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ブックマーク / blog.goo.ne.jp/tetthan (2)

  • 旧東海道「平塚宿」を歩く - あの町この街あるこうよ

    旧東海道「平塚宿」を歩く 平塚は小田原北条氏が城郭を築いたところから発達した町で、最盛期には、2千人の人口と75軒の旅籠屋を抱えた宿である。 平塚宿と隣宿の大磯宿との距離は約3km(27町)で、東海道の宿場のなかでも愛知県の御油から赤坂間に次ぐ短い距離とされるが、平塚宿は、中原御殿・陣屋との連絡基地としての必要性からの設置と思われる。(東海道五十三次の宿場間の平均距離9.3km) ●相模川・馬入の渡し 川の巾は約120m(70間)あり、渡し舟3艘のほか、平田船2艘、お召船1艘があり、1690(元禄3)年当時の渡し賃はひとり10文と云われている。船で往来する「馬入の渡し」は現在の馬入橋とほぼ同じ所にあったと云われている。 現在の馬入橋は1980(昭和55)年(1980)完成で、全長563mある。 1923(大正12)年に発生した関東大震災で馬入橋が崩壊したが、当時の軍隊が僅か16日で修復した

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    gui1 2016/06/04
  • 500年を迎える北条玉縄城とその周辺を歩く - あの町この街あるこうよ

    玉縄城(たまなわじょう)は相模国鎌倉郡玉縄村(現在の神奈川県鎌倉市玉縄地域城廻)にあった平野部にある丘陵を利用して丸を築き、周囲に外郭を設けた平山城である。別名甘縄城ともいう。 戦国時代の1512(永正9)年、三浦氏攻略の為に北条早雲によって現在の清泉女学院がある玉縄の小高い山の上に築かれていた。 難攻不落の堅固な山城で、1526(大永6)年、里見八犬伝で知られている安房の里見実堯(さとみさねたか)の攻撃も、1561(永禄4)年の長尾影虎(かげとら)の攻撃も撃退した。 影虎の小田原攻めは1カ月にも及ぶ包囲にもかかわらず陥落せず、のち、影虎は鎌倉に兵を引いた。この時に鶴岡八幡宮で関東官領職就任式を行い名前を上杉政虎(まさとら)と上杉姓を名乗る(謙信の名は法名である)。 余談ではあるが小田原攻めで多摩川を渡るにあたり現在の川崎市中原区上平間のガス橋付近を渡ったと川崎市が発行した歴史刊行物に書

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    gui1 2015/08/16
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