ブックマーク / mubou.seesaa.net (2)

  • 安易な「気付き」には身構えた方がいいよなあ、という話: 不倒城

    「そうだったのか!」「今まで俺が信じていたことは間違いだったのか!」という感覚は、それが自分の根幹を揺るがすようなものでない限り、実はとっても気持ちいい。 固定観念に触れない程度の気付き、というものは快感だ。覚醒欲求、とでもいうのか。それとも真実欲求、とでもいうのか。どんなジャンルでもそうだが、大体の人は「勘違いしていた自分からの脱却」「正しい知識を得たことによるレベルアップ」という感覚にわりと弱い。 という話を、以下のようなリンクを読んで考えた。 「間髪をいれず」が殺された日 そうなんですよね。 上記の記事を乱暴に要約してしまうと、「来言葉は変化するものであって、「正しくはこう!」などということを希求することに意味などないのに、知ったかぶって「正しい日語」などというものを主張する輩によって言葉狩りが発生してしまう」という問題提起になる、と思う。 この問題提起については、私は全面的に賛

  • 「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と聞かれた時、言葉を尽くせない大人が知性を殺す: 不倒城

    ちょっと前、「子どもに「こんなこと勉強して何の役に立つの?」と言われた時、「こんなことも出来ないお前は何の役に立つの?」と返すのが最強」とかいうコピペをみて、心底アホかと思った。まさか親や教育者が気にはしないと思うが、こういう一言は容易に知性を殺す。 「お前は何の役に立つの?」という言葉には、勿論「お前も今は役に立たないけれど、将来は役に立つだろう?それと同じだ」という含意があると思われる。子どもはこの含意を理解しない。「お前は役に立たない」と受け取る。これは、言ってはいけない言葉だ。こういう言葉が、子どもから学習自体を奪う。 子どもはどんな時に「こんなこと勉強して何の役に立つの?」というかというと、要はその分野が面白くない時、意味が分からない時、とにかくその勉強をしたくない時に言うのであって、つまり「どんな役に立つのか」→「役に立たないでしょ?」というのは勉強しないことの理由づけないし

    higuchiki
    higuchiki 2012/05/31
    最近自分の中で「成功体験」という言葉は、物事を考える上での一つのキーワードになっている。
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