春駒の由来 春駒は、江戸時代の文政3年(1820年)、鹿児島城下の新照院通町に住んでいた薩摩藩の槍述指南役高橋種美(たかはしたねよし)が、携行食糧として、もち粉、うるち粉、黒糖、朝鮮人参の粉末を混ぜて練り上げ、棒状にしてから蒸し上げて作ったことに始まると言われています。 当初は、長さがおよそ30cm、太さがおよそ5cmもあるとても大きな餅菓子で、黒褐色の巨大なその姿に、薩摩藩の藩士たちは「うまんまら(馬ん摩羅)」あるいは「新照院のうまんまら(馬ん摩羅)」と呼んでいました。 馬ん摩羅=馬の摩羅であり、摩羅は陰茎そのものを指します。 まさに見た目の印象をそのまま言い表したと言えるでしょう。 そんな上品とは言いがたい名前が菓子名として定着していたのですが、名前を変えざるを得ない出来事が発生しました。 大正天皇が鹿児島県へ行幸した際に、この「うまんまら」が地元薩摩の菓子として献上されました。 その