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ブックマーク / serai.jp (3)

  • 西郷隆盛の最後の戦いは372人vs.5万人という悲愴すぎる戦いだった | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    文/内田和浩 維新の巨星、西郷隆盛(さいごう・たかもり)。その最後の日に至る模様を、手短にご紹介しよう。 ■西南戦争はじまる 明治新政府内で「征韓論」をめぐって大久保利通、岩倉具視らと対立した西郷隆盛は、明治6年(1873)10月23日、参議の職を辞して下野し、青年育成を目的として鹿児島に私学校を創設した。そして県令・大山綱良の全面的支援のもとに、県下の官吏や警部・巡査には私学校の生徒が選任されるようになった。 その結果、鹿児島は、県内で徴収された税金を国庫に納めず、人事も中央に従わないという、私学校による独立国家のような様相を呈した。 これを政府が放っておくはずはない。明治10年(1877)1月、政府による挑発行為によって私学校の生徒たちは暴徒化した。ここに西郷は私学校の生徒に担がれて挙兵せざるをえなくなり、2月15日、「政府に尋問の筋これあり」として薩軍1万3000人は50年ぶりの大雪

    西郷隆盛の最後の戦いは372人vs.5万人という悲愴すぎる戦いだった | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
  • 「忙しい時ほど遊ぶ。それが一番面白い」(横山隆一)【漱石と明治人のことば283】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    文/矢島裕紀彦 今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。 【今日のことば】 「忙しい時ほど遊ぶ。それが一番面白い」 --横山隆一 漫画家の横山隆一は明治42年(1909)、高知の生まれ。家は生糸商を営む豪家。坂龍馬が泳いだという鏡川で水遊びしながら育ったという。しかし、その後、父を早くに亡くし一家離散の苦渋を味わうことになる。 漫画家を志し、雑誌投稿からはじめてプロとなった横山は、昭和7年(1932)、近藤日出造、杉浦幸雄らの若手漫画家とともに「新漫画派集団」を結成した。集団で結束して漫画を売り込むという狙いが当たって、このグループは次第に漫画界の主流となり、横山はリーダー的役割を担う存在となっていった。 横山の一番の代表作『フクちゃん』は、昭和11年(1936)に新

    「忙しい時ほど遊ぶ。それが一番面白い」(横山隆一)【漱石と明治人のことば283】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
  • 「奉仕を続けていれば天は何かを与えてくれる」(藤村治太郎)【漱石と明治人のことば278】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト

    文/矢島裕紀彦 今年2017年は明治の文豪・夏目漱石の生誕150 年。漱石やその周辺、近代日の出発点となる明治という時代を呼吸した人びとのことばを、一日一語、紹介していきます。 【今日のことば】 「奉仕を続けていれば天は何かを与えてくれる」 --藤村治太郎 藤村治太郎は明治11年(1878)、岩手・盛岡の生まれ。家は造園業を生業としていて、治太郎も植木職人となり、やがて2代目として跡を継いだ。掲出のことばは、藤村治太郎が新渡戸稲造からいわれたことばで、家訓として後世に引き継いだものという。 この藤村治太郎が地元新聞に3段抜きの大見出しで紹介されたのは、昭和7年(1932)9月6日、数え55歳の折だった。見出しは「物云はぬ石割桜を火焔から救つた人」。一体、何かあったのか。 記事が掲載される4日前、9月2日の夜、盛岡の中心部にある盛岡裁判所が火事となった。治太郎の息子で植木職の益治郎は、地元

    「奉仕を続けていれば天は何かを与えてくれる」(藤村治太郎)【漱石と明治人のことば278】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
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    in_factor 2017/10/06
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