著者別インデックス|学科トップページに戻る 『南山神学』総目次 Nanzan Journal of Theological Studies 在名古屋教皇庁認可神学部・南山大学人文学部キリスト教学科編・発行 ISSN: 0387-3730 2024/06/03:第47号の目次を公開しました。 第46号以降のデータは大学のリポジトリに公開されます。ご活用ください。 → 南山大学機関リポジトリ/南山神学 ◎ 第1号からの総目次(この頁)と著者別インデックス(別頁)があります。 ◎ 新しい号ほど上に掲載されています。 <最新号> 第47号(2024年3月)
偶然世界を極限にまで突き詰めるメイヤスーが2011年に問うた『数とセイレーン』(Quentin Meillassoux, Le nombre et la sirène, fayard, 2011)。以前の『現代思想』誌で、メイヤスーが神論のほうに向かっているといった話があったけれども、ここではマラルメの『骰子一擲』を題材に、かなり独創的な解釈を通じて、おそらくはそうした新たな神論の一端を垣間見せている。前半はマラルメのその詩が、数をコード化したものであるとしてそのコードを明らかに(?)し、後半は、同時にそのコードには不確定さ・偶然が永続的に刻印されていることを論じていく。前半はなんというか、メソッド的に「トンデモ」感があって、おそらく文学研究的にはかなりの異論があるところと思われ、その強引さにちょっと引いてしまうかも(苦笑)。ここで投げ出してしまう人も少なからずいるだろうなという案配。けれ
薗田坦『クザーヌスと近世哲学』(創文社、2003)をざっと読む。クザーヌス研究の論集なのだけれど、タイトルにある通り、ルネサンス期のその他の思想潮流にも目配せした良書。もっともそちらは多少大まかな括りになっているのだけれど、ときおりこういう俯瞰的な視線で全体を捉えたものを見ておくのは、細部に拘泥しがちな身にはとても重要かも、と自戒を込めて想う。同書の軸線はクザーヌスの神論に関連したその知性論・知識論なのだけれど、これもクザーヌスの思想的展開において深化していることが示されている(第八章など)。一方で、木彫りの匙の職人などの、スコラ学でも人文主義でもない知(素人的知)の持ち主にも、クザーヌスはある種の創造的製作を見てとっていたという指摘などもある(第四章)。人間の創造性という論点から見たクザーヌス、ということでこれはなかなか興味深い。ルネサンスの「同時代人」(必ずしも厳密に同年代ではないにせ
「時代と無意識」+UTCP短期教育プログラム「歴史哲学の起源」の合同演習として、12月3日、大竹弘二の発表「政治神学的敵対の終焉をめぐって――カール・シュミットとハンス・ブルーメンベルク」が行われた。 大竹の発表は、『近代の正統性』の第一版(1966)の出版をきっかけに生じたシュミットとブルーメンベルクの論争を主題にし、ブルーメンベルクの錯綜した議論を慎重に解きほぐしながら、両者の論争の争点を明らかにするものだった。 大竹はまずシュミットの政治思想を普遍主義批判という観点から導入しながら、『政治神学 II』(1970)出版の経緯を、第二次世界大戦後の政治と神学の状況をシュミットがいかに解釈していたのかを背景にして説明した。シュミットの根本的立場は戦前と変わりなく、一貫して普遍主義的な進歩主義への批判であった。そのときとりわけ批判の対象となるのが、人類が次第に理想へと近づくとする進歩の歴史哲
はじめに 空知太栄光キリスト教会の礼拝では詩篇の定型句(106:1/107:1/118:1, 29/136:1) 「主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。主に感謝せよ。その恵みはとこしえまで。」(銘形秀則作曲)を日本語、そしてヘブル語で子どもも大人も一緒によく歌います。 「いつくしみ深い」は、へブル語の「トーヴ」טוֹבですが、「恵み」と訳された言葉はへブル語では「ヘセド」חֶסֶדです。前者の「トーヴ」は、主は良い方であり、良いものしか与えることのできない方という意味ですが、後者の「ヘセド」は正しく理解して歌っているかというと必ずしもそうではないかもしれません。「トーヴ」が「良い」「いつくしみ深い」「すぐれた」「最良のもの」「しあわせな」「善」「美しさ」「好ましい」「すばらしさ」といった意味があるように、「ヘセド」も多くの意味を含んでいます。 一言でいうならば、「ヘセド」とは「契約に
「賛美クス」のレッスンを行う佐伯玲子さん。元気な掛け声、明るい笑顔、パワフルな指導に、多くの参加者が励ましを受けている=今年7月、都内のスタジオで ホリプロのお笑い1期生として、バカルディ(現さまぁ〜ず)らと共にお笑い第三世代後半に活躍したものまね芸人の佐伯玲子さんが、今夜放送の『爆報!THEフライデー』(金曜夜7時、TBS)に登場し、新興宗教へ依存していた過去を明かす。同番組ホームページでは「爆笑問題と同期デビューの美人芸人Sが宗教依存に! 教祖に心酔し芸能界引退・・・全財産を教団に捧げ家庭崩壊・・・さらに教祖に手術を止められ死の淵に立たされていた!」という告知がなされている。佐伯さんが新興宗教の洗脳から解放されたのは、元先輩芸人の牧師と再会し、イエス・キリストに出会ったことによるからだという。同番組では放映されない裏話を、佐伯さん本人に聞いた。 佐伯さんが、友人を通して「天地の法則」を
宗教改革小史 (コンパクト・ヒストリー) 作者: ケネス・G.アッポルド,Kenneth G. Appold,徳善義和出版社/メーカー: 教文館発売日: 2012/11メディア: 単行本この商品を含むブログを見る K・G・アッポルド『宗教改革小史』徳善義和訳、教文館、2012年、15-80ページ。 宗教改革史の概説である本書は、中世のキリスト教の解説からはじまる。そのさいに力点が置かれるのが「中世のキリスト教は統一されていたというよりも混沌としていた」ということである(21-22ページ)。教皇を頂点にしたヒエラルキー構造という統一は、当初は存在していなかったし、存在するようになっても多分に理念的なものであった。混沌はいくつものレベルで存在した。まず各地の教会が分裂していた。いくつもの有力教会が、ローマ帝国崩壊後の中心を失った地域で、それぞれのやり方で信徒たちを組織化していた。安定した組織化
天使の来訪を受けた乙女マリアは、いったいどのように神の霊を宿したのでしょうか。中世のひとびとも、処女が身籠るという奇蹟に具体性を求めました。聖書注釈では、マリアの質問に対して、天使が以下の言葉を発したときが、懐妊の瞬間とされています。 「聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから生まれる子は聖なるもの、神の子と呼ばれる」「ルカによる福音書」第1章35節 この一文のどこに着目するかによって美術にはさまざまな表現があります。順にみてゆきましょう。 初めに「いと高き方の力」。傑出した金工細工師だったニコラ・ド・ヴェルダンの手になる大きな祭壇装飾の一場面[図1]。この受胎告知図では、七宝で彩られたオーロラのような波が空から迫ってきています。この「波」をキリスト教図像学の大家ゲートルード・シラーは「いと高き方の力」の表現としました。天使の指先からマリアの顔へ光線のようなものが放たれてい
北森嘉蔵の『神学入門』に附録された『神学短章』のいくつかの文章より、キリスト教信仰とキリスト教神学、および、一般信徒と神学者/宣教者の関係について、そこで教え説かれていることをまとめておきたい。内容は、以前『神学入門』について書いたこと(そこで述べられていること)と重複する部分もあるが、ここでの「表現されること」の違いが、以前とは意味合い自体も変わってしまった「それに対する態度」(クィア理論/クィアスタディーズ/クィアポリティクス……それらをまとめて「クィアなんちゃら」でいいだろう)を確認させてくれる。 神学者である北森は、まず、とりわけ信徒一般に向けて、信仰と学問(神学)の関係について両者の必然的な結びつきの理路を提示する。 信仰とは「真実」である。真実をもってキリストに対するということは「責任」をもってキリストに対することになる。責任をもってキリストに対することは、キリストの御心を「厳
Heterodoxy in Early Modern Science And Religion 作者: John Hedley Brooke,Ian MacLean出版社/メーカー: Oxford Univ Pr on Demand発売日: 2006/01/19メディア: ハードカバーこの商品を含むブログ (2件) を見る Christoph Lüthy, "The Confessionalization of Physics: Heresies, Facts and the Travails of the Republic of Letters," in Heterodoxy in Early Modern Science and Religion, ed. John Brooke and Ian Maclean (Oxford: Oxford University Press, 200
Cees Leijenhorst, “Place, Space and Matter in Calvinist Physics,” Monist 84 (2001), 520–41. http://www.jstor.org/stable/27903747 初期の宗教改革者たちの多くはスコラ哲学を嫌悪していた。しかしプロテスタントたちが自らの神学教義を武器にカトリックやプロテスタント内部の他宗派と戦う必要が生じると、神学教義に関連する語彙を正確に定義し、自身の教義を整備せねばならなかった。そこで彼らはアリストテレス哲学を大学に再導入する。そうして生まれたアリストテレス主義は、中世スコラ学の単なる継続ではなく、プロテスタント諸宗派の神学上の要請に応えるかたちで変容をこうむることになった。 本論はプロテスタント神学上とくに大きな論争点となっていた聖餐式解釈をめぐる立場の違いが、場所と質料という
Harold Stone, "Why Europeans Stopped Reading Averroës: The Case of Pierre Bayle," Alif: Journal of Comparative Poetics 16 (1996): 77–95. http://www.jstor.org/stable/521831 アヴェロエスは中世からルネサンスにかけて毀誉褒貶はありながらも、広く読まれ続けていた。しかし17世紀後半から急速に読まれなくなる。どうしてか?この問題を検証する論文である。まずアヴェロエスが注釈をほどこしていたアリストテレスの権威が、17世紀にはいると急激に低下した。権威を剥奪されたアリストテレスへの注釈者をどうして読む必要があるだろうか。アリストテレスをなお学ぶ人々にとっても、アヴェロエスを置きかえる有力な対抗馬が出現していた。イエズス会が作成した注
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