文/内田和浩 維新の巨星、西郷隆盛(さいごう・たかもり)。その最後の日に至る模様を、手短にご紹介しよう。 ■西南戦争はじまる 明治新政府内で「征韓論」をめぐって大久保利通、岩倉具視らと対立した西郷隆盛は、明治6年(1873)10月23日、参議の職を辞して下野し、青年育成を目的として鹿児島に私学校を創設した。そして県令・大山綱良の全面的支援のもとに、県下の官吏や警部・巡査には私学校の生徒が選任されるようになった。 その結果、鹿児島は、県内で徴収された税金を国庫に納めず、人事も中央に従わないという、私学校による独立国家のような様相を呈した。 これを政府が放っておくはずはない。明治10年(1877)1月、政府による挑発行為によって私学校の生徒たちは暴徒化した。ここに西郷は私学校の生徒に担がれて挙兵せざるをえなくなり、2月15日、「政府に尋問の筋これあり」として薩軍1万3000人は50年ぶりの大雪
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