ブックマーク / yokato41.exblog.jp (13)

  • 断片の顕揚(蓮實重彦、プルースト) : Toward the Sea

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    haruhiwai18 2012/07/01
    "長篇小説のある種の魅力…全巻読まなくていいという、…積極的な無責任さを僕たちに許してくれる数少ない場所""「義務を果したあとの快感」が読むことだと勘違いしている生真面目な精神" →読書論として。
  • Toward the Sea : アラン「子供の教育」より

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)ソクラテスはすでにこれを指摘しているが、たとえいかにすぐれた人であっても、父親となると、わが子の教育は十分にできないものである。非常に教育のあるおばあさんの実例をみたことがある。彼女は、孫むすめに計算と綴り字を教えることができずじまいであった。この逆説はいら立たせる。なぜかといえば、いつでも両親は先生に熱意がたりないと信じがちだから。それゆえ、わが子を教えようとして、熱意だけで十分でないのをたしかめると、親たちはおどろく。私にいわせれば、それどろこではないのだ。熱意こそかえって妨げになる。 …教育という技能の力は、われわれがそれを求めている場所には絶対にない。そこよりもっと下のほうにあるのだ。礼金をもらっている家庭教師があるとしよう。彼はきちんと時間通りにきて、時間一杯でさっさと帰っていく。…ここに現れているのは、曲げえない、同情を知らない秩序なの

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    haruhiwai18 2012/07/01
    "熱意こそかえって妨げになる""礼金をもらっている家庭教師…はきちんと時間通りにきて、時間一杯でさっさと帰っていく。…ここに現れているのは、曲げえない、同情を知らない秩序" →アランのすごい教育論。
  • Toward the Sea : 小林秀雄批判補遺(蓮實重彦、柄谷行人、中上健次)、あるいは恋文のように

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)ーー一人称単数を使った場合は半ば「フィクション」です。以下、資料:小林秀雄批判(高橋悠治、蓮實重彦、岡崎乾二郎)補遺 ――「批判」と書かれているが、カント的な意味の批判であり、つまり「吟味」、なかんずく「自己吟味」ということになる。 ◆蓮實重彦・柄谷行人対談『闘争のエチカ』(1988)より。蓮實)たとえば小林秀雄が、批評とは他人をダシにして自分を語ることだと言った。あれは嘘なんですね。かりに何かが起こったとしたらば、べつに小林が自分のことを語るために、誰かをダシにしたわけではなくて、結局、彼はそのつど居宣長になっちゃったり、ゴッホになっちゃったりしている。 そのなり方というのが非常に難しいんで、完璧に同じものになることはありえないから、ある水準をとってみなければわからない。そういう意味で二つの話がそこに入っているんだけれども、関係が逆転する。批評

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    haruhiwai18 2012/04/18
    "書くにふさわしい根拠を発見したときのみ、筆を走らせていたというマクシムの「情熱」""素直に筆に従属するのみで…書くことの無根拠さをきわだたせることは避けようとする配慮" →凡庸さについて。
  • Toward the Sea : 「宮川淳の死」  豊崎光一

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    haruhiwai18 2011/09/25
    "解き放されて、すでに別の軽やかな意味作用へ、…向ってすべりはじめるのでないならば、ここに拾い集められたこれらの過去の断片にとって、本とは苦痛以外のものではないだろう" →反復可能性へ
  • Toward the Sea : ラカンの雌犬とパロール

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    haruhiwai18 2011/05/26
    "『日記』から日常的な細部、ジュネーブの湖畔の天候を削除して、無味乾燥な倫理的考察だけを残した…いらいらした。古びないのはあの天候であって、アミエルの哲学ではない" →"作者の意図"など関係ないバルト△
  • Toward the Sea : 鴎外「沙羅の木」   (中井久夫)

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)沙羅(さら)の木(き)                    褐色(かちいろ)の根府川石(ねぶかはいし)に 白き花はたと落ちたり、 ありとしも靑葉がくれに 見えざりし さらの木の花。 この鴎外の詩をめぐって、中井久夫は次のようにいう、《押韻もさることながら、「褐色の根府川石」「石に白き花はたと」「たり/ありしとも青葉がくれに/みえざりし」に代表される遠韻、中間韻の美は交錯して、日詩のなかで稀有な全き音楽性を持っている(中井)》。さらにこの詩がボードレールの詩句の巧みな換骨奪胎であるとする。 日語のみごとな定型詩であり、中国の五言絶句を彷彿とさせながらしかもそれは『悪の華』の「不運」の最後節のほとんど正確な意訳である。 かくも重き荷 挙ぐるには シジフォスの士気なからせば。 なすべきをわれは心に抱けども 芸ながく時は短し。 名を挙げし人の奥津城遠

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    haruhiwai18 2011/05/26
    "私は氏がいくつかの初歩的な誤訳をされているように思われた。""ためらってから、私は氏に手紙を書いた。""数日後、厚い速達に驚かされた。氏は、感動的な率直さで誤訳を認めておられた" →西脇順三郎のエピソード
  • Toward the Sea : エクリチュールとフィクション  (デリダ、蓮實重彦、あるいはロラン・バルト)

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)蓮實重彦は2005年5月、ソウルで開催された「世界文学フォーラム」(テーマ:平和のために書く)での講演で冒頭の簡単な導入後、次のように語り出す(「『赤』の誘惑」をめぐって)。 「葛藤」や「無秩序」への私の執着は、言語をめぐるごく単純な原則に由来している。それは、ある定義しがたい概念について、大多数の人間があらかじめ同じ解釈を共有しあってはならないという原則にほかならない。とりわけ、文学においては、多様な解釈を誘発することで一時の混乱を惹起する概念こそ、真に創造的なものだと私は考えている。そうした創造的な不一致を通過することがないかぎり、「平和」の概念もまた、抽象的なものにとどまるしかあるまい。 このように述べた後、《「フィクション」という単語の意味をめぐる大がかりな不一致》を取り上げる。今日の理論的な考察の基盤にある西欧的な思考にとって、「フィクシ

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    haruhiwai18 2011/05/26
    "エクリチュールとは例えば英語圏ではwritingとされているだけで、つまり「書かれたもの」はすべてエクリチュール=書記" →レコードや印鑑もエクリチュールなら、「刻まれたもの」が正確な定義かも知れない。
  • Toward the Sea : 災害直後の状況および対応―――阪神大震災検証より (中井久夫)

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)◆ネット上で拾える文献からいくつか抜粋する。 【混乱のスパイラルが起こる可能性】 今回の震災においては、家族が同一場所にいた場合が多く、このことは9割といわれる市民救出を可能にした最大の要因である。そうして安全の確認と、関心の増大とが自己、家族、隣人、職場、地域というふうに、同心円的に拡大していった。仮に、多くの者が自宅以外に存在したならば、このような順調な同心円的拡大が進行したか、はなはだ疑問である。家族の安否の確認を急ぐ者、まず帰宅しようとする者で、大きな混乱が起こったに違いない。そのために大きな機能麻痺が生じただけでなく、市民救出も迅速十分に行われなかった可能性が高い。ここから、混乱のスパイラルが起こる可能性は低くない。[中井久夫「こころのケアの推進」『阪神・淡路大震災 復興10年総括検証・提言報告(3/9)』 【パニックを防ぐ要因】 振動音

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    haruhiwai18 2011/03/22
    "地元サンテレビ局が社長の方針によって、センセーショナルな報道を慎み、個人の安否情報、地域の電気、ガス、給水などの情報伝達に徹したことは、我々の立場からも、高く評価される" →中井久夫、阪神淡路の教訓。
  • Toward the Sea : ミレール、ラカンの「女は存在しない」の説明

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)●ジャック=アラン・ミレール「エル ピロポ」より。(未公開論文試訳、「精神分析サークル」でパスワードを取得する必要あり) ミレール -「女La femmeは存在しない」という取り扱いに注意を必要とするラカンのこの公式を、ピロポを利用して皆さんに紹介しました。存在するのは女達les femmes、一人の女そしてもう一人の女そしてまたもう一人の女...です。たしかにこれは難しいことです。ラカンはこのことをイタリアで説明したところ、次の日の新聞に『ラカン、女は存在しない、と言う』と大きいタイトルで出ました。  これについては、それ自体かなり不可思議なピロペアーダというこの女を取りあげてみなさんに示唆するにとどめておきます。男については「すべての男を一つにまとめる」ことができるが、女についてはそれができない、と言えるでしょう。来ならば、性に関する、そして

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    haruhiwai18 2010/12/27
    ミレール「女の本質は存在しません。でも別の観点からすると、本質を持たないことは荷が軽いことにもなります」 共働きの妻「夫が子育てを手伝ってくれないので、荷が軽くなりません」 ミレール「専門外です」
  • Toward the Sea : 浅田彰の東浩紀批判

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)中森 東は浅田さんが編集委員を務める『批評空間』が売り出した批評家なんだから、もうちょっと教育したら。それとも、個人的に迫ったけど、ふられたとか(笑)。 浅田 いや、あれはおニャン子のおっかけで自宅まで行ったような物のおたくだよ。それに、僕としては過保護に近いくらい面倒を見たつもり。柄谷は「父」だから、「面白いから書け」と言うだけで、書いたものは読まない。それは「父」としてはいい態度じゃない? で、僕はいわば「兄」として意見を言って、デリダはラカン-ジジェクの線に近いとか言うからそれは逆なんじゃないかって言ったら、逆であるというができたわけよ。それをあれだけ褒めたんだから、が出た後、批判する権利はあるよね。ところが、ちょっとでも批判的なことを言うと、ヒステリーの発作が起こるわけ。「こんなに頑張ってるボクをなぜ褒めてくれないの」って。「エヴァ

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    haruhiwai18 2010/12/26
    "最初は、デリダの問題設定とジジェクの問題設定とのあいだに共通点…デリダはそれに対する抵抗において捉えるべきだろうと言ったら、現にそのような論文に" →"評論"って、結論自体はどうとでも作れるんだよね。
  • Toward the Sea : 「文学の批評は本質によってまた宿命によっていつも構造主義的である」のか?

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)前回、ふとした弾みで「文芸批評」をめぐる投稿をしたのだが(もっともいつものように「引用」でしかないが)、それなりに気になってしまっていて以前にもポストしたことのある蓮實重彦のデリダ小論を読み直してみた。それはデリダのもっとも初期のテキスト「力と意味」と最晩年の「文学のパッション」を対比させて叙述しているものだ。 まず以前、ポストした引用から、始めよう。 《創作(ポイエーシス)/説明するということ、あるいはクリエーター/批評家》より。 「文学の批評は、あらゆる時代に、質によってまた宿命によって、いつも構造主義的である」と書き記すことで、デリダは何をいわんとしていたのか。いうまでもなく、「構造主義的」でない批評形態がどんなものであったのかをデリダはよく知っている。『力と意味』のやや後のページで、「《思想》とか《内的構想》が書物に先立って、書物は単にそ

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    haruhiwai18 2010/12/25
    "言語そのものにまつわる「不安の意識」…「歴史の始原としての言語」が視界に浮上しつつあることがもたらす動揺" →おそらく、言葉の持つ物質性とでもいうべきもの、"意味"を享受することを止めた言葉の唯物性。
  • Toward the Sea : 続きはオアズケ、あるいは「蓮實重彦」のいくつか

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    haruhiwai18 2010/12/25
    "蓮實重彦の愛の対象は…実はフーコーでもなくドゥルーズ、デリダでもない、ロラン・バルト…そのバルトをフィクション論に絡めて論じている" →バルトについて、小説の持つ形式=不自然さを指摘してたと記憶してます
  • Toward the Sea : 凡庸と愚鈍   (蓮實重彦)

    読書ノート(ほとんど引用からなっています)凡庸と愚鈍について、すこし整理しておきます。 もともとこの言葉は、蓮實重彦の『凡庸なる芸術家の肖像』に由来する。それぞれが個別に使われる場合は、別の意味合いをもつ場合は当然あるが、すくなくともこの語が、二つ並べられて語られるときは、蓮實重彦の文章による叙述は欠かせない。そして、そこで書かれているのを単純に言えば、凡庸と愚鈍は反意語、といってよい。 『凡庸なる芸術家の肖像』の主人公は、マクシム・デュ・カン。彼はフローベルの友人で、晩年はアカデミー・フランセ-ズ会員に選ばれる「芸術家」ですが、いまではほとんど忘れられた三流文学者、そして旅行家やら写真など、当時の先進的なアーティストとして振舞った人のようです。それに対して、フローベルは、書くまでもありませんが、もちろんアカデミー・フランセ-ズ会員などには選ばれず、書くという行為だけをもくもくと頑固に続け

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    haruhiwai18 2010/11/13
    "『凡庸なる芸術家の肖像』…いまではほとんど誰も見向きもしない" →『凡庸さについて』で済ませる者多いよ。『肖像』は実は読みやすい/"蓮實重彦の言葉に衝撃を受けただろう世代の作家" →今なら阿部和重かな。
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