今川義元は「公家化した軟弱大名」と揶揄された。(提供:GYRO_PHOTOGRAPHY/イメージマート) 日本には数多くの戦国大名がいたが、中には著しく誤解されたり、後世に成った史料で不当に低く評価されたりした例もある。今回は4人の戦国大名を取り上げ、汚名を返上したいと思う。 ■今川義元(1519~60) 義元は、永禄3年(1560)の桶狭間の戦いで織田信長に敗れて戦死したが、その理由は「文芸に溺れ、公家化したからだ」といわれている。たしかに、義元は鉄漿(お歯黒)をし、文芸にも傾倒していた。 とはいえ、評価すべき面も多々ある。たとえば、天文22年(1553)には、「今川仮名目録追加」を制定した。 また、駿河、遠江、三河で検地を行い、財政基盤を強化した。寄親・寄子制度を作り、軍役を整備した点も見逃すことができない。 戦国大名が和歌や連歌に親しむことは、決して珍しいことではなかった。一度の敗戦