2009年3月15日のブックマーク (5件)

  • 差別について。 - hituziのブログじゃがー

    差別。「差別はいけません」。「なくそう差別」。 うーーん。どうなんでしょうね。ちょっと、小山エミ(こやま・えみ、macska)さんの解説を みてみましょう。 macska dot org 差別についての、ごく基的な考え まず、一番大事なこと。わたしは「差別」という言葉で社会の諸制度や、それを含んだ社会システムのことを指す用法を取り、一般に「差別」と呼ばれる個別の行為や発言などは「差別的」と呼んで区別している。つまり、特定の人々に対して「不利益・不平等な扱いをすること」という行為のレベルではなく、特定の人々が「不利益・不平等な扱い」を受けるような社会のありかたを「差別」と呼び、個々の不平等な扱いは「差別的」もしくは「差別行為」として区別している。それは、「差別」とは主に社会のありかたの問題であり、個々の行為や発言などのことではないと考えているから。 いやあ、すばらしい。そのとおりですよね。

    差別について。 - hituziのブログじゃがー
    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/03/15
    「「革命」と「少しずつよくなれ」」でも かきましたけども、くりかえし、ひきつづき社会をよりよくしていく、差別をなくしつづけていく。その方向に むかうということです。http://d.hatena.ne.jp/hituzinosanpo/20080607/1212803792
  • メモ6 | 私にも話させて

    作家の目取真俊氏が自身のブログで、佐藤優を重用する沖縄の左派知識人やメディアを批判し、佐藤への警戒を呼びかけている(私のブログも言及されている)。私も、沖縄の左派、大田昌秀や新川明や仲里効らの佐藤への入れ込みようには唖然としていたのだが、まともな批判がようやく出てきた、と言える。左派における佐藤優(現象)批判のタブーも、弱まりだしたようである。 「国家主義者という病理」 http://blog.goo.ne.jp/awamori777/e/82ae9a8d0b28418653f14b827a48674e ついでに言うと、これまでの例を見る限り、『世界』『金曜日』などの左派ジャーナリズムには、左派の著名人が〈佐藤優現象〉に批判的であることを表明した場合、その人物を誌面に登場させて、そうした批判を無化させようとする傾向があるように思われる。目取真氏も、近いうちに、両誌(のどちらか)に登場するの

    メモ6 | 私にも話させて
  • 私にも話させて

    新天皇の幼少期からの友人という小山泰生の著書『新天皇と日人』(海竜社、2018年11月刊)には、いろいろ注目すべき記述があるが、中でも興味深かったのは、以下の箇所である。 ・天皇明仁(書中では「今上陛下」。現在は上皇)は憲法違反の懸念があるのにビデオメッセージを放送した。「天皇の言葉で世論が動いたとき、内閣は動き、国会も呼応して、法律が一できあがった、この事実が重要なのです。これからも、そのときの世論が沸騰したならば、それに対しての天皇のお考えが内閣を動かしてもいいのではないでしょうか。つまり、今上陛下は、その前例を作ったのです。」(43~44頁) ・国会で可決された法律に憲法上の手続きの瑕疵があれば、日国憲法第99条の憲法擁護義務により、天皇は法理論上、法律の署名と交付を拒否することができる。法律が可決されたとしても、天皇がそれに署名しなければ、憲法上、その法律は成立しないのだか

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  • 国家主義者という病理 - 海鳴りの島から

    『創』09年3月号掲載の佐藤優氏の連載「ナショナリズムという病理」第26回は、「大城立裕氏に学ぶ」と題して小説「二世」についての読解がなされている。『小説新潮』09年2月号に載った佐藤氏の「カクテル・パーティー」の読解も読んだのだが、二つとも長々と引用がなされている割には(その故か)佐藤氏の分析は少なく、インテルジェンスの専門家が関心を持ちそうな作品であることは分かるが、文学作品の読解としては物足りなかった。それよりも、「大城立裕氏に学ぶ」で興味を引いたのは、〈日の国家統合〉に関する佐藤氏の以下のような立場・見解だ。 〈筆者は右翼であり、国家主義者だ。それだから、日の国家統合を何としても維持しなくてはならないと考える。その視点から、現在の日にとって「弱い環」が二つある。沖縄とアイヌだ。この二つから日の国家統合が壊れる可能性がある。この危険性に対して、国家を重視する日の右翼、保守派

    国家主義者という病理 - 海鳴りの島から
  • アジアとの和解をはばむもの - lmnopqrstuの日記

    20:490 サルトルは次のように述べている。 もし社会がそれ自身を見、殊に自分が見られているということを見るならば、そのこと自体が樹立された価値や体制への異議申し立てとなる。作家は、社会に社会の姿を示して、それを受け入れるかそれを変えるかすることを求めるからだ。そしてとにかく社会は変る。社会は、無智のおかげで保っていた平衡を失い、恥辱と冷笑との間で動揺し、自己欺瞞を行う。このように作家は社会に不幸な意識を与える。*1  サルトルの言葉が正しければ、社会に「不幸な意識」を与える作家の活動が意味をもつためには、まずその前提として、当該社会自身に「自分が見られているということを見る」力が備わっている必要がある、ということになるのではないだろうか。 1 昭和天皇裕仁は、日帝国主義の被害者であるアジアの民衆の前で、己を恥じたことがあるだろうか。あるいはアジアの民衆の前で恥じる様子がない裕仁を見て

    hituzinosanpo
    hituzinosanpo 2009/03/15
    ぜひ よんでください。