそ3分の1に減ったものの、今も毎日のように人が訪れ、市民の交流の場として機能している。 このユニークな空間は、どのように生まれたのだろう。 「ここは旭川市が中心市街地活性化事業の一環として、元薬局の空き店舗を改装して2013年8月に開設されました」 そう説明してくれたのは、事務局長の有村幸盛さん。運営を委託され

    循環型の地域社会をつくる、旭川まちなかぶんか小屋|特集|北海道マガジン「カイ」
  • イザベラ・バードの日本の旅と旅行記の真実|特集|北海道マガジン「カイ」

    左が1880年に出版された日の旅の正式の記録である二巻。右が簡略。二巻の5年後(1885年)に分量を半減し、同じ装丁でサイズをやや小さくして出版された(ともにジョン・マレー社)。New Edition, Abridgedと記された簡略が二巻にとって代わり、1888年にはこの表記が消されてThird Editionと記され、1893年にはFourth Editionとなり、1905年には装丁が一変して表記もPopular Editionに、1911年には装丁がさらに変わり、この表記もなくなった。この結果、二巻の痕跡は消滅し、バードの日の旅の誤解が生まれることとなった。なお、筆者が大学院時代に京都大学の図書館で見た簡略は1911年版。写真の原著はいずれも筆者所蔵(金坂清則『ツイン・タイム・トラベル イザベラ・バードの旅の世界』平凡社、2014所収、写真の一部を修正して収載。

    イザベラ・バードの日本の旅と旅行記の真実|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 二風谷イタが語ること|特集|北海道マガジン「カイ」

    貝澤徹氏が曽祖父貝澤ウトレントクの作品(近代)を模刻したイタ。直径290mm(二風谷アイヌ文化博物館所蔵) 経済産業省が認定する「伝統的工芸品」は現在235品目。北海道では唯一「二風谷イタ」と「二風谷アットウシ」の2品目が認定されている。それはアイヌの伝統的な生活具が今もこの地で造られていることの証左でもある。二風谷コタンの旅を「イタ」の話から始めてみよう。 伝統的工芸品指定に結ばれた歴史 二風谷イタとは、沙流川流域に古くから伝わり、現在はおもに平取町二風谷で伝統的技法が継承されている、木製の平たい形状のお盆です。アイヌの伝統文化には、例えば刃物の鞘やタバコ入れ、衣服やゴザ、織機のヘラなど、日常使う道具を文様で美しく飾る志向が強く流れています。 カツラやクルミの木などで作られるこの工芸品の最大の特徴は、モレウノカ(渦巻の形)、アイウシノカ(棘のある形)、シクノカ(目の形)、ラムラムノカ(ウ

    二風谷イタが語ること|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 島の歴史と産業をまるごと「エコミュージアム」に|特集|北海道マガジン「カイ」

    遺跡や遺構、モノなど北の島には貴重な遺産が多く遺されている。島の営みの記憶も人々の口から聞くことができる。こうした土地の宝物を発信するための「フェノロジーカレンダー」を制作し、さらなる活用を図る「利尻しまじゅうエコミュージアム」の取組みが利尻島でスタートしている。 ヒトは北へ、モノは南へ~利尻の漁業遺産と生活文化 利尻島に初めて人が移り住んだのは今から1万年以上前の旧石器時代といわれている。利尻島には、縄文時代、続縄文時代、オホーツク文化、擦文文化の遺跡もあり、サハリンなどとの交流を示す遺物も発見されている。 江戸時代、朝鮮王朝の官吏8名が利尻島に漂着、アイヌの人々と出会った。アメリカ人ラナルド・マクドナルドは、日に渡って日語を覚え、通訳になることを目指し利尻島に上陸している。国内からは、ロシアの南下に対するため、会津藩士約250名が利尻島に派遣され、約2カ月間にわたり警備に当たった。

    島の歴史と産業をまるごと「エコミュージアム」に|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 開拓を支えた小さな鉄路・簡易軌道|特集|北海道マガジン「カイ」

    2018年、「北海道の簡易軌道〜次世代に伝える開拓遺産としての鉄路〜」が北海道遺産の一つに選定された。戦前・戦中は「殖民軌道」ともよばれたこの小さな鉄路は、北海道、特に東部と北部の開拓にとってはとてつもなく大きな存在だった。半世紀前に姿を消した簡易軌道の功績に今、スポットが当たり始めた。 原野と暮らしを拓いて進んだレール 明治末から大正にかけての「北海道第一次拓殖計画」(1910〜1924年)、1923(大正12)年の関東大震災ではその罹災者救済として、北海道移住が積極的に推奨される。しかし、なかなか定着しない。入植地はあまりにも交通不便だったからだ。道東・道北の火山灰地、泥炭地では融雪期、道路は泥の海と化す。砂利も得にくい。人や物の行き来を数カ月間にわたり途絶させる。 その解決へ、内務省北海道庁は「殖民軌道」の敷設を計画する。軌間(レール間の幅)は762mmと国鉄(JR)在来線の1067

    開拓を支えた小さな鉄路・簡易軌道|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 札幌の基盤となった大友堀を照らして|特集|北海道マガジン「カイ」

    札幌村郷土記念館、前庭の大友亀太郎像。「札幌村」は現在の札幌市東区とほぼ同域にあたり、記念館が建つ東区北13条東16丁目は、亀太郎が1866年に赴任したときの役宅(のちの札幌村役場)跡地 札幌のまちを東西に分ける創成川。そのもとになった「大友堀」が完成したのは、明治が幕を開ける2年前のこと。長さ4kmにわたる用水路を4カ月で掘りあげ、橋や道路をつくり、畑をひらき、まちの礎を築いた大友亀太郎の足跡を訪ねた。 亀太郎さんの大友堀 札幌村郷土記念館は、江戸時代末から明治・大正にかけて札幌村(現札幌市東区)に入植した2世、3世の人たちが中心となり、1977(昭和52)年に完成した施設である。地域に残る農業や生活の資料を収集・展示し、先人の苦労と功績をしのび、永く後生に伝えるために誕生した。かつては一面のタマネギ畑、いまや住宅街となった一角にある建物のとびらを開けると、記念館保存会事務局長の玉井晶子

    札幌の基盤となった大友堀を照らして|特集|北海道マガジン「カイ」
  • タブ山チャシ跡|特集|北海道マガジン「カイ」

    根室海峡沿岸を走る国道244号線から、野付半島に向かう道道950号線に入るとすぐに、右手に小高い丘がみえます。この丘の上に、タブ山チャシ跡があります。このチャシ跡は、野付湾に注ぐ茶志骨川河口に築かれたもので、野付半島以北の海峡沿岸一帯を一望できる場所にあります。 チャシは、コタン共有の神聖な場所として築かれたのがはじまりとされ、時代と共に談判の場や、資源の監視場、戦いの砦など、様々な役割を果たしてきました。その時々で使われ方が変わっても、神聖な場としての源的な役割は、いつの時代にも一貫して備わっていたと考えられています。 チャシ跡は、江戸時代のころに「東蝦夷地」と呼ばれた北海道の太平洋側地域に多く分布しています。その立地をみると、胆振、日高、十勝地方では、河川の中・上流域の支流との合流点付近など、内陸部に多く築かれています。一方、根室地域では海岸線に沿った河川河口付近に多く築かれているの

    タブ山チャシ跡|特集|北海道マガジン「カイ」
  • ニシベツ献上鮭|特集|北海道マガジン「カイ」

    別海町の中央部を流れる全長約80キロの西別川の源流は、摩周湖を水源としている。直接、湖から水が流れているわけではないが、西別岳の地下を浸透し、約3~5カ月の時間を経て、麓に位置する虹別の水産孵化場から湧き上がる。水源から蛇行しながら悠々と流れる様子は、原始の姿をとどめている。 ニシベツの語源は、アイヌ語で「ヌー ウシュ ベツ」。豊漁川という意味で、その名の通り、鮭の上る川として昔から知られていた。西別川の鮭は、古くは先史時代にさかのぼり、古代人が糧として捕獲していた。このことは、浜別海遺跡の存在からも容易に伺える。その後、根室場所の請負人となった飛騨屋久兵衛が天明年間(1781~1788)に鮭塩引を生産した。寛政12 (1800) 年、幕府の納戸頭取格戸川安論が国後へ出張の際、西別川の塩鮭を将軍に献上したところ、毎年献上するようにとの達しがあり、根室場所の重要な行事として場所請負人たちに

    ニシベツ献上鮭|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 標津線関連資産群|特集|北海道マガジン「カイ」

    原野開拓の進展に伴い活況を呈した殖民軌道でしたが、その輸送量は早い時期から限界を迎えており、鉄道に対する地域住民の願いは次第に盛り上がりを見せてきました(*1)。 大正14年、厚床~標津間の鉄道建設について国会で決議され、昭和4年には厚床付近から標津線の測量がはじまりました。当初は海沿いから標津へ向かう「海岸線」が予定されていたのですが、それを知った住民たちは原野を貫くように敷設する「原野線」を主張しました。この問題は、双方主張を譲らず険悪な状態となり、ついには政治問題化し、激しく争われることになりました。しかし、最終的には昭和6年8月、原野を縦断する路線に決定することになりました。 標津線は、昭和8年の厚床~西別の開通を皮切りに、翌9年の西別~中標津、さらに中標津~標津、標茶~計根別、そして昭和12年の計根別~中標津の開通により全線が開通することになりました(*2)。このことは昭和6、7

    標津線関連資産群|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 幻のまちキラク|特集|北海道マガジン「カイ」

    知床半島と根室半島のちょうど中間あたりに、地図上で見ると釣り針のような形をした全長28km、日最大の砂嘴、野付半島がある。ドドワラ・ナラワラの特異な景観、水と緑と野生鳥獣、湾内に生息するホッカイシマエビの打瀬舟漁などの風景は多くの観光客を魅了している。 今でこそ人けのない荒涼としたこの半島に、かつては人々の喧騒が存在したという言い伝えが残っている。昭和39(1964)年に北海道大学探検部が行った調査報告書によると、「地元の人々にキラク町と呼ばれている場所ある。キラクの由来は気が楽になるところと言う意味で、この附近の人々のための歓楽の場があったことに由来するらしい」と記載されている。 野付が文献に現れる記録として、『津軽一統誌』(寛文10年)がある。その22、3年前の記録として、「みむろよりのしけ着。是よりらっこ島くなしりへわたり申候」、野付崎から国後島へ渡っていたことを示すものである。寛

    幻のまちキラク|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 帝国を猛進させたもの|特集|北海道マガジン「カイ」

    列島の北東に位置する北海道東部は、「中央」から見れば最北東だろう。しかしそこはかつて千島列島への入り口であったし、現在も、ユーラシア大陸の最北東部を考えるための足場となる。17世紀のロシア帝国の探検史から、メナシ(東)をめぐる旅をはじめよう。 日史を動かした毛皮への欲望 松前藩の家老で高名な絵師だった蠣崎波響(1764-1826)の「夷酋(いしゅう)列像」には、道東のアイヌのリーダーたちが異形(いぎょう)の存在としてとても印象的に描かれている。彼らは、非日常を劇的にあらわす記号として清朝の官服やロシア軍人の外套などをまとっているが、加えて異彩を放っているのが、クマやアザラシなどの毛皮だ。高温多湿な日の風土で、北方動物の毛皮はなじみの薄いエキゾチックな産物でありつづけた。しかし18世紀に日歴史を大きく動かしたのはほかでもない、国策として毛皮を求めるロシア帝国の野望と東への猛進だっ

    帝国を猛進させたもの|特集|北海道マガジン「カイ」
  • いまも鮭は暮らしとともに|特集|北海道マガジン「カイ」

    昭和40年代、人工ふ化事業がついに実を結び、長く不漁が続いていた鮭漁は驚異的な漁獲量を更新。かつての高級魚は日卓に欠かせない材の一つとなった。縄文時代から鮭とともに暮らす根室海峡沿岸のまちで、いま人々は鮭とどう向き合っているのだろう。 地域HACCPの先へ 標津町では2000年から、漁業者、卸売市場、水産加工場、運送業者が「標津町地域HACCP推進協議会」に加盟し、徹底した衛生管理と安全性確保の対策を続けている。 標津漁業協同組合、代表理事組合長の西山良一さんらにお話を聞いた。 「この地域HACCPは全国初で、各地から視察の方が大勢訪れ高い評価をいただきました。といっても、我々漁業者にとって特別なことではなく、基は『魚の鮮度保持』です。それぞれの船が氷を持って海に出て、船倉に入れた海水を0度くらいまで下げ、とった鮭を入れて冷やしておく。とにかく魚体の温度を上げないことで、これは以

    いまも鮭は暮らしとともに|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 海に、大地に、人々の挑戦は続く|特集|北海道マガジン「カイ」

    1946年、標津村から分村した内陸部の中標津村(現中標津町)は、根釧原野の酪農発展における中心地の一つ。現在、中標津町開陽台から望む広大な景色は、気が遠くなるほどの開墾作業の積み重ねから成り立っている。畑の間に太く濃く走る緑のグリッドはこの地域独特の「格子状防風林」。夏の海霧や冬の風雪の被害を防いでくれる 日が世界に肩を並べようと邁進した明治時代、根室海峡沿岸は「日の東門」として発展と安定が求められた。しかし、天然の鮭に頼った漁業は次第に資源が枯渇。沿岸部では、漁師が副業に畜産を行う半農半漁の暮らしがみられ、内陸部では新しい農業が幕を開ける。 不漁に耐える 『標津町史』に、鮭漁についてこんな記述がある。 「大正二年以降は、大正十、十二年の豊漁をのぞいて不漁の連続であり、漁業不振のどん底であった。その日の生活にもこと欠く者が続出し、親子心中の噂もあり、宮田岩松漁場主が発狂したと噂されたの

    海に、大地に、人々の挑戦は続く|特集|北海道マガジン「カイ」
  • メナシの地で、会津藩士が灯した産業の光|特集|北海道マガジン「カイ」

    会津藩の絵師・星暁邨(ほし ぎょうそん)によって描かれた「標津番屋屏風」。現在、標津川は昭和の河川改修により流れが変えられているが、標津神社は今も同じ位置にある。実物は新潟県の西厳寺(さいごんじ)に保管されている(写真提供:標津町ポー川史跡自然公園) 標津の由来はアイヌ語で「シベツ 鮭のたくさんいるところ(あるいは、大きな川)」を意味するとされている。幕末に標津を領地とした会津藩は、川をのぼる大量の鮭を資源とし、地域の開発に取り組んだ。屏風絵に描かれた鮭と人々の風景は、現在の「鮭のまち」の原点である。 屏風絵に描かれた会津藩の標津 一隻(せき)の屏風に描かれた、小舟が連なる大きな川と、そのほとりで忙しそうに働く人たち。よく見るとアットトゥシ(樹皮の糸で織った着物)を着たアイヌの人々のようだ。小舟に満載されているのはすべて鮭で、舟から降ろされた鮭は背負い籠で小屋へ運ばれていく。小屋の戸は開い

    メナシの地で、会津藩士が灯した産業の光|特集|北海道マガジン「カイ」
  • 鮭でつながり合う北方古代文化の人々|特集|北海道マガジン「カイ」

    公園内に再現されているトビニタイ文化の住居。オホーツク文化を受け継いだものであることを考慮し、樹皮葺きの屋根としている 秋に遡上する鮭を求めて、人々は1万年前から標津の地へ集まり、ひとつの文化圏を築いた。トビニタイ文化という地域性豊かな北方古代文化が花開いた背景にも、鮭を媒介にした人々の動きが関わっている。それを教えてくれるのが、無数に残された竪穴住居跡だ。 一大竪穴群が残る地・標津町 野付半島から根室海峡沿いを北上する。知床半島の付け根にあたるまちが標津町だ。基幹産業である漁業のなかでも秋鮭漁は全国有数の水揚げ量を誇り、“鮭のまち”として知られている。 根室海峡沿岸には鮭が遡上する川が幾筋も流れている。なかでも、はるか昔から鮭を求めて多くの人々が集まったのが、現在の標津町だ。町内には約1万年前の縄文時代から擦文時代にいたる竪穴住居跡が、川の流域を中心に約4400見つかっている。寒冷な気候

    鮭でつながり合う北方古代文化の人々|特集|北海道マガジン「カイ」
  • ロビンソンの末裔(開高健著) | 北海道マガジン「カイ」

    あらすじ 空襲と糧難に疲れた主人公は都庁を退職北海道開拓団へ参加することを決意する。終戦の前日、子を連れて東京を発ち、大雪山麓へ入植するが、応募条件とは全く違う過酷な現実が待ち受けている。一家は運命に翻弄されながらも、懸命に未開地を切り拓いて生きていく。 打ち捨てられた開拓民の悲哀 北国諒星・一道塾塾生 作家開高健は、1959(昭和34)年頃から翌年にかけて、大雪山の麓にある開拓村へ季節ごとに取材に行き長期間滞在した。付近には戦後、東京、大阪などからかなりの入植者が入ったが、この取材のとき開高は村の生活の厳しさに度肝をぬかれたという。 こうした苦労の末、1960(昭和35)年12月、小説『ロビンソンの末裔』(角川文庫)を発表した。 敗戦前日の1945(昭和20)年8月14日、空襲と糧難に疲れた「私」は東京都庁をやめ、子を連れて北海道開拓団の一員として上野駅を発つ。汽車には様々な職

    ロビンソンの末裔(開高健著) | 北海道マガジン「カイ」
  • 文化の厚みは、住みやすさのしるし|特集|北海道マガジン「カイ」

    札幌市役所の斜め向かい、北一条通りと創成川通りの交わる一角に誕生した「札幌市民交流プラザ」。地下街から直結でアクセスも便利 昨年10月、北1条西1丁目にオープンした複合文化施設「札幌市民交流プラザ」。単に「豪華な劇場の入ったガラス張りのビル」と捉えてしまうなら大間違い。期待されているのは「新しい広場」としての機能だという。そもそも市民交流プラザの「プラザ」とは、「都市にある公共の広場」を意味するスペイン語。どのように活用されるのか、その理念と役割をくわしく探ってみた。 ひとことでは説明できない、多機能な公共施設 「市民交流プラザ」と聞いて、なんのための施設かピンとこないと感じるのは私だけではないだろう。でも、それは仕方がないことなのかもしれない。なにせこれまでにはない、新しい理念を体現した公共施設だからだ。 札幌市民交流プラザは「札幌文化芸術劇場hitaru(ヒタル)」「札幌文化芸術交流セ

    文化の厚みは、住みやすさのしるし|特集|北海道マガジン「カイ」