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ブックマーク / aburax.blog80.fc2.com (5)

  • 芸術至上主義

    19世紀フランス。1814年ナポレオン失脚からの王政復古、七月革命、二月革命で帝政に逆戻りし、ナポレオンの甥は1870年に失脚する。 そんな時代の芸術はどうだったであろうか。 当時のフランスは「芸術」ブームだった。「芸術」「芸術家」という「名詞」が一般市民に浸透し、自称「芸術家」が巷に沸きかえり、国家もその思想を容認した。 そんな中、1835年ある文芸雑誌で、テオフィール・ゴーティエが「芸術のための芸術」という思想を宣言する。これが「芸術至上主義」と呼ばれる、時代性の強い一つのトレンドである。 「芸術至上主義」と銘は打ってはいるが、文芸がメインなのだ。文芸としては、ロマン主義からレアリスムへの移行時期とも言えるかもしれない。 しかし、逆説的にこの時期から1860年ぐらいまでは、フランスは普遍的な文芸作品を、一部を除いて生み出せなかった。つまりこの世代はその前後と比して不作の時期とも言えるの

  • 「ヤンキー文化」と「オタク文化」

    斎藤環氏著『文学の徴候』を(一年ぐらいかけて(汗))読了した。ほとんど読んではいたんですが読んでなかった章とかをふと思い出して読み通してみた、という感じです。 で、最後に金原ひとみ氏に触れているんですが、その内容はともかく、「ヤンキー文化」に言及していることに目が行きました。そのあたりのくだりを引用します。 ===== 現代の若者は、コミュニケーションを軸として、おおまかに「ひきこもり系」と「じぶん探し系」という、二つの部族として棲み分ける。「ひきこもり系」とは、コミュニケーションが不得手で対人関係が少なく、しかし「自己イメージの不確かさ」についての葛藤が少ないタイプの若者たちだ。彼らは自己の内的過程に没頭する傾向が強く、そのぶん創造性も高い。いわゆる「おたく」もここに含まれる。いまどき創作活動に関心を持つような若者は、そのほとんどが「ひきこもり系」だ。 一方、「じぶん探し系」の若者は、過

  • 「欲望する父」と「抑圧する父」

    最初に断っておきたい。この文章における「父」とは具体的な父親のことではなく、「父性」などのような、象徴的な父のことを指す。 この象徴的父は超自我でもある。象徴的ファルスΦが大文字の他者Aに及ぼす暗喩作用そのものと言ってもいいだろう。超自我は抑圧を役割としているので、これを象徴的父の一つの側面として捉え、「抑圧する父」と呼ぶことにしよう。象徴的父を「一」という固有性に凝縮したのが「父-の-名」である。 男性にとっての象徴的父は、この「抑圧する父」的な側面の印象が強くなるだろう。男性はエディプスコンプレックスを「父の名」による去勢で終焉するからだ。それは、男性の精神世界においては「トラウマ的な」イベントとなる。 しかし、女性は違う。 女性は原抑圧によってエディプスコンプレックス(エレクトラコンプレックス)が始まる。象徴界に参入してから父親を愛するようになる。そこで、象徴的父から与えられた、象徴

    hongkongKimchee
    hongkongKimchee 2007/06/24
    心理学・精神分析学の観点から象徴的父性について
  • 「消費者」という権力者

    以下は、私が「今の」オタクたちを現実あるいはネットにおいて、精神分析的な視点で観察し続けてきた経験を元に述べている。 オタクたちは、「権力」を連想させるシニフィアンに対しアレルギー的な拒否反応を示す。それは例えば「芸術」だったり「学問」だったり「知」であったり「純文学」であったりする。オカタく自身を抑圧しそうなシニフィアンに対し、面白いほど、被害妄想と言ってよいほど反応する。オタクたちと議論した者なら誰でも経験あるだろう。ただし、向こうから擦り寄ってくる相手にはだらしなく無防備になる。「芸術」や「学問」や「知」や「純文学」というシニフィアンを利用して「オタク」というシニフィアンを肯定あるいは擁護する言述には、その文章に自分たちを同一化させるほど喜んで受け入れる。例えば最近ヨーロッパなどでオタク文化の表現作品が広まりつつあるが、外国人に愛される作品と自分たちを同一化したような言動をする。まる

  • 『ひぐらしのなく頃に』アニメ 「読む消費」から「スローリーディング」へ

    いろいろとばたばたしてます。 ひぐらしのなく頃に。 私これゲームはやってないんですよね。アニメだけしか見てませんが、アニメは面白かったと思います。 私の好きな不条理系というか、メタ的な匂いがしたのに実は謎解きミステリの感動想起手法を使っているという、妙な感覚を味わいました。 これを言葉でどう説明したらいいのかなあ、なんて思いつつ、まあどうでもいいかなんて思っていたら、東浩紀氏が鋭い批評を書いていました。 >閉域(繰り返される日常=悪夢)からの脱出方法が、メタフィクション的にメタレベルに向かうものではなくて、なんというか、ゲーム世界からプレイヤー世界に移行するような感じへと変わっている。 おお、とうなりましたねえ。 まさにこんな感じです。というと手抜きのように思われそうなので、私の言葉で言い直してみます。 劇場を考えてみると、皆さんが持っている劇場のイメージというのは、舞台に額縁がありますよ

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