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2018年12月20日のブックマーク (2件)

  • 中高6年間、自分で弁当を作って持って行っていた私が思う、「給食か弁当か」問題 - 宇野ゆうかの備忘録

    nlab.itmedia.co.jp タイトルの通りである。私の両親は共働きだったので、中学高校と6年間、自分で弁当を作って学校へ通っていた。なので、こういう「給か弁当か」問題については、色々言いたいことがある。 結論から先に言うと、「『弁当か給か』の議論は、私のような子供の存在を基準にして考えろ」だ。そして、そこから導き出される結論は1つ。「給が最善。論点は予算の問題だけにしろ。余計な精神論を混ぜるな」だ。 「お弁当を作りたいお母さんの気持ち」?それよりも「弁当を毎日作らざるを得ない子供の気持ち」を考えろ! そもそも、公教育は、家庭の事情がバラバラな子供たちに、ある程度均一な教育を与えるためのものであり、その点に立ち返るなら、家庭の事情がバラバラな子供たちの事事情を補うためにも、給が望ましいのは当然の話である。 成長に必要なものを与えられる環境で育つのは、子供の権利であり、子供

    中高6年間、自分で弁当を作って持って行っていた私が思う、「給食か弁当か」問題 - 宇野ゆうかの備忘録
  • 適切な解像度で物事をみるということ - kuenishi's blog

    タイトルに書いてしまうと書き終えた気になってしまうのだが…大人として社会に生きる以上は何事にも目をつぶっていくことはできない。ある物事に対して、関わりが少なければボンヤリとした理解でいいだろう。関与が薄い場合は善意も悪意もなく無関心であるからだ。もちろん、例えば児童虐待のように無関心では済まされない問題もあるけれども、◯◯に無関心では済まされないというのは内容や社会のあり方によって変わってくるからだ。これは良し悪しの問題ではなく、単にそれぞれ時代や背景、事情があるということだ。 積極的に関わっていくのであれば高い解像度で対象を理解しなければならない。細部まで理解した上で全体最適になるような問題を定義して解決法を考えるのがよいだけなのだが、それをしないで、曖昧な理解のまま関与を深めていくと大抵事態は悪化する。そういうものは大抵「関与してる俺意識高くてハイアー・マインドかっこいい」といった自意

    適切な解像度で物事をみるということ - kuenishi's blog
    higed
    higed 2018/12/20