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ブックマーク / furuyatoshihiro.hatenablog.com (20)

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    ●「Twitch Plays」がたいへん興味深い。 100万人が16日間かけて「ポケモン 赤」をクリア(早送り動画) https://wired.jp/2014/03/04/twitch-plays-pokemon-victory/ 絶対に攻略不可能な『DARK SOULS』の「Twitch Plays」が始動、視聴者がコマンドをコメント欄に入力しクリア目指す http://jp.automaton.am/articles/newsjp/dark-souls-twitch-plays/ 『PUBG』視聴者コメント欄に入力されたコマンドで操作し、ドン勝を目指す「Twitch Plays」。企画2日目にしてトップ3達成 http://jp.automaton.am/articles/newsjp/20170802-51808/ ●「Twitch」という、ゲーム配信ストリーミングサービスがあって

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    ●私は「私」という素材しか持っていない。作品に触れる時、その貧しさが露呈する。作品は、その貧しさのなかにしか現れない何かだ。私と誰かが同じ作品を並んで観ていたとしても、隣にいる誰かの頭のなかに結像している作品の姿を、私は見ることが出来ない。私が見ている作品は、私が見ている夢と同じくらいあやふやだ。私に見えている作品の像を他人に伝えるのは、私の見ている夢を他人に伝えるのと同じくらいむつかしい。目の前の風景やものを、「あれ」と指さすように、私の見ている夢を「これ」と言って指さすことはできない。ある作品を「これ」と指さすようには、その作品から私が「見たもの」を「これ」と指さすことはできない。作品の経験は夢のように孤独なものとしてある。 ここで重要なのは「私」ではなく、作品から私を通して結像された「何か」であり、私が作品を通過することで見た「何か」の方である。ここで「私」がついてまわるのは。私が私

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    ●哲学者の清水高志さんの自邸、s-house(設計・柄沢祐輔)にお邪魔させていただく。その後、清水さん、詩人の渡ひろこさん、永方ゆかさんと新年会。 ●以下、清水さんの許可をもらって、s-house内部の写真を何枚か載せます。完成予想図や模型は前に観ていたけど、実際に観ると予想以上にすごい。 この空間のなかで、他人が動いているのがすごく面白かった。動線が迷路のように複雑で、かつ、全体が一つのワンルームのようでもある。だから、複雑な動線を動いている人の動きがすべて見える。そして、見ている人と動いている人の「高さ」が頻繁にずれるようになっている。 例えば、ぼくがリビングにいて、清水さんがコーヒーでもいれましょうかという時、キッチンはリビングと同じ高さで、グリッドの隙間からすぐそこに見えているのだけど、半階昇って書斎を通って、そこから半階降りてようやくキッチンにたどり着く。そしてその動きがすべて見

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    ●大きくて、雑な話。この世界を、論理のレイヤー、物理のレイヤー、情報(あるいは記号)のレイヤーという、三つのレイヤーで出来ているものと考えるとする。この時、論理のレイヤーを支配しているのは論理であり、物理のレイヤーを支配しているのは法則と計算であり、情報のレイヤーを支配しているのは経験あるいは美である、と言えるのではないか。 (言い換えれば、論理のレイヤーの探求は論理を用いて行われ、物理のレイヤーの探求は計算と法則の抽出によって行われ、情報のレイヤーへの探求は経験や美によって行われる、と。) そして、この世界の情報のレイヤーにおいて起こっていることのすべては、「フィクション」であると言う事が出来ると考えられる。 ここで、情報、あるいは記号という時に想定されているのは、パース的な記号の過程だ。生物は、物理的過程だけでなく、記号(情報)的過程を生きる。誰か(解釈項)が、何か(対象)を、別の何か

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    ●「デザイン・フィクションとデッドメディア」(浅野紀予)と「グローバル時代に作品は可能か(中)」(池田剛介)を合わせて読むと、いろいろ見通しがひろがる感じがする。そして、エリー・デューリングみたいな人が現代美術に口出ししてくれて、当に助かった(ありがたい)という感情をもつ。 http://ekrits.jp/2015/06/1659/ https://madcity.jp/note09_ikeda/ ●上記の二つのテキストで参照される、武田宙也、岡源太、清水高志のテキストをよむとさらに見通しが開かれる。 ポイエーシスとプラクシスのあいだ エリー・デューリング講演会「レトロ未来」 〈人間−物質〉ネットワーク世界の情報社会論 ●ロザリンド・クラウスの言う、過去を振り返ることで得られる「メディウムの再発明」というのと、エリー・デューリングの「レトロフューチャー」とは、実はかなり近いんじゃない

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    ●フィクションについて考える時、例えば、小説なら小説にしか出来ないこと、絵画なら絵画にしかできないこと、みたいな、メディウムに根拠を置くメディウムスペシフィックな思考(表現論)は成り立たないと思う。いや、メディウムについての思考は依然として重要だけど、作品成立の根拠をメディウムに求める(メディウムの同一性に頼る)ことは出来ない。しかし、メディウムやフレームというものを不可視化し、フィクションを魔法化して、「現実」のなかに溶け込むように遍在させることが良いこととも、どうしても思えない(良し悪しとは関係なく、現実はそういう方向にゆくのだろうが)。それはむしろフィクションの現実性を殺してしまうように思われる。 (それはむしろ、フィクションを現実的な原理――資や権力や技術の原理――に従わせるという方向になってしまうのではないか。そうなると、フィクションのもつ「現実の可能性の可動域を広げる」という

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    ●数日前に、デネットとチャ―マーズの話をしていたので、棚の奥から『「意識」を語る』(スーザン・ブラックモア)を引っ張り出してきて、電車のなかなどでパラパラみていた。このは、「意識」についての研究で有名な科学者や哲学者たちのインタビュー集なのだが、インタビュアーであるスーザン・ブラックモアという人は、「超心理学」で学位をとり、三十年にもわたってビリーバーだったのだが、まともな成果がなかったので転向した、という人だという。このの面白さは、まずはこの人の面白さにあると言える。 (この人は自由意思というものをまったく認めていなくて、自分の行動は自分で決めているのではなく、「わたし」は、その時々その都度ただ「勝手に起っている」ものだと考えているそうだ。) パラパラとみていて思うのは、(当然と言えば当然だけど)「意識」に対するアプローチは二通りあって、それは、意識はすべて物理的プロセスに還元可能

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    ●最近のゲームは物理エンジンというものが組み込まれているという話を、昨日西川アサキさんから聞いた。それによってゲームの空間は、われわれが住んでいるこの現実と同じ物理法則が支配する世界となる。たとえば、ゲームの画面の端の方でたき火が燃えているとしたら、それはたんなる背景ではなく、実際にそこでたき火がされているのと同じ効果をゲーム世界に与える。ゲーム内世界は、あらかじめ隅々までプログラミングされたものというより、その時々のプレイヤーの動きによって、その都度、ゲーム設定と物理法則という縛りのなかで新たに計算され、(その都度の計算によって)創出される。計算以前に「ある」わけではないこと。その時、ゲームのデザイナーがそのような「敵のやっつけ方」をゲームのルールとして想定していなかったとしても、例えば敵をたき火に誘い込んで燃やしてしまうという「やっつけ方」を思いついて試すことが可能になる。つまり、あら

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    ●「オブジェクト指向存在論」は、雑駁にとらえれば、「私――/(私の知覚)/――世界」という関係の問題において、私と世界とを媒介する「私の知覚」から「私」を取り除いて、そこにモノや媒介の機能を代入するという方向性をもつように思われる。そこで、モノや媒介の多様な「媒介する」機能とそれらが作り出すネットワークとを、具体的に明らかにしてゆこうとするのだと思う。そうすると「私」さえも、モノたちの様々な媒介作用とそのネットワークの結果であるということころに行き着くだろう。 それはそれで非常におもしろくて興奮するのだけど、しかし、それによって「わたし」の問題が完全に還元され、「わたし」を消去することができるとは思えないので(ハーマンの「実在的対象」は、徹底して孤独なモノであると同時に、徹底的に孤独な〈わたし〉でもあるように思うし、「魅力」という概念は一種の汎クオリア主義のようにも読める)、そっち方向の探

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    blanClassに、平倉圭さんの話を聞きに行った。すごく面白かった。 http://blanclass.com/japanese/schedule/20141206/ 以下は、平倉さんの話とは別に、話を聞きながらぼくが勝手に考えたこと。 ピカソ(だけ)ではなく物質としての絵画面(の蓄積)が考える、という時、ピカソは主体ではなくても、少なくとも観測者ではあるのではないかという感じがぼくにはある。様々な他者や物質というアクターたちのネットワークが「考え」、そのある断面が絵画面として集約されるとして、そこですべてのアクターたちが同等ということではなく、たとえば、観測者、観測装置(媒介)、観測対象という感じの役割分担が生じるのではないか(ここはパースの解釈項・記号・対象のパクり)。この役割は固定的なものではなく、ある構えにおいて観測者だったものが、別の構えでは対象であったり媒介であったりもする

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    ●例えば、研究というのは、研究者たちのコミュニティによる承認を必要とする。コミュニティにはそこに刻まれた歴史が存在し、その歴史を通じてコミュニティに与えられた外部(社会)からの承認がり、それによって権威をもつ。コミュニティは権威=制度としてあり、そこで承認されるために必要な、段取りがあり、条件があり、作法があり、政治がある。それらは、その研究が真であろうとするときの質や精度を保つために必須のものとされるだろう。 一方、そこからやや外れたところに、そこから自律したものとしての批評という行いがありうる。批評には、研究者たちのコミュニティがもつ権威=制度との緊張をもった距離(意識的な距離)があり、作法的、形式的に、ある程度の自由度をもつ。批評の信用を支えるのは既存のコミュニティによって承認された条件や形式ではなく、不特定の公衆へのプレゼンテーションとそこから得られる支持であると言えよう。だが、批

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    ●昨日の動画について少し考える。 http://www.youtube.com/watch?v=LXO-jKksQkM&feature=player_embedded ●例えば、それぞれの文脈(地)から切り離されたイメージ(図)、1、2、3があり、それらを媒介なしに直接接合した合成的イメージとして図(123)を作るとする。この時、図(123)は、それ自体として固有の(共通の)文脈(地)をもたない。しかし人の頭はほぼ自動的に、1、2、3という三つのイメージを統合する図(123)の背景的文脈(地)をつくりだしてしまう。遠近法は、それを見る人が勝手につくりだす。例えば、メルロ=ポンティは「映画には地平がない」と批判するが、しかし実際には人はかなり無茶なモンタージュでも普通に受け入れてしまう。つまり、図と図を直接組み合わせると、新奇な複数的イメージとセットとなった新奇な文脈が「一つ」出来上がる。

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    ●『虚構の「近代」』(ラトゥール)第二章の空気ポンプについて。これはどうも、準モノの具体例というより、近代初期(17世紀)において、そもそもハイブリッドなものとしてある「空気ポンプ」をめぐって、政治(人間、社会、主体)的な言説と科学(非人間、自然、物)的な言説とがどうすれ違い、分離していったかということの例示であるみたいだ。ホッブズとボイルという二人の登場人物。 ボイルは、自らが開発した実験装置によって透明なガラス容器のなかに真空をつくることに成功した。それに対しホッブズは政治的理由から真空の存在を否定した。 《ボイル同様、ホッブズも市民戦争を終結に導きたいと考えていた。聖職者や庶民が聖書に加える自由解釈を一掃したかったのである。そこでホッブズは、その目標を身体政治学(ボディー・ポリティックス)による統合を通して達成しようとする。「「永遠の神」のもと、私たちは社会契約が作り出す君主、つまり

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    ●投手によってボールが投げられ、打者のスイングがボールの芯とバットの芯とを的確に対応させるという出来事が起こる。この出来事は、イメージでも言語でもない。しかし、その打ち返されたボールが、ヒットになったりならなかったりするのは、野球というゲームの体系の問題であり、いわば、出来事が象徴的体系へと回収されるということだ。野球において、バットがボールの芯を捉える時の精度によって進塁が決まるわけではないし、ホームランの飛距離によって得点が増減するわけでもない。象徴体系は出来事をざっくりとしか捉えない。しかし野球においては、その網の目の粗さも含めて、ゲームは複雑化し、割り切れない面白みが生まれる。完璧な当たりが野手の正面に飛んだり、平凡なフライが風でホームランになったりすることの納得のいかなさ(割り切れないことのなかに強引に境界を確定してゆく様)が、ゲームの不確定要素を増加させ、それによって呼び込まれ

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    ●『インセプション』(クリストファー・ノーラン)をDVDで。最初の方を見ている時は、もっと面白くなりそうな感じだったけど、後半というか、四層の夢が同時施行するクライマックスがぼくにはまったく退屈で、なんか冴えない映画だなあという印象。夢の多層構造とか入れ子構造みたいな話は、(例えばアニメーションなどで繰り返し取り上げられる)ありふれているとともにきわめて魅力的な主題で、ひどく陳腐なものにも非常に魅力的なものにも紙一重で転ぶと思うのだが、この映画はやろうとしていることがバラバラで全体としてかみ合ってない感じがした。 物語の次元で言えば、物語をけん引するいくつかの要素、多彩なキャラクターによるチームプレイ、父と息子の確執、男と亡くなったとの関係、男の過去に干渉する若いヒロイン等の各要素がどれも弱くて、薄っぺらな感じ(こういう紋切型の物語要素は、アメリカ映画にはジャンルとしての膨大な表現の蓄積

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    ●新宿の紀伊国屋でやっているらしい郡司ペギオ‐幸夫の選書フェア(坂根正行さんのブログで知った)のために書かれた「内側から観た偶然=仏陀の微笑」というエッセイがすごく面白い。 (http://bookweb.kinokuniya.jp/bookfair/prpjn67.html) ぼくも、ちょうどここのところ、毎日ずっと「二人称」について考えていたので、ちょっとびっくりした。世界の根源的な「二人称性」について。 ≪私はレスラーに聞いてみた。毎朝わたしが覚醒すると世界が立ちあがる。世界としての、唯一無二のわたしのモデルを、同時に世界の中に見出そうとするなら、それは目の前の他者でしかあり得ない。赤ん坊はこうして、母親を「わたし=世界」のモデルとして採用するだろう。このとき他者は、唯一無二のわたしであると同時に、他のだれでもあり得るという複数性を担うこととなる。それは複数性の肯定による社会性の肯定

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    ●『シャッターアイランド』(マーティン・スコセッシ)をDVDで観た。『インセプション』にしろこの映画にしろ、要するに新格なんだよなあと思った。とはいえ、ぼくは新格のことはあまり知らないし、ある程度は読んでいるという作家は法月綸太郎くらいだ(といっても全作品を読んでいるわけではない)。しかし、『シャッターアイランド』には、感覚として、『密閉教室』や(数日前に読んだ)『夏と冬の奏鳴曲』ときわめて近いものがある。そして、新格のルーツは、あきらかに八十年代はじめ頃の柄谷行人の仕事(「内省と遡行」、「隠喩としての建築」「形式化の諸問題」など)であろう(法月綸太郎にはたしか柄谷行人を引用したメタミステリ論があったと思うし、『夏と冬の奏鳴曲』にもあきらかに柄谷行人を想起させる細部がある)。つまり、八十年代初頭の柄谷行人の先鋭的な論文で掴まれていた「直感」が、九十年代初頭の先鋭的なミステリに転生して

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    ●この作品を理解するには、最低限、これこれの文脈は押さえておけ、みたいな言い方にはどうしても反発を感じてしまう。いや、それが善意の啓蒙(親切な教育)だということは分かるし、そういうことを言う人は大抵、頭が下がる位に勉強したり努力したりしてる人であることも多いし。だから、そのような物言いを頭から否定したり、意味がないと言ったりは出来ない。いや、きっと意味はすごくあるんだと思う。でも、やはりどうしても、そういう言い方では何かを「開く」あるいは「つくる」というところには、最終的にはつながらないんじゃないかと思ってしまう。 それぞれの人が一人一人、それぞれ異なる文脈の複合のなかを生きているのだから、少し位置がズレれば、相手の「ある文脈」は見えても「別の文脈」は見えなくなる。わたしからは相手の一部しか見えないし、相手からもわたしの一部しか見えない。だから、わたしとあなたとを同一平面上に配置することは

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    ●例えば、A、B、C、D、と配置された物が目の前にある時、目は、その配置を一挙に捉えるのではない。視線は、A→D→B→Cと動くかもしれないし、D→C→B→Aと動くかもしれない。あるいは、「AB」の関係をまず掴み、その後「CD」の関係を掴んで、そこから「ABCD」という配置を認識するかもしれない。そこで掴まれた関係-配置はある一つの視覚的空間を浮上させる。その視覚的空間は、視線が捉える「物」を捉える順番によって異なるあらわれかたをするだろう。だから、それを見直すたびに、すこしずつ異なった空間があられることもある。ABCの関係が、まず一つの視覚的空間として掴まれた後に、BCDの関係がまた別の空間として掴まれ、同一の細部を含んだ、二つの異質な空間-文脈として「ABCD」が掴まれるということもあるかもしれない。 ●それでも、視覚が一挙的に空間を掴むという実感があるのは、視線の動きそのものや、それに

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    よく晴れて風もない、のんびりとした静かな午後、と思ったら、近所の郵便局へ行ってその後にコンビニに立ち寄って帰るまでのほんの10分くらいの間に、雲が空を覆って太陽を隠し、強くて冷たい風がホコリを舞い上げて吹き荒れる。不安定な天気。雨なんか、全く降りそうもない感じだけど、今朝、テレビで気象予報師のお姉ちゃんが「 お出かけの方は騙されたと思って折り畳みの傘を持っていって下さい。きっと役にたちますよ。」と言っていたのを信じて、傘を持っていくことにした。折り畳みの傘は数日前に壊してしまったので、晴れてあたたかいなかを、白いビニール傘をぶら下げて歩くことになる。 東京都現代美術館へ『シュポール/シュルファスの時代-ニース〜パリ 絵画の革命 1966〜1976』を観にゆく。まだまだやっていると思ってたら、明日までだったので、慌てて出かけた。(『低温火傷』はもう終わっていたけど、それはどうでもいいや。)

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