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2011年12月26日のブックマーク (4件)

  • 【彼らの心が折れない理由】「羽生」から自由になった瞬間 棋士・谷川浩司(4) 【小松成美】+(1/4ページ) - MSN産経ニュース

    谷川浩司に、得体(えたい)の知れない恐れ、焦りを覚えさせた「羽生マジック」とは、いったいどのようなものだったのか。谷川はこう話す。 「羽生さんは、局面を複雑化させることに若いころから長(た)けていました。対局の終盤、不利な局面を迎えると、プロ棋士でも諦めたり、投げやりになったりすることがあります。ところが羽生さんは、劣勢であっても最善を尽くせる。だから、優勢であるはずの将棋になかなか決着がつかない。勝っていたはずなのに、こちらがだんだんと劣勢になっていく」 羽生の粘りは正確な判断を遠のかせた。他の棋士が思いつかない一着から形勢が逆転する。それこそが羽生の強さだった。 「相手が誰であっても、現状の局面は同じはず。でも、目の前に誰が座っているかによって、判断が変わってしまう。羽生さんは、その判断を鈍らせる、または誤らせる、そんな雰囲気を作っていました」 傑出した存在として20代を過ごし、30代

  • 【彼らの心が折れない理由】小松成美 棋士・谷川浩司(3)+(1/6ページ) - MSN産経ニュース

    名人だから得られる経験がある 「物心ついてから自分が挑戦者になる前年まで、名人位に就いた方は、大山康晴先生と中原誠先生のお2人だけです。私が奨励会に入ったときには中原先生が名人でした」 谷川浩司にとって、名人というタイトルへの思いは、2つの巨星への憧憬に等しかった。1959年から13年間、名人の冠を守った大山から、72年にその位を奪取し、以後名人にふさわしい強さを誇った中原。その人を仰ぎ見て、谷川は将棋を指していた。 「いつしか中原先生に戦いを挑む。そのことが子供の頃からの夢だったんですよ」 しかし、82年、9年間防衛してきた中原から加藤一二三がタイトルを奪う。加藤は、谷川と同じく14歳でプロになり、20歳の名人初挑戦から22年を経て念願を達成していた。苦節の加藤と、勝てば名人位の最年少記録を打ち立てる谷川。83年の第41期名人戦は、それまでの時代と、このあとに訪れる谷川の時代との分水嶺(

  • 【彼らの心が折れない理由】小松成美 棋士・谷川浩司(2)+(1/5ページ) - MSN産経ニュース

    「谷川をつぶす会」もありがたかった 縦横各9列の盤上に各20枚の駒を並べ、相手の王将を詰めるために互いが一手ずつ駒を動かす。攻め取った相手の駒も使用できることから、その戦いはどこまでも複雑になり、プロ棋士においては同じ棋譜が存在しないとまで言われている。 この深遠な日固有のボードゲームは、人の知力を最大限に試すものだ。 谷川浩司九段は言う。 「将棋の1局の手数はおおよそ110手なので、実際に先を読むのはせいぜい10手ほど。けれど、1つの局面で選択肢がつねに2つと考えると、10手先であれば、2の10乗にあたる1024通りの局面が考えられる。だから『何手先を読みますか』と問われると、10手ぐらいとしか言えないのですが、『何手読みますか』となると、何百手、何千手という数になるのです」 そんな将棋の世界の入り口に谷川が立ったのは、5歳のときだった。 「兄弟げんかがひどく、それを治めようとした父が

  • 【彼らの心が折れない理由】小松成美 棋士・谷川浩司(1)+(1/6ページ) - MSN産経ニュース

    谷川浩司(将棋棋士・日将棋連盟専務理事)インタビュー=16日午後、東京都新宿区西新宿の京王プラザホテル(宮川浩和撮影) 「答えの出ない問い」背負い生きる 1995年1月17日に起きた阪神大震災は、谷川浩司の棋士としての運命を大きく旋回させた。 「生命の危機を感じたのは生まれて初めてのことでした。今だから分かるのですが、震災の衝撃が人の心を思いもよらない方向に変えてしまうことも、知ったのです」 震度7の激震が神戸の町を襲った瞬間、当時32歳の谷川はとともに、神戸市東灘区の人工島、六甲アイランドにある自宅マンションで就寝していた。 「激しい揺れに飛び起きましたが、寝室には大きな家具はなく、けがもしませんでした。マンションも比較的被害が少なくてすみました」 しかし、水道やガス、電気のライフラインは止まり、水や糧はコンビニで長い列に並ばないと手に入らなかった。 何より、神戸市須磨区にある実家