大瀧詠一が自らを三木卵郎と名乗っていたのは1977年にサイダー・シリーズを柱とするCMソングでまとめた異色のアルバム、『ナイアガラCMスペシャルVol.1』を出した時のライナーノーツだった。 三木鶏郎の門下生だったことがあるクレージー・キャッツの桜井センリが、三木雛郎と名乗っていたことを知った大瀧は「鶏」と「雛」が来たら、次は「卵」だろうと自分でペンネームに使ったのである。 前例のないところでCMソングを雛形から作り上げた三木鶏郎の後を継いで、70年代の新しいCMソングを生み出そうと自覚していた大瀧には、戦後の焼け野原に風刺と笑いの冗談音楽という花を咲かせた偉大な先輩への敬愛と、その後継者だというひそかな自負を持っていたに違いない。 戦後復興を果たした1950年代から60年代の日本では、まずラジオで民間放送が始まって新しいメディアとなり、それに続いてテレビ放送が一挙に家庭に普及していった。
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