十四日に亡くなった三国連太郎さんは一九五〇~六〇年代の日本映画黄金期に活躍。その後も「釣りバカ日誌」シリーズの社長役などで人々を魅了する一方、徴兵の経験から反戦の立場を貫いた。 「手がアップになるから爪の色を気にされていた」。三国さんは遺作「わが母の記」(二〇一二年)で老父を演じたが、原田真人監督は撮影時をこう振り返る。細部にこだわる三国さんらしいエピソードだ。 「釣りバカ日誌」を三本撮った本木克英監督は「三国さんの台本は書き込みで真っ赤だった」。せりふもどんどん変え、最良の表現を求めた。喜劇がいかに難しいか繰り返し語った。「『釣りバカ』は一本でやめるつもりだったが、喜劇の魅力にひかれていったようです」と言う。
旧制中学を中退し、伊豆の家を飛び出したのは十六歳の時だった。釜山で駅弁を売っていた時に日中戦争が始まった。次々と到着する臨時列車に、不安げな眼をした若い日本兵が詰め込まれてゆく▼数年後、徴兵忌避を図るも失敗。見送った兵隊と同じ道をたどった。八路軍に攻撃され、肥だめに一晩漬かって命拾いしたこともある。原隊を出発した千数百人の戦友のうち、半数以上が戦死した▼九十歳で亡くなった俳優の三国連太郎さんは、戦死者の犠牲の上に自らが立っているという引け目や責任感を背負ってきた人だった。その感覚は、どんな役を演じても通奏低音のように響いていたように思う▼俳優としての名声を確立した四十代の後半、足が宙に浮いているように感じて旅に出た。インドやパキスタンなどを三カ月間放浪し、広大な砂漠の中で人間はごみのような存在だと思い知らされる▼「大自然の中では、人間は河床の砂の一粒みたいなもので、私という個人の苦悩なんて
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