A Brief History of Afrofuturism3 ways to look at the trailblazing movement
1996年に亡くなった司馬遼太郎さんが21世紀に生きる子供たちへ向けて書いた文章をたまたまTVで目にしました。子供向けの文章ですが、子供たちにどうあってほしいか、どのような社会であってほしいかを、考えさせられます。 子供たちが自殺する現状を踏まえ、著作権違反を重々承知した上で、全文を掲載したいと思います。 私は歴史小説を書いてきた。 もともと歴史が好きなのである。両親を愛するようにして、歴史を愛している。 歴史とは何でしょう、と聞かれるとき、 「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生がそこにつめこまれている世界なのです。」 と、答えることにしている。 私には、幸い、この世にたくさんのすばらしい友人がいる。 歴史の中にもいる。そこには、この世では求めがたいほどにすばらしい人たちがいて、私の日常を、はげましたり、なぐさめたりしてくれているのである。 だから、私は
韓国の盧武鉉・前大統領が自殺した。韓国の大統領が引退後、訴追されることは珍しくもないが、自殺というのは初めてだ。死者に鞭打つようで恐縮だが、韓国という国はいつまでたっても成熟できないのだなという感を強くする。 日本と韓国は、ほとんど管理された実験のような「双子国家」である。遺伝的にはほとんど同じでありながら、その民族性は対照的だ。日本人は感情を表に出さず、自己主張しないが、韓国人は感情の起伏が激しく、敵を徹底的に攻撃する。明治以降、日本は非西欧圏ではほとんど唯一、自力で近代化を果たしたが、李氏朝鮮は近隣各国の侵略を受け、最終的には日本の植民地になった。 その原因は、李朝の「儒教原理主義」ともいうべき統治機構が500年以上にわたって続いたことだとされる。儒教では皇帝と官僚機構を頂点とする階層秩序を想定しているが、中国は大きすぎるため、それほど厳密な階層構造はできなかった。これに対して李朝
本来「葉隠」とは葉蔭、あるいは葉蔭となって見えなくなることを意味する言葉であるために、蔭の奉公を大義とするという説。さらに、西行の山家集の葉隠の和歌に由来するとするもの、また一説には常長の庵前に「はがくし」と言う柿の木があったからとする説などがある。葉とは「言の葉」言葉を意味するとも言われている。 『葉隠』は一般の武士を対象にした武士道論ではなく、藩主に仕える者の心構えと佐賀藩の歴史や習慣に関する知識を集めたものであった[1]。江戸時代には公開が憚られ、一部の人々にしか知られていなかった[1]。 「朝毎に懈怠なく死して置くべし(聞書第11)」とするなど、常に己の生死にかかわらず、正しい決断をせよと説いた。後述の「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の文言は有名である。同時代に著された大道寺友山晩年の著作『武道初心集』とも共通するところが多い。 江戸時代はじめ、幕府の意向で中央に近いところでは
2008年度に放送した「NHK高校講座」の再放送です。 全科目・全回を各1回、2008年10月から2009年9月までの期間放送します。
と、ウィキペディア⇒済州島四・三事件 - Wikipedia 済州島四・三事件(チェジュド(さいしゅうとう)よんさんじけん)は、1948年4月3日に現在の大韓民国南部、済州島で起こった人民遊撃隊の武装蜂起にともなうとされる虐殺事件。南朝鮮労働党が関わっているとされ、政府軍・警察による粛清と鎮圧によって、多くの島民が虐殺された。またこの事件は麗水順天の抗争の背景にもなった。 ちなみに日本の独立は1951年。このあたり、どうも若い人と話していて、れれれ感があるけど、敗戦の45年から6年間日本ってなかったんですよ。 流刑地だったことなどから朝鮮本土から差別され、また貧しかった済州島民は、新天地を求めて日本へ出稼ぎに行き、定住する者もいた。韓国併合後、日本統治時代の初期に朝鮮から日本に渡った20万人ほどの大半は済州島出身であったという。日本の敗戦による朝鮮半島解放によってその3分の2程は帰国したが
司馬史観のヒーローが伊藤博文だとすれば、悪漢は山県有朋だろう。憲法や議会制度をつくった伊藤に対して、軍や官僚を支配した山県は性格的にも陰気で猜疑心が強く、国民にも人気がなかった。しかし現在の日本の閉塞状況をを理解するためには福沢諭吉より北一輝のほうが重要であるように、伊藤より山県を理解するほうが重要だと思う。 山県を生み出したのは、明治憲法の欠陥である。立憲君主制によって天皇の実質的な権力は制限されたが、内閣は天皇を補佐するという建て前で弱い権限しかなかったため、国家を統括する機関が不在だった。この権力の空白を埋めたのが、「元老」としての山県だった。彼は軍を掌握し、首相を指名する非公式の権限によって、20年以上にわたって「キングメーカー」として君臨した。 陸軍の制度は当初はフランス式だったが、プロイセンの官僚制度を崇拝する山県がドイツ式の中央集権的な軍政に変えた。昇進の基準を厳格な年功
1991年、イタリアとオーストリアの国境にあるエッツ渓谷で男性の遺体が発見されました。発見したのは登山者で、最初は遭難者だろうと思っていたそうですが、調べてみたところなんと5300年前の男性のミイラであることが判明しました。また、どうやら狩猟者だったらしいことも調査で判明しています。「アイスマン」の名で有名なこのミイラはイタリアのボルツァーノ県立考古学博物館で公開されているそうですが、イタリアまで行かなくても詳細な写真を「Iceman photoscan」で見ることができます。 カラカラに乾いたミイラの写真ですが、完全に人の姿をしているので人によっては不快感を催すおそれがあります。注意して下さい。 詳細は以下から。 Iceman photoscan http://iceman.eurac.edu/ アイスマンの顔。体毛などは完全に抜け落ちてしまっているようです。 何かを持っていたのか、ちょ
「日中戦争なら核報復を」 佐藤首相、65年訪米時に(1/2ページ)2008年12月22日3時1分印刷ソーシャルブックマーク 佐藤栄作氏マクナマラ元米国防長官 1965年1月に訪米した当時の佐藤栄作首相がマクナマラ国防長官との会談で、その3カ月前に中国が初めて実施した核実験をめぐり「(日中で)戦争になれば、米国が直ちに核による報復を行うことを期待している」と表明、核戦争を容認していた様子が、22日付で外務省が公開した外交文書で明らかになった。 長官との会談は1月13日に行われた。前年10月に実施された中国の核実験をめぐり、長官が「今後2〜3年でどう発展するか注目に値する。日本は今後、核兵器の開発をやるのかやらないのか」と迫ったのに対し、首相は「日本は核兵器の所有、使用はあくまで反対」と米国の「核の傘」の下にいる立場を強調した。 続いて首相は「核兵器の持ち込みとなれば、これは安保条約で規定され
ヨロマルとは韓国語で諸言語の意。日本語、韓国語、英語、ロシア語などの言葉と酒・食・歴史にまつわるエッセー。 日本の首相が「侵略」という言葉を使った例を探してみました。ほかにもあるかもしれませんが,代表的なのは次の三つでしょうか。 ①「私自身は,侵略戦争であった,間違った戦争であったと認識している」(93年8月10日,細川首相就任記者会見) ②「過去の我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたことに改めて深い反省とおわびの気持ちを申し述べる」(同年8月23日,細川首相所信表明演説) ③「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」(95年,村山首相「戦後50周年式典」談話) そして,③が今日までの政府の公式的立場
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