ブックマーク / aesthetica.hatenablog.com (2)

  • こだま→ひかり→のぞみ→いのり - aesthetica’s blog

    一部の間ではすでに議論し尽くされた感のある、新幹線の新名称についてだが、新たな情報を得たので書いておく。 よく言われるように、「こだま」で音速、「ひかり」で光速ときて、次の「のぞみ」(1992年運転開始)に至って、ついに(というか進歩するなら当然だが)光速をも超えてしまった、われらが新幹線。 その光速より速い列車にどういう名前をつけるか。JRも悩んだのだろう。そこで、のぞみを出してきた。内的世界である。精神論だ。宗教的とも言える。60年代の科学的気分から大きく逸脱して、内側へ向かってしまった。90年代の停滞が見事にあらわされる名前である。当時は気づかなかったのだろう。内的世界に向かう気分は、その三年後に東京の地下鉄でテロを起こすことになる。同じずらすにしても、形あるものにしたほうがよかった。(堀井憲一郎『若者殺しの時代』、2006年) この堀井氏の着眼点は、きっと多くの人にとって必ずしもオ

    こだま→ひかり→のぞみ→いのり - aesthetica’s blog
    hidedayo
    hidedayo 2009/06/22
    "それにしても、「のぞみ」の次に「いのり」。このアイディアはどうだ。もちろん『漂流教室』であるから「未来における過去の残骸」という設定を背負って発案された名称である。その上で、このアイディアはどうだ。"
  • aesthetica sive critica - どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか?

    以前、田崎英明さんと話していて興味を持った話題に「どうしてSFに携帯電話のイメージが欠落していたのか?」というものがある。80〜90年代のSFやアニメではテレビ電話に類するイメージは盛んに出てくるが、携帯電話はまったくと言って良いほど出てこない。それはどうしてか、という問題だ。 もちろんテクノロジー的には携帯電話はトランシーバーの延長であり、それはSFにつきものである(腕時計に向かって喋るとか)。だが、街や駅で多くの人が歩きながら携帯で話をしている、という現代日の日常生活の情景は、どんなSFにもアニメにも出てこない。つまり、今日のような携帯電話文化は、SF的には予測不可能だったということになる。なぜか? この問題に興味を持って以来、いろんな人と会う度に話題にしてきたが、そのなかから何となくヒントになることが浮かんできた。 それは、携帯電話によるコミュニケーションはそもそも人類に必要がなか

    aesthetica sive critica - どうしてSFは携帯電話を予想できなかったのか?
    hidedayo
    hidedayo 2006/01/06
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