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あとで読むと短歌に関するhystericgrammarのブックマーク (33)

  • 「冗語」の働き―玉城徹の所論からの連想 – 砂子屋書房 月のコラム

    ****************** ****************** かつて玉城徹は「短歌における冗語という問題」を提起したことがある。助詞や助動詞は一首に歌らしい「おちつき」や「ふぜい」といった「気分」の側面で〈うた〉になにがしかを加える。近代短歌はこのような助詞・助動詞の働きを削ぎおとす方向で進んだが、同時にたえず冗語への回帰を促す力とのあいだで動揺してきた(*1)。 短詩型という文芸が、言わば「無用の用」とでも呼ぶべき効用を滋養としながら、散文とは異なる表現技術を洗練させてきたことは、この雑文でも縷々触れてきた。子規は助辞の追放からその革新プログラムを開始したが、晩年に到ってむしろ「和歌の俳句化」から離れ、助辞を活かしつつ、時間に即した意識の流れを一首に投影させる途を模索した(「問いとしての写生」)。玉城が指摘するとおり、戦後短歌においても助辞の排除への志向性は顕著に見られた。

  • 短歌ブームの差異と反復 – 砂子屋書房 月のコラム

    みなさまごきげんよう。新年度、2024年度がはじまりました。年末と年度末に挟まれた1月から3月までの期間はその年の準備運動のようで、毎年不思議な気持ちになります。 ところで1月のコラム冒頭では、私たちの暮らす時間を意味づけている「紀元」について触れましたが、その際は話の都合上、「紀年法」と「暦法」をきちんと区別しませんでした。「紀年法」というのは、西暦紀元や元号、干支えとのように、年を数えるための方法を提供するものです。対して「暦法」というのは、時間の流れのうち、いつからいつまでをひとまとまりの年として定めるのか教えてくれます。この時期にちょっとだけ意識される不思議さというのは、後者つまり暦法のズレに由来しています。私たちは二重の暦の中で生きています。地域によっては旧暦も意識するので、三重の暦法で生活することもあるでしょう。 教会通いをしていると、1月1日起算の伝統的な暦と、4月1日起算の

  • ブックレビューの書き方(と、口語短歌の詠嘆のこと) – 砂子屋書房 月のコラム

    先月は現代短歌評論賞の選考委員が書いてきた評論を読むことで、良い評論の条件を考えました。ところで、歌壇にはもう一つ批評に関する賞があります。現代短歌社が主催するBRブックレビュー賞です。私は2023年度第4回の受賞者で、副賞として雑誌『現代短歌』での書評連載を2024年1月号(100号)から担当しています。賞の締切は6/1ですから、そろそろ応募用の書評を書きはじめるころでしょうか。 というわけで今月は良い書評の条件を考えてみましょう。さしずめBR賞の傾向と対策です。いや正直なところ書評の賞なんて傾向はよくわからないのですが、私自身の書評の書き方を明らかにすることで、多少の対策にはなるでしょう。『現代短歌』のアンソロジーを読むという先月の宿題もあるんですけど……。それは追々やることにします。 もちろんみんながみんな書評や批評を書く必要はありません。書評の書き方には型があって、それはある意味、

  • 光(る)キミへ。リアリズムの系譜 – 砂子屋書房 月のコラム

    若い世代に読まれている短歌のといえば、書肆侃侃房の短歌ムック『ねむらない樹』があります。最新号のvol.11は2月28日に発売されました。2018年の夏に刊行されたvol.1以来、2023年の夏を除き、毎年夏と冬の2回刊行されています。2000年代前半に発行されていた『短歌WAVE』と『短歌ヴァーサス』は比較的短期間で終刊となりましたが、誌はしばらく続いていて安心しています。 さて、『ねむらない樹』vol.11には吉田雅史よしだまさしによる「ヒップホップ短歌試論」が掲載されています。この評論にはすごく興味をひかれました。論の要旨は二つあります。一つはラップの押韻による詩的飛躍と、短歌の上句下句における飛躍が重ねられること。もう一つは、リアルとリアリティの違いに関連してヒップホップにおける「ボースティング」の概念を導入し、短歌におけるその手法を分析することです。「ボースティング」は自画

  • 現代短歌のキリストと、今日の短歌の霊性のこと – 砂子屋書房 月のコラム

    みなさま、新年明けましておめでとうございます。西暦紀元2024年がはじまりました。2021年ごろからささやかれはじめた短歌ブームも、そろそろ成熟期に入りつつあるように見えます。そういうわけで、年のはじめのこのコラムでは、今日の短歌がどうしてあるのかについて考えたいと思います。その前にひとつ確認しておきたいことがあります。 西暦の略称「A.D.」はラテン語のanno Domini、「主の年に」を意味する言葉です。この紀年法のもとで、今年は伝承上のキリスト誕生から起算して、2024年目ということになります。この紀元と、歴史上のナザレのイエスが生まれた年は実際のところ異なるのですが、それは一旦置いておきましょう。 キリスト誕生は、単に紀元を定めるだけではなくて、季節のうちいつを1月1日とするかにも関与しています。西暦の1月1日はキリスト誕生の夜から8日目に定められました。古代イスラエルでは生後8

  • 第157回 父は生きていた

    第57回短歌研究新人賞を受賞した石井僚一の父親が生きていたことが話題になり、しばらくぶりの短歌論争の感を呈しているので、今回はこの話題を取り上げてみたい。事の起こりと時系列に沿う展開は次のとおりである。 平成26年7月6日、選考委員の加藤治郎、米川千嘉子、栗木京子、穂村弘による選考会が行われ、石井僚一の「父親のような雨に打たれて」が新人賞に選ばれた。 受賞は編集長からただちに人に電話で連絡している。短歌研究編集部は翌日の7日にTwitterでこの結果をつぶやいており、マスコミ各社にも同時に連絡が行ったであろう。これを受けて地元の北海道新聞が7月10日付けの朝刊で人のインタビューを掲載した。その中で石井は父親が生きていることを記者に明かし、「死のまぎわの祖父をみとる父の姿と、自分自身の父への思いを重ねた」と語る。ただし、北海道新聞は地方紙であるため、この情報はこの時点ではわずかな人が知る

    第157回 父は生きていた
  • 水仙と盗聴(一) 読みの問題 | 塔短歌会

    五月号の時評でも引用した、服部真里子の連作「塩と契約」(「短歌」四月号)と小池光による同時批評をめぐる議論が、盛り上がりを見せている。まず服部自身が「歌壇」六月号で、言葉とは共有不可能なものであるという立場から「「読む」ことは、読者が作者の言葉を自らの言葉に置き換え、作品を再構築する作業に他ならない」と小池らへの反論を試みた。これを、大辻隆弘が「短歌」七月号の歌壇時評「読みのアナーキズム」で痛烈に批判したことで、議論は服部の短歌観、言語観の可否にまで及びつつある。 水仙と盗聴、わたしが傾くとわたしを巡るわずかなる水      服部真里子 小池が「まったく手が出ない」「イメージが回収されていない」と困惑したこの歌について、私は「それほど難解とは思えない。水仙を見ようと身を屈め、盗み聞くためにドアに耳を寄せる。そんなふうに自分が傾くとき、体内で揺らぐ水の存在。(略)イメージの並立がやや強引だが

  • 垂り出づる何の脂か蒸しあつき夜にかがやきを含みたり見ゆ – 砂子屋書房 一首鑑賞

    玉城徹『樛木』 前回の歌を引くため『樛木』をぱらぱらめくっていると、 いい感じの、惹かれる歌がたくさんありました。 今日のはそのうちの一首。 蒸し暑い夜に何かの脂(あぶら)が垂れてきた、というだけなわけですけど、 歌がパワフルで豊かな感じがします。 何の脂なのか。 章題が「大いなる枝を見上げて」なのもあり、樹木の脂を想像します。 わたしは樹木に関して無知なので、垂れてきたりするものなのかもよくわからないのですが。 かぶと虫とかいそうな、太い樹が蒸し暑い夜にクローズアップされているのを想像します。 油、高濃縮のべっとりした液体がにじみ出すように、かがやきを内に秘めながら垂れてくる。 そのエネルギーの流動みたいなものが詠われている。という感じかと思われます。 とはいえ、「何の脂か」と言ってるわけだから、何の脂かはわからない。 「蒸し暑い夜にかがやきを含んだそれ」というように、暗示的な言い方がな

  • 石は無欲、だらうかしかし墓石はやけに光つてゐるではないか – 砂子屋書房 一首鑑賞

    藪内眞由美『首長竜のゆふやけ』北羊館,2018年 初句が妙に孤立している。 「石は無欲」は納得感のある表現だ。受動的に削られていく石そのものには欲がありそうにはない。 初句六音の字余りに読点が付されて、丁寧に切れ目が付されている。読み下すとき、この読点部分でひと呼吸置かれて、初句の速度はゆったりと感じられる。どことなく重々しく声が響く気がして、箴言のようだ。石の冷たさや孤独さもほのかに感じる。 二句目からの展開は一転して速い。自問の直後に逆説の接続詞が配される。初句がゆったりとしていることもあり、「だろうか/しかし」という句割はスピード感がある。とくに「しかし」はアウフタクトのように三句目に接続されて、滑らかだ。 ゆったりとして箴言めいた初句から、自問・逆説を経て三句目以降に自問に対する回答がなされる。下句はゆったりとした定型に回帰する。展開が目まぐるしいような気もするが、一首の緩急が主体

  • 若狭より水を送りて大和にて汲みあげている春の仕来り – 砂子屋書房 一首鑑賞

    田井安曇(2016年・『『千年紀地上』以後』) 若狭からの水を汲みあげる行事は、東大寺のお水取り。3月13日、午前1時過ぎ、篝火と奏楽の中、堂童子、御幣を捧げ持つ警護役の講社の人たち「お水取り」の行列は石段を下り閼伽井屋(若狭井)に至り、若水を汲み内陣へ供える。お水取りは「魚を採っていて二月堂への参集に遅れた若狭の国の遠敷明神が二月堂のほとりに清水を涌き出ださせ観音さまに奉ったという」故事に由来するそうだ(東大寺HP)。若狭と大和の水脈がつながっているという背後の着想が、風水など、古代の思想をおもわせて興味深い。 神社仏閣の新年行事は、そこここに春の気配を感じさせて明るい。若水を汲み神棚へ供えて家内の無事を願うという、各戸で行われていた風習も、今日ではほとんど顧みられなくなった。が、想像するだけでも何やら聖なる気分がたちこめる。 歌集では、この歌を含む一連の前の章に〈若狭へ行く峠とうげのか

  • 880132「逆引き枕詞」

  • 毎日歌壇

  • 短歌時評2022.7 - 桑原憂太郎雑記録

    動画的手法とは何か 短歌ムック「ねむらない樹」Vol.8は、「第四回笹井宏之賞」の発表号。二〇一九年の第一回目から数えて、今年で四回目。応募総数は五八九点。去年の「角川短歌新人賞」の六三三点には及ばないものの、「短歌研究新人賞」の五八三点より多いというのは、大きな注目点といえよう。 選考委員は、大森静佳、染野太朗、永井祐、野口あや子、神野紗希の各氏。選考委員の顔ぶれからも、賞が、比較的若年層をターゲットにしていることがわかる。 今回受賞したのは、椛沢知世「ノウゼンカズラ」五〇首。椛沢は「塔」短歌会所属の三三歳(応募時)。過去、「歌壇賞」次席の実績もあり、実力はすでに認められていたといえよう。 この連作からは、現代口語短歌の先端部分の技法をきちんと咀嚼したうえで、独特な作品世界をつくりあげていることがわかる。 剥いているバナナに犬がやってきておすわりをする 正面にまわる ノースリーブ着てる

    短歌時評2022.7 - 桑原憂太郎雑記録
  • 俵万智さんが短歌AIを体験してみたら 驚きの下の句に「やられた」:朝日新聞デジタル

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    俵万智さんが短歌AIを体験してみたら 驚きの下の句に「やられた」:朝日新聞デジタル
  • たやすみなさい

    右と左の矢印を使ってスライドショーをナビゲートするか、モバイルデバイスを使用している場合は左右にスワイプします

    たやすみなさい
  • 奥村晃作短歌ワールドへようこそ!

    螢光の青光あおびに背をば照らされて水槽一杯に浮かぶ鮟鱇あんこう それでは今回は第二歌集『と空』の後半になります。前半はこちら。 昭和五十五年(1980年) 鮟鱇 ボールペン はつきりとこつちがいいと言ひくれし女店員が決めしボールペン持つ 金魚 学校の玄関傍の用水に氷が敷きて金魚ひそめり 受験 熱退かぬ子の負け心見定めてけとばす如く学校に遣やる ラッパ水仙 木蓮の丈低き木の幼木がふつうの大きさの花咲かせをり 朝の教員室 いつもいつも世界史の鹿野しかの先生は一時間かけて朝日新聞読む 今岡正道先生 酒飲めば老爺の如く和やかな赭ら顔にて声も弾めり 煙草の害しつこく説ける世に経りて煙草の徳を言ひ出でよ誰か フラミンゴ フラミンゴ一の脚で佇ちてをり一の脚は腹に埋めて ゆるゆると水中を行く真鯉らのどれも体のどこかがいびつ デモの河 弁当の空箱詰まる金網の屑籠に群るる夕雀たち 集会の声の渦湧く森過ぎ

    奥村晃作短歌ワールドへようこそ!
  • 名古屋の中華料理店が「短歌の聖地」として人気。全国の歌人が集まってくるワケ(大竹敏之) - 個人 - Yahoo!ニュース

    関東や関西から訪れる歌人も! その目的は…?名古屋駅から徒歩5分。超高層ビルが立ち並ぶ名古屋駅のおひざ元にしては意外なほど庶民的な雰囲気が漂う駅西銀座商店街。ここに今、「短歌の聖地」と呼ばれる場所があります。 黄色い看板が目印の中華料理店「平和園」。1974年創業のいたって庶民的ないわゆる「町中華」です。数年前から、ここに全国各地から歌人たちが集まるようになっているのです。 「周りに短歌をやっている人がいないので、同じ趣味嗜好の人同士で語らえる場は貴重です」というのは取材当日、わざわざ千葉からやってきていた女性。この日は店の常連でもある名古屋勢2人に、千葉、大阪の平和園ビギナーを加えた歌人4人での事会。関東と関西のちょうど真ん中に位置する名古屋は、広範囲から集まりやすいといいます。 彼らがここに足を運ぶのは、そんな利便性だけが理由ではありません。常連の男性がこう語ります。「店主の小坂井さ

    名古屋の中華料理店が「短歌の聖地」として人気。全国の歌人が集まってくるワケ(大竹敏之) - 個人 - Yahoo!ニュース
  • 「現代短歌」の最前線がここまで進化していたとは!宇多丸が驚愕した理由とは【瀬戸夏子が解説】 | トピックス | TBSラジオ FM90.5 + AM954~何かが始まる音がする~

    様々な文化の研究・発信・そしてさらにその先を垣間見て「聞けば世界がちょっと変わるといいな!」な特集コーナー「ビヨンド・ザ・カルチャー」、3月2日は…いま読むべき注目の“現代短歌”めっちゃ知りたい!特集TwitterやInstagram上では、ハッシュタグをつけて短歌を投稿し合う「

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  • 自由詩評 岡井隆欠落以降の「岡井隆」と現代短歌の中の現代詩、というラビリンス 小崎 ひろ子 - 「詩客」自由詩時評

    2020年7月11日午後の昼下がり。名古屋市昭和区の御器所駅近くの通りを歩いている最中に、いつも通りスマホを覗いていたら、画面に「岡井隆さん死去」のニュースが表示されたのである。御器所は、かつて岡井隆さんが「名古屋で思い出に残っている場所は、家のあった主税町、御器所、八事あたりかな」と語っていた生家のあったあたりで、街並みはごく普通の日の清潔な中都会。「偉い人の器を作成する場所」の意に一音に一字を充て、熱田神宮に器を献上していたというその地は、歴史好きの私には気になる場所でもある。それにしても、そんな場所でこんな重大なことをニュースで知ることになるとは。 そのようなことはさておき、主に2000年代の数年間、未来短歌会の編集委員会の巡りにいた私の思いは、作品と名声以外の部分を知る者の例に違わず、すこし複雑なのである。選歌欄に歌を出すようになる前、短歌の世界をちょっと恐ろしいもののように感じ

    自由詩評 岡井隆欠落以降の「岡井隆」と現代短歌の中の現代詩、というラビリンス 小崎 ひろ子 - 「詩客」自由詩時評
  • 自由詩評 第1回 濃密な、それでいて希薄な 星野 珠青 - 「詩客」自由詩時評

    詩歌梁山泊から「歌人による自由詩評」の原稿依頼を受けた3月31日に、第60回現代詩手帖賞の受賞者が発表された。その人は第62回角川短歌賞の受賞者であり、歌集『輪をつくる』(KADOKAWA)で知られる歌人・竹中優子である。 歌壇にとっても喜ばしい話題をこのタイミングで知ったことは何かの運命なのかもしれない。そこで、現代詩手帖賞受賞作「冬が終わるとき」および『輪をつくる』を私なりに読み解いて、竹中作品を味わってみたいと思う。 毎月分割で返すと言った妹の借金の 振り込みがあったのは最初の二か月だけだったと 川崎さんが電話をしてきたのは夕暮れ時 何度も電話も郵便も送りましたが連絡を取る手段が他にありませんので、 そう話す川崎さんは学校の事務員さん 一度だけ顔を合わせたことがある 「冬が終わるとき」の冒頭部分を引用した。この詩は作中主体の家族や周囲の人々が登場する。そのなかでも中心となるのは妹だ。

    自由詩評 第1回 濃密な、それでいて希薄な 星野 珠青 - 「詩客」自由詩時評