サービス終了のお知らせ いつもYahoo! JAPANのサービスをご利用いただき誠にありがとうございます。 お客様がアクセスされたサービスは本日までにサービスを終了いたしました。 今後ともYahoo! JAPANのサービスをご愛顧くださいますよう、よろしくお願いいたします。
前回は国籍法改正の前提となった国籍法3条1項違憲判決について図解した。まだ読んでいない(そして読む気がおきない)人のために少しまとめておこう。 国籍法は基本的に、子が出生したとき父または母が日本国民なら子も日本国民にするという「父母両系血統主義」を採用している(国籍法2条1号)。したがって、日本国民である母が産めば、父が外国人であっても、出生時点で子は日本国籍を取得できる。 でも、父が日本国民である場合はちょっと複雑になる。両親が結婚していて嫡出子であるときや、胎児のうちに認知されていれば、(たとえ遺伝上の事実とは異なっていても)法律上の親子関係が生じているから、子の出生時に父が日本国民であると言え、子は日本国籍が取得できる。 生後に認知された場合でも、両親が婚姻関係を結べば(これを準正という)、国籍法3条1項の規定によって日本国民として認められる。しかし、生後認知されたのみでは日本国籍が
国籍法改正について反対意見が出ており、署名活動にまで発展している。 恐ろしい国籍法改悪案‐ニコニコ動画 国籍法改正案まとめWIKI 「国籍法改正法案」と「二重国籍取得の容認」に断固反対する署名 そもそも、国籍法の改正(立場によっては「改悪」)が急がれているのは、2008年6月に最高裁が国籍法に違憲判決を出したことを受けてのものである(判決全文は最高裁の判例検索システムからGET)。 というわけで、改正の原因となった違憲判決について解説を加えたいと思う。なぜなら、各所で詳細な説明が出ているが、法学を齧っていないとちょっと読解が難しいのではないかと思ったからだ。なお、筆者である私自身は、後日改めて述べるかもしれないが、今のところ本件改正について判断を保留しているという弱腰な立場であることを予め表明しておこう。 そもそも国籍法って何?そんなに大切なの? 日本人の両親から生まれて日本で暮らし続けて
国籍法改正に反対するネット運動が広がりつつある。 阿呆と評するよりない。 法治国家のなんたるか、三権分立の何たるかさえ知らない盲人の集まりのようだ。 こんなことでは、先日、韓国で起きたアメリカ産牛肉輸入反対デモを笑えない。 謹んで彼ら愛国者に苦言を呈するが、国を思うのであれば、まずは国のために有為の人となるよう、努力をしてはどうか。 あれも知らない、これも知らない、法学の基礎の基礎さえ知らない、かくも無知蒙昧で、どうしてものの役に立つというのか。 日本国はかくも無知蒙昧な者たちの助力を必要とするほど安い国ではない。 祖国の名を辱めるのもいい加減にして貰いたいものだ。 法治国家の基本原理として、憲法がある。日本国の場合はそれは日本国憲法だ。 日本国憲法が更に依拠する法理念として、法の支配があり、人権の尊重は単なる条文を超えて、性格を改変されない普遍的な価値観とされている。 国会における国籍法
国籍法第3条第1項の改正との関係で,同項による国籍取得の要件としてDNA鑑定での父子関係の立証を要件にせよとの声も上がっているようです。しかし,そうしてしまうと困るのは,強制認知との関係です。 例えば,日本国籍を有する男性Xと日本国籍を有しない女性Yが一時同棲状態となり,その間,Yは妊娠し,そのことを告げるやXはYの元から逃げ出していったというありがちな事例を考えてみましょう。YはZを出産し,Zの法定代理人として,Xに対してZを認知せよという訴訟を提起したとします。 現行法上は,所詮民事訴訟にすぎない認知請求事件でDNA鑑定のための細胞採取等を強制する手続はありませんので,XがDNA鑑定を拒んだ場合,Yにはこれをなす手段はありません。ただし,そのような科学的裏付けが得られなかったからといって認知請求を認容することは可能ですので(東京高判昭和57年6月30日判タ478号119頁),Zを妊娠し
最高裁判所の違憲判決を受けて行われている国籍法改正について,相変わらずの人たちによる反対運動がネットを中心に熱心に行われているようです。 ただ,なんだか無駄なエネルギーを使っているようにしか私には見えません。というのも,上記国籍法改正を阻止できたところで,彼らが望んでいる社会にはならないからです。 最判平成20年6月4日判例集未登載(但し,最高裁のウェブサイト等でダウンロード可)の判決文を見てみれば,そのことは明らかです。最高裁は,日本国民である父と日本国民でない母との間に出生し,父から出生後に認知されたにとどまる子についても,父母の婚姻により嫡出子たる身分を取得したことという部分を除いた同項所定の要件が満たされる場合に,届出により日本国籍を取得することが認められるものとするという解釈を,国籍法3条1項の合憲的で合理的な解釈として,現行国籍法の解釈として,日本国民である父と日本国民でない母
_ [在日・韓朝鮮]国籍を決めるのは誰か ※※以上を踏まえた上で言うと、日本で在日朝鮮人の総理大臣が登場する可能性なんて皆無(そもそも投票権などの市民権すらまだ公然と剥奪されている!それどころか日本政府が率先して在日朝鮮人差別を実行している!)なのと比べると、確かに感慨深いとも言えるけれども。 黒人大統領と在日朝鮮人と先住民 - ばらいろのウェブログ(その2) 毎度のことだが、もうほんとにため息がでるねぇ。いや、リンクした先のブログではなく、このブログについた はてなブックマーク コメントの一部なんだけど。 わたしたち在日のオールドカマーは、移民ではない。不法入国者でもない。元日本人とその子孫である。日本人と在日三世であるわたしの違いは、祖父母*1の出身地が日本国内(内地)か、当時「外地」といわれた植民地か、という1点だけだ。わたしの両親は、日本国内(内地)で、日本人として生まれている。ふ
天にまします我らの結果平等よ、あるいは地を這うAとB(追記アリ - 地下生活者の手遊びの追記部分に 機会/結果の平等と帰結主義 - モジモジ君のブログ。みたいな。というトラバでの反論をいただきましたにゃ。 簡単に再反論させていただく >「潜在能力」という焦点変数を定めつつ、その測り方を脱構築する、という議論は可能なんです。 ここは了解ですにゃー。 >「結果の平等」と完全に区別された「機会の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。 うん。 もちろん、僕の書いた、降りられる機会の平等である「機会の平等A」というのは「結果の平等」と完全に区別されたものではありえにゃーですね。 また、この記述は 「「機会の平等」と完全に区別された「結果の平等」論は、脱構築できないものでしかありえず、それは無謬性を主張することと変わりません。」 と機会と結果をひっくり
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081102/p1 に対する批判であるところの、 http://d.hatena.ne.jp/tikani_nemuru_M/20081104/1225755216 の追記について。 あまり分かりやすくは説明しません。 センは「潜在能力の平等」を主張することで、「何の平等か」についての議論に参入しています。同時に、最小限保障されるべき潜在能力をリスト化することに対しては慎重で、最終的に、「リストをどんどん改訂していく」という方向の議論をしていたはずです。つまり、潜在能力の測り方を脱構築していく、というわけです。「潜在能力」という焦点変数を定めつつ、その測り方を脱構築する、という議論は可能なんです。 つまり、「結果の平等」にコミットしてても、その測り方を脱構築するという議論は可能ですので、hokusyuさんが「一意な幸福の基準の
「選択の自由」が排除する人々 - 過ぎ去ろうとしない過去のコメント欄 および 究極の不平等という平等の可能性 - よそ行きの妄想のコメント欄にカキコしましたにゃ。 で hokusyuはルールから零れ落ちるもの、あるいは配慮 - 過ぎ去ろうとしない過去というエントリもあげていますにゃ。 そのあたりをいろいろと 「選択の自由」は欺瞞なんです。 中略 ちなみにぼくは機会平等だけじゃぜんぜんだめで、結果平等じゃなきゃいけないと思ってます。左翼なので。 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080302/p1 機会の平等は、機会が完全に均等に保障されるルールが成立した時点で「終わり」です。まあ、機会の均等を維持していく努力は必要かもしれませんが、基本的にはルール成立の時点で敵対関係は解消され、全員が等しいルールのもとで「競争」していくことになります。 中略 たとえば、機会均
機会の平等は、機会が完全に均等に保障されるルールが成立した時点で「終わり」です。まあ、機会の均等を維持していく努力は必要かもしれませんが、基本的にはルール成立の時点で敵対関係は解消され、全員が等しいルールのもとで「競争」していくことになります。 でも、完全なルールは実現可能なんでしょうか?たとえば人間には能力の格差があります。いかなるルールを選ぶかによって有利な能力、不利な能力というものが存在してしまいます。すべての人にとって「公正」と呼べるルールを構築することは、ほぼ不可能だといってよいでしょう。適切なルールさえ整えてやれば市場主義が結局は一番公正なのだと言う人もいますが、それだってカッコつきの「公正」にすぎません。 もちろん、ある種の政治的リベラリズムのように、完全なルールというものを目指す取り組みはありうると思います。ただ、やはりぼくはそうしたものは実現できないか、どこかに欺瞞が含ま
法律上、事実上の廃止を合わせると世界の70%以上の国が死刑を廃止している。存置国の中でも2007年に死刑執行を実際に行った国はわずか24カ国である。東アジアを見ても、韓国では10年間、台湾では2年半の間死刑執行は行われておらず、中国でも近年執行数は激減している。G8諸国で日本のほかに唯一死刑を執行している米国でも死刑執行は抑制傾向にある。 僕も何度も言及していますが、世界的な傾向としては死刑廃止、または執行数の減少という方向にあることは、すでに知っている人にとっては常識となりつつあります。が、もっともっと周知されるべきだと思います。諸外国を真似ろというのではなく、死刑が「当たり前」でもなんでもない、我が国の積極的な選択なのだという認識のために。 死刑廃止、前向きに検討を=日本政府に勧告-国連委(時事通信) - Yahoo!ニュース で、今月、国連の自由権規約委員会からは様々な論点を巡って厳
はてなブックマーク - asahi.com(朝日新聞社):大学4年生の就職内定「取り消し」相次ぐ、金融危機で - 関西ニュース一般を読んで思ったのは、「ああ、これはまた悲劇比較の応酬が始まるのだなあ」ということでした。まあ、とても簡単かつ単純、短い話なので、少々。 「第二就職氷河期」については、団塊世代の大量定年退職が終わる2009年採用あたりから新卒採用人数を企業が絞り始める、という予測が以前から存在していましたので、今回の「リーマン・ショック」から始まる一連の構造不況がどのような方向に転ぶか否かには関係なく、今後一部の業種において「新卒」が厳しくなっていくのは確かなことです。 その際に、本来「助け」となるべきいわゆる「就職氷河期世代」「ロスト・ジェネレーション」と呼ばれる人々の一部が、「いや、俺の方が苦しかった。だからお前も〜」という論理を働かせるのは、本当に残念なことです。 このよう
がんばれば公立高校に入学できるので機会平等、なわけありませんよ。 がんばらなければ高校に進学できない人と、がんばらなくても進学できる人(私学に行ける)がいる時点で機会平等じゃないです。 「選択の自由」は欺瞞なんです。 ↓お勉強しましょう。 ■「選択の自由」が排除する人々 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080302/p1 ■どうして逃げないの? http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080408/p1 ■ベーシック・インカムという脅迫 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20080506/p1 (追記) ちなみにぼくは機会平等だけじゃぜんぜんだめで、結果平等じゃなきゃいけないと思ってます。左翼なので。 機会が平等でも結果として収入に100倍くらい差がでるのは全然だめ。 (再追記) 「現実主義者」様が沸いている
HALTANさんの記事の、次の部分にも答えておきます。 それと「公共施設」に野宿者を受け入れろというなら(というか今回もそうとしか読めないわけだけど)、まずはアンタたちが自分の生活圏の中でやってみてくれ、としか言い様がない。一般人はそこまで心も広くないし余裕もないし、あるいは一般人や貧乏人同士が助け合いだか何だか知らないが下手に自分たちで問題を抱え込んでも共倒れになるだけだろう(反貧困活動家までが「溜め」だの余計なことを言うから困るんだが。この機に乗じて自分たちの脱資本主義的な労働共同体幻想を成就させようとは薄気味がわりいんだよ!) http://d.hatena.ne.jp/HALTAN/20081030/p2 えーとね、たとえば、公園を念頭におきます。公園はみんなの場所です。僕は、このみんなの場所を、他に行く場所のない野宿者が利用するのを認めます。そして、公園以外の場所で住めるようにち
リスク学入門1という本を読みましたにゃ。 このシリーズは、法学・経済学・社会学・科学技術の各方面からリスクを考えるものですにゃ。第1巻は総論であり、法学・経済学・社会学・工学の各学者の座談会を冒頭に収録してありますにゃ。 堅実な論調になっていますにゃ。残りの巻も図書館にあるので読むつもり。 リスク学入門 1 リスク学とは何か 作者: 橘木俊詔,長谷部恭男,今田高俊,益永茂樹出版社/メーカー: 岩波書店発売日: 2007/07/04メディア: 単行本 クリック: 14回この商品を含むブログ (6件) を見る 冒頭の座談会から気になったところをいくつかメモ代わりにおいておきますにゃ。 リスクの課題過大見積もりと責任の蒸発 リスクには自然リスクと人為リスクがあり、人為リスクは多く見積もられる傾向にある これはよく言われることですよにゃ。典型的なのは予防接種。予防接種にリスクがあるのは確かだけれど
開港延期を正式表明 静岡空港、立ち木が阻み3月断念 http://www.asahi.com/national/update/1029/TKY200810290292.html 静岡県の石川嘉延知事は29日の県議会全員協議会で、来年3月に予定していた静岡空港の開港を延期する方針を正式に表明した。滑走路西端から1400メートル付近にある計153本の立ち木が、航空法の制限表面(高さ制限)を最大12.7メートル超えていることがわかったため。所有者は伐採に応じないため、滑走路を短縮する異例の対応をとる。 事業主体の県は、現在2500メートルの滑走路を2200メートルにして、立ち木がある場所の高さ制限を緩和する。これに伴い航空灯火の追加工事が必要になる。このため石川知事は、来年3月の開港を「断念せざるをえない」と説明。新たな開港時期は「遅くても7月」とした。 もう、何年になるだろうか。静岡空港建設の
テレビを見ていると、「100年に一度あるかないかの規模の信用市場大波乱」だのなんだのでグリーンスパンという老人が持論の欠陥を認めていて、リヰマン兄弟商会とかいう会社の社員が、自分の荷物まとめたダンボール抱えて青い顔して、なんだかすごく立派なビルから出てくる。この「世界同時金融不安」そして「大恐慌」は世界史上の一大事であって、この洪水に呑まれない人はいない。世界は変わるらしい。でも、洪水なら高いところに住んでる人は助かるんじゃないかな? 一方、地べたを這うように生きていた人には容赦なく襲いかかる。 金属相場の下落にともなって、アルミ缶の買取価格が急激に下落しました。私は川崎市民なので知ってる川崎のことを書きますが、つい先月まで190円/kgだったものが、昨日今日では90円/kgになっています*1。キロ単価が半分以下になってしまったわけですが、これはつまり、アルミ缶集めで食いつないでいた人の収
「ただ歩いていただけ」と言う言葉から、こいつらは政治的意図を隠そうとしている!ギマンだ!って思っちゃうのは、自称一般人な自称中立がよく「〜だけ」論法を自分には政治的意図が無いよという言い訳に使っているからな気がした。「自分は単に事実が知りたかっただけです」「自分は単に平穏な生活を乱されたくないだけです」とか。 「ただ歩いているだけ」はギマンか?「ただ歩いているだけ」=「政治的意図はない」と言う結びつけが勝手な連想。「政治的意図がある」とはっきり言わないことは非難される筋合いは無い。 ひとつめ、「デモ」だろうが「ただ歩いていただけ」だろうが、その二つはそも未分化であって、それによって政治的意図の真剣さを判断しようとするのが間違い。それは前回書いた。 http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20081027/p1 ふたつめ、この社会においては、「政治的意図があった」は常に非
リリース、障害情報などのサービスのお知らせ
最新の人気エントリーの配信
処理を実行中です
j次のブックマーク
k前のブックマーク
lあとで読む
eコメント一覧を開く
oページを開く