****************** ****************** かつて玉城徹は「短歌における冗語という問題」を提起したことがある。助詞や助動詞は一首に歌らしい「おちつき」や「ふぜい」といった「気分」の側面で〈うた〉になにがしかを加える。近代短歌はこのような助詞・助動詞の働きを削ぎおとす方向で進んだが、同時にたえず冗語への回帰を促す力とのあいだで動揺してきた(*1)。 短詩型という文芸が、言わば「無用の用」とでも呼ぶべき効用を滋養としながら、散文とは異なる表現技術を洗練させてきたことは、この雑文でも縷々触れてきた。子規は助辞の追放からその革新プログラムを開始したが、晩年に到ってむしろ「和歌の俳句化」から離れ、助辞を活かしつつ、時間に即した意識の流れを一首に投影させる途を模索した(「問いとしての写生」)。玉城が指摘するとおり、戦後短歌においても助辞の排除への志向性は顕著に見られた。