いつの時代も…… 建築史をひも解けば、国や時代の記念碑が実現するまでの有為転変、右往左往は、今も昔も変わらない(12月22日、2020年東京オリンピック・パラリンピックの主会場となる新国立競技場の設計・施工案で選ばれた“A案”の建築家、隈研吾ら) Yuya Shino-REUTERS 国や時代を象徴する記念碑的建築を、"自分こそ"と自負する建築家たちは、取りっこを繰り返してきた。 たとえば、明治二九年竣工の日銀本店はどうか。御雇外国人建築家にもっぱら頼んできた記念碑を初めて日本人建築家に託そうと明治政府が考えた時、まず名の挙がったのは辰野金吾ではなく山口半六だった。山口は大学南校を出てフランスに学び、帰国後は文部省に入り、大学や高等学校を手掛け、文部省内のランクは、森有礼大臣に続きナンバー3の地位にあった。 山口に分があった。にもかかわらず辰野に指名が下ったのは、当時日銀を仕切っていた高橋
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