山の手の高台で電車の交叉点になっている十字路がある。十字路の間からまた一筋細く岐(わか)れ出て下町への谷に向く坂道がある。坂道の途中に八幡宮の境内(けいだい)と向い合って名物のどじょう店がある。拭き磨いた千本格子の真中に入口を開けて古い暖簾(のれん)が懸けてある。暖簾にはお家流の文字で白く「いのち」と染め出してある。 どじょう、鯰(なまず)、鼈(すっぽん)、河豚(ふぐ)、夏はさらし鯨(くじら)――この種の食品は身体の精分になるということから、昔この店の創始者が素晴らしい思い付きの積りで店名を「いのち」とつけた。その当時はそれも目新らしかったのだろうが、中程の数十年間は極めて凡庸な文字になって誰も興味をひくものはない。ただそれ等の食品に就(つい)てこの店は独特な料理方をするのと、値段が廉(やす)いのとで客はいつも絶えなかった。 今から四五年まえである。「いのち」という文字には何か不安に対する