著者:柴田 翔 販売:新潮社 価格: 媒体:文庫 在庫切れ 在庫切れでしかたのないような本ではある。柴田翔の数ある失敗作のなかでも輝くものである。が、私はこのくだらない小説で、私のくだらない人生の人生観がひとつ変わった。登場人物の一人、たしか、哲学さんというのだったか、こんなふうなことを言う、おまえがおまえの人生に未来に絶望するのはかまわない、しかし、未来の子供たちに絶望する権利などお前にはない。謙虚なれ。
アノミー論についてはこれがわかりやすい。 これ⇒「 危機の構造―日本社会崩壊のモデル: 本: 小室 直樹」 ただし、文庫にもプレミアがついてしまって残念。 他にも彼は書いているが、ここを出発点にしないと返って散漫になる。というか、わかりやすく薄めた書籍が多いのだが逆にわかりづらくなっている。ので、上記の書籍がよいのだが。 しいていうとこれも。 ⇒「 あなたも息子に殺される―教育荒廃の真因を初めて究明 (1983年): 本: 小室 直樹」 ただし、これは話がやや錯綜している。 パーソンズ的な構造・機能分析との関連ではこの対談が秀逸、かつわかりやすい。 ⇒「 日本教の社会学 (1981年): 本: 山本 七平,小室 直樹」 残念なことにこれもプレミアム。 ただ、社会学的にわかりやすいかというと、雑談が多すぎ。 そのあたりはパーソンズに戻ったほうがいいのだがとりあえず略。 構造・機能分析と史的な
Le glissement de terrain provoqué par de fortes pluies à Hiroshima a provoqué la catastrophe: près de 50 personnes qui sont décédées, des personnes proches de 50 personnes étaient portées disparues. Bien que le Japon est un des pays avancés, les catastrophes naturelles comme celle-ci peuvent se produire. Considérables Japonais vivent dans des maisons qui sont faibles comme boîtes d'allumettes. Le
23日⇒比のエボラ、人にも感染 豚で検出後、調査で判明 : U.S. FrontLine フィリピンで昨年、養豚場の豚がエボラウイルスの一種に感染していた問題で、養豚関係者の一人も同ウイルスに感染していたことが23日、分かった。現地で調査に当たるフィリピン保健省や国連食糧農業機関(FAO)など国際機関は、感染経路の特定に向け、さらに調べを進める。 30日⇒比のエボラウイルス、4人感染 豚からの可能性 - 47NEWS(よんななニュース) 【マニラ30日共同】フィリピンで豚がエボラウイルスの一種に感染、養豚関係者1人も同ウイルスに感染していた問題で、フィリピン政府は30日、新たに4人の感染を確認したことを明らかにした。いずれも養豚関係者で、保健省当局者は「豚から人に感染した可能性が高まった」としている。 ⇒Q+A: Is the outbreak of Ebola in Philippine
中国語を勉強しているといろいろ思うことがあるが、その一つの雑話。いやそんなことはどうでもいいから、南シナ海とかウクライナ情勢とかブログに書けというのもあるかもしれないけど(ないかもしれないけど)。 正確に言うと、中国語の話ではなく日本語の話。ごく簡単な日本語。「あなた、子ども、いる?」という文について。 きっかけは、中国語の「你有孩子吗?(Nǐ yǒu háizi ma?)」という文。中国語だと、「有」は「有る」という意味だけど、普通に「持つ」という意味で使う。この用法は、日本語の「ある」と同じなんだろうか? というちょっとした疑問からだ。 日本語の場合は、生物と無生物で「ある」と「いる」を使い分ける。「お金」だと、「あなた、お金、ある?」となる。 「あなた、お金、ある?」 「あなた、子ども、いる?」 構文としては同じ。同じく「持つ」で言い換えられる。 「あなた、お金、持ってる?」」 「あ
我看过一本书叫『地震と独身』(地震和单人),是酒井顺子写的。这说单人怎么样的经历过东北大地震。这书,读者可能知道的地震经验。可是,我有不明确的感想。所以,不写书评在博客上。我认为这是一个有趣的书。 地震と独身
死の閃光弾で夜に紛れた 自動車が間近を行き交い、瞳孔は点になる 白黒だけのいくつもの道で私が100年待っていたら 口笛を合図にあなたは来たかしら 死の閃光弾で夜に紛れた 空き缶も行き先のない船も撃たれた 私が愛していて最悪で頭が変だったら 口笛を合図にあなたは来たかしら 死の閃光弾で夜に紛れた 彼は生きていたかったの、過ぎゆくに任せたかったの? 煙かすむ私たち夜。休息もほとんどない。 朝にはあなたの灰 生きる戸惑いに満ちたこの地下の鉄道 愛しのヨーロッパという次の駅 あなたの手で私の心の底まで触れて 死の閃光弾で夜に紛れた 最終コーナーまで手をつないでて 白黒だけのいくつもの道で私は100年待っていたら 口笛を合図にあなたは来たかしら
Voici Zaz. Je ne l'ai pas connu. Je viens de connaître par la leçon de français. Elle a 33 ans. Deux ans de plus que Hikaru Utada. J'ai entendu sa chanson. Wow. formidable! Impressionnant! Offrez moi une suite au Ritz, je n'en veux pas ! Des bijoux de chez CHANEL, je n'en veux pas ! Offrez moi une limousine, j'en ferais quoi ? papalapapapala Offrez moi du personnel, j'en ferais quoi ? Un manoir a
Il a neigé à Tokyo hier. C'était un peu. Cet hiver, Il y a peu de neige à Tokyo. Même s'il ne neige pas, le froid ne change pas. L'air a sec seulement. S'il neige, j'aimerais bien quelque chose à faire. Piscine! Par les fenêtres de l'installation de la piscine intérieure chaude, c'est la meilleure vue de la neige. Quand j'étais étudiant, je me suis senti un tel plaisir. Auparavant, j'avais l'habit
街が閑散としてしてきている。昨晩はカクテル缶を2つ飲み、飲み過ぎた。ジュースと同じなので、1缶くいっと(ああ缶からは飲まないけど)飲んで、ものたりずもう1缶開けて、少ししたらうまくなくなったのだけど、暑いのでなにげにもう少し飲み、半分くらいでさすがにやめた。それと寝付かれないせいもあったか、朝はちょっとだるかった。と、思いだしたが水泳とかあと頭をごりごり使っているのもあるか。まあ、この酷暑をなんとか乗り越えたい。体重計にのると少し痩せたか。(もともと太っている人ではないけど。) そういえば極東ブログが自然に夏休みモードになっているな。 コラムとしてはしょーもなさすぎて言及すべきではないのだが。 若者の間でKYは「空気が読めない」の略。会議中に耳元でKYとささやいて「場の空気を読め」と助言したり、誰かをKYと名指しして「空気の読めないやつ」とおとしたりするらしい。軽いノリの背後に、異端や異質
昨日これ拾った⇒処女と結婚した 増田なので、釣りというかフィクションかもしれないなとは思った。 僕の文体に似ているという人もいてちょっと驚いた。そういえば、ブログのほうで、「いつも」こいつはうだうだ書くと批判していた人がいたが、僕の文章は「いつも」そうではないよ。というか、駄文ではない文章とかも読むとよいと思うけど。どれがというなら、cakesのほうはそうではない(たまに無料公開もあるし)。 で、その増田。少し釣られてみると。 「昭和が終わる頃の話だから、今とはいろいろ違うだろうが。」と始まるので、昭和63年とすると1988年。そのころの男の結婚年齢は28歳くらいなので、だいたい、1960年ころの生まれ。僕が1957年なので院にいたころの学部生くらいではないか。そのころの時代だと、結婚相手が処女というのはそうめずらしくもなかっただろうと思う(今でもめずらしくはないとも思うが)。自分もそんな
⇒alternative jiangmin - クリシン えっとそれ最近読んだというわけではないですよね。 それ⇒「 ホモ・パンツたちへ―がんばれよと贈る本: 本: 栗本 慎一郎」 この本ですが、まあfinalventにまた騙されてもいいやという人は速攻で古本買って読みなさい。リンクはアフィリだけど、アフィリでなくてもいいから。 ついでに。 これも⇒「 明るいチベット医学―病気をだまして生きていく: 本: 大工原 弥太郎」 若干危険な要素もある本だけど、とにかくまあ、この2冊は俺に騙されちゃいな。 で、と。戻って。 中島義道の善への指向は阿闍世コンプレックスというのは、読んでみてなんとなく了解できた気がするのですが、クリシンのこの離人症っぽいのはなんなんでしょう。古谷先生、教えて!!! あ、その前に。 ⇒「 愛という試練: 本: 中島 義道」 3/4はくだらない内容だけど、最後の中島の母の
私が死んでも、たぶん、この世界は存続するだろう。そして生きている私が今想像できる範囲でもあるだろう。 私には子供があるのでたぶん数千年くらいは子孫があるんじゃないかと思う。 それでも宇宙の瞬きに地球は滅びる。生命はそれ自体が夢であったかのように、宇宙の暗黒のなかに消えるだろう。そして、ほとんど無限に近い無が支配するだろう。 諸存在は、おそらく、その原子核から崩壊して無に帰すだろう。 無の後にまた時間と存在が始まるかもしれないし、あるいは多元的な宇宙はただ多元的に存在するのかもしれない。生命が物質となんら変わりが無いということは、物質はどこでも偏在的に生命とその知性を生み出すということでもあるのかもしれない。 そういうことは、古代人が考えたように、現代の科学でも実はわからない。 ただ、私は宇宙の瞬きに存在し、ほとんど無に近い。 私は無と言ってもいい。 そもそも私という意識も科学的に考えるなら
私事でどたばたとし、夕方は、筋トレ。 くたっとして今日はおしまい。 あ、つけたし。 そういえば、Acimでは執拗に「神は罰しない」というメッセージが語られる。これは、西欧的キリスト教(正教も同じだが)のように、神が究極の正義として世界に向き合うということから必然的に出て来てしまうのかもしれないが、日本人には、少なくとも私には、こうした処罰する神というのは、義の理念では理解できても、恐怖としてはない。なので、Acimのこういうところは日本人にはピント外れだなと思っていた。が、今日、ワークアウト中に、おや、そうでもないかもしれない。と思った。処罰する神ではなくても、自分が過剰に自省して承認を得たいような神観というのは自分のなかにあるな、と。日本人は、とくにイデオロギー的なセクトで顕著なのだが、法=正義の処罰ではなく、自省による自罰として粛清を行うところがある。自分はこの手のセクト思考からは免れ
最近、うまく言えないのだが、死の恐怖が安らいでいる。 世の中には、「死は怖くない」と豪語する人もいるし、その手のやからと死の恐怖の話をしても、そもそも現存在というのを考えたこともない人だと、話にもならない。なにか私が神経症的な恐怖に捕らわれているくらいにしか見られない。この手はもうけっこううんざりしている。 死の恐怖というのは、ハイデガーの『存在と時間』で説明されるように、無への先駆というもので、これがどれほど恐怖かという存在論的な構図から、世人の「頽落」を描く。ごく簡単にいえば、世人が頽落している状態が、死の恐怖の存在論的な構図そのものなのである。くどいようだけど、「死は怖くない」と豪語する人は世人でしかない。 「死の恐怖」というのは、しかし、存在論的な構図から、剥き出しのように実際的な恐怖にも変わることがあって、これは、絶叫するほど恐ろしいもので、まあ通じない人には通じない。 が、Ac
This holy instant would I give to You.Be You in charge. For I would follow You,Certain that Your direction gives me peace. EPILOGUE : Lesson This course is a beginning, not an end. Your Friend goes with you. You are not alone. No one who calls on Him can call in vain. Whatever troubles you, be certain that He has the answer, and will gladly give it to you, if you simply turn to Him and ask it of H
昨年の3月11日に開始したAcimのレッスンだが、やってみるととてもむずかしい。これは終わることなく、途中で放棄するんじゃないかとなんどか思った。あるいは、別に1年でやり遂げる必要もないと思いつつ、なんというか、この日記にしがみついて、へとへとになって辿り着いた感じがある。まだ、ではあるけど。 先日、私のキリスト教理解は間違いであり、私は「アフォ」だと言われた。愛を込めて言われたのかもしれないが、それはそのまま受け止めることはできた。つまり、私は阿呆であり、私のキリスト教理解は間違っていると。それはそれでかまわない。 もちろん、理性的に言えば、それは私の発言を単純に誤解しているにすぎないのだが(私はカルバニズムのみをキリスト教だとしていないことは過去発言から明白なので)、それでも、私の考えが、キリスト教なるものから逸脱しているのは、それはそれで確かな感覚なのだろう。 私は、たぶん、キリスト
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