2月下旬に火を噴いたウクライナ戦争(ロシア軍によるウクライナへの攻撃)は世界中の人々の耳目を引きつけており、様々な人たちがそれぞれに態度や意見を表明している。私のように社会的影響力を持たない人間がどういう態度や意見を表明してもさしたる意義はないだろうが、痛ましい報道に接するたびに、居ても立ってもいられない気持ちに駆り立てられる。 先ずもって最も重要な点として確認しておかなくてはならないのは、当然のことではあるが、ロシア軍によるウクライナへの攻撃は正当化する余地のない蛮行であり、これが(ロシア国内を含む)世界の多くの人たちの強い批判を浴びているのは当然だということである。これ以外にも考えるべき点が多々あるとはいえ、それらはすべてこの最重要の点を確認した上で,その後に考えるべきことだという順序関係は明確にしておかなくてはならない。 最重要の点を確認した次に頭を離れないのは、われわれ――現地から
「特に誰かのアイデアをもとにするのでない、手作業によって考察の多くの部分は進められた。書かれることは特に何かの『思想』に依拠していない。ひとまず必要がなかったからだ。それに何かを引合いに出せば、それとの異同を確かめる必要がある。そのためには相手の言っていることを知らなくてはならない。注釈が増えてしまうだろう。かえって面倒なことになる。そういう作業はきっと必要なのだろうし、それを行うことによってきっと私も得るものがあるのだろうとは思うが、相手から何かを受け取るためにも、まずは私が考えられることを詰めておこうと思った」(iv頁)。 それでいながら、すぐに本書を読んだわけではない。何分にも、相当の大著(文献表を含めると約五〇〇頁)であるし、扱われているトピックも、医療倫理・生殖技術・優生学・障害者運動・生命倫理等々といったもので、私自身の専門からあまりにも遠く、すぐは手が出せそうにないと感じた。
「もし戦争を忘れないなら、多くの憎しみが現われる。もし戦争を忘れるなら、新たな戦争が起きる」(スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ*2) 飯田芳弘の近著『忘却する戦後ヨーロッパ』は、内戦とか独裁といった苦痛に満ちた経験を過去にかかえる国々がそうした過去にどのように対処してきたかという問題を「忘却の政治」という観点から政治史的に分析した書物である。対象としては、ドイツ・フランス・イタリアといった西欧諸国(第1章)、スペイン・ギリシャ・ポルトガルといった南欧諸国(第2章)、そして東欧の旧社会主義国(第3章)が取りあげられており、これら各論に先だって長めの序章が置かれている。 この主題の重要性についてはいうまでもない。《歴史・記憶・忘却等々をめぐる政治》ともいうべき一連の問題群は、ヨーロッパに限らず日本を含め世界各地で熱心に論じられている。しかし、これまでのところ、多くの場合、それらは個別に取りあ
渡辺治と不破哲三の対談からなる『現代史とスターリン』という本が数ヶ月前に出た*1。歴史書というよりはむしろ政治的文書であり、敢えて歴史家が読むまでもないという気もしたが、それでもやはりどこかしら気になるところがあり、一応読んでみた。 言われていることは単純明快である。1930年代半ば以降のソ連の行動は徹頭徹尾スターリン個人の「計画的犯罪」「覇権主義的思惑」「一貫した覇権主義追求路線」「壮大な謀略」として説明され、それは「社会主義とは縁もゆかりもない」ものだとされる。「すべてをスターリンが計算している」「悪知恵の塊」とも言われている。そして戦後の冷戦は《資本主義vs社会主義》という対抗ではなく、《帝国主義vs覇権主義の対抗》だったということになる。 歴史家の観点から本書を読むなら、これは単純かつ古典的な謀略史観ではないかという感想が先ず浮かぶ。従来のソ連研究の系譜との関連でいえば、かつての正
Laure Neumayer, "Advocating for the cause of the "victims of Communism" in the European political space: memory entrepreneurs in instituitional fields," Nationalities Papers, vol. 45, no. 6, 2017. 「記憶の政治」――ここで紹介する論文ではmnemopoliticsという言葉が使われている――をめぐっては、ヨーロッパでも東アジアでも議論が高まっている。日本でも、まさしく『記憶の政治』と銘打った橋本伸也氏の著作(岩波書店、2016)もあるし(この本については私は『歴史学研究』2017年9月号に書評を書いた。また同氏は主題をより広げた国際共同研究の論集を編集していて近刊予定)、より身近な東アジア情勢に関
著者アレクシエーヴィチはある時期まで「知る人ぞ知る」といった感じの存在だったが、二〇一五年にノーベル文学賞を受け、二〇一六年には来日もしたので、今では相当広く知られているだろう。本書『セカンドハンドの時代』は五冊からなる聞き書きシリーズの最終巻だが、ジャーナリストによる聞き書き集成という性格の書物にノーベル文学賞が与えられるというのはやや異例なことかもしれない。文学作品としての評価は私ごときが口出しすべきことではないが、日頃ものを書いたり語ったりすることに慣れていない無名の人びとから、簡単には語れないような重い内容をもつ言葉を引き出している著者の聞きとり能力には感嘆するほかない。 本書の内容を一言でいうなら、ソヴィエト時代およびポスト・ソヴィエト時代を生きてきた人びとからの膨大な聞き書きにより、そうした人たちの感覚や意識を多声的(ポリフォニック)に再現した書物といえるだろう。第一部は一九九
近代ロシア文学・思想を専攻する若手の俊秀による野心的な現代ロシア論である。ロシアへの関心が全般的に衰えている現状のなかで、若手による野心的かつ刺激的な著作が出たことは大いに歓迎される。とはいえ、私は本書を論評するのに適任ではなく、この小文を書き始めてからも戸惑いと躊躇いが消えない。 本書の大まかな概要を、不正確のそしりを恐れず敢えて単純化して言うなら、広義のポストモダン哲学・思想の観点に立って、後期ソ連から現代ロシアに至る様々な著作家――文学者・哲学者・思想家・批評家・記号学者等々――の仕事を紹介し、それを通してロシアの現代を考えようとした著作とでも言えるだろうか。これに対し、私はそもそもポストモダン哲学・思想なるものに「なかなか飲み込めない」という印象を拭えないし、本書で取り上げられている多数の論者たちの作品にもあまり通じていない。にもかかわらず本書が気になるのは、その対象である後期ソ連
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