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ブックマーク / sarutora.hatenablog.com (9)

  • ボヴェ太郎の種退治 - 猿虎日記

    おGさんは山にプレカリに、おBさんは川に選択に むかしむかし、武蔵の国の、ある所……沢のちいさな長屋(アパート)に、画太利(ガタリ)さんと暮部(ボヴェ)さんという不安定雇用層、つまり夫隷刈阿人(プレカリアート)の若者が住んでおった(以下、GさんとBさんと略)。おGさんとおBさんは、貧しい上に希望もなく、しかも世間からは煮居徒(ニート)だ怠け者だと非難され、肩身の狭い思いをしながらつつましく暮らしておった。 そのうちに二人は、くらしが苦しいのは自分たちのせいではなく、愚弄罵詈頭無(グローバリズム)と寝澱部(ネオリベ)が悪いのだ、という思想にめざめ、時々は、「ええじゃないか」と歌い踊りながら路上解放をうったえる左運動出茂(サウンドデモ)などにも参加するようになったそうじゃ。 ある日、おGさんは山で木の下枝などを拾い集める林業関係の短期雇用賃労働を見つけ、山に夫隷刈り(プレカリ)に行った。 おB

    ボヴェ太郎の種退治 - 猿虎日記
    inumash
    inumash 2006/09/27
    「キビ(遺伝子組み替えでない)だんご」w
  • 8.5.サウンドデモ - 猿虎日記

    8月5日、サウンドデモ、参加してきました。 http://sounddemo.nobody.jp/ すでにいろいろ報告が出ているようです。 http://d.hatena.ne.jp/sugitasyunsuke/20060805/p1 http://d.hatena.ne.jp/Dryad/20060805#p1 http://d.hatena.ne.jp/KGV/20060805/1154780312 http://d.hatena.ne.jp/bullet/20060805#p2 中でも、最初に読んだ杉田俊介さんのものが大変興味深かったので、そちらを適宜引用させていただきながら書いてみたいと思います。 一つだけこうしよう、と思っていたことがあって、デモには「参加」せず、「見学」しよう、と。ずっと付かず離れずで「併走」というスタンスを取ろう、そこから見えてくるものを見よう、と。いかにも

    8.5.サウンドデモ - 猿虎日記
  • デモなんか行かない方がいい。むしろジョギングを。 - 猿虎日記

    デモについての記事をいくら書いても何かもやもやしたものが残るのは、やはり、デモ否定派を批判するとどうしてもデモ擁護派のような書き方になってしまうからである、と気づいた。というわけで、メーデーの今日、反デモ宣言を行うことにします。 デモに行かないという「負い目」 kmizusawaさんの文章を再び引用する。 勉強が好きな人やその案件に問題意識や興味を持ってる人にとってはなんでもない、もしくは必要だと感じられる知識の収集や興味の持続や「考える」ことが、「わかりたくない」人にとっては「もうたくさん」なことなのではないだろうか。すべての人がそういうことに興味を持てるだけの知識や情報や教養やモチベーションやキャパシティを得られるわけでも、学習のための時間や機会や気持ちの余裕を得られるわけでもない。興味の向きとか立ち位置とかもぜんぜん違う。共謀罪や教育法の「改正」は大変なことだが、それよりもバイト

    デモなんか行かない方がいい。むしろジョギングを。 - 猿虎日記
    inumash
    inumash 2006/05/01
    デモなんて行かないほうがいい。むしろパーティーを!!「外に出ろ!!鳴らせ!!」>gabrigabriさん ドイツには「何かに反対することに反対する」と言う趣旨で始められたパレードがあります。今はただの巨大レイヴ
  • 勉強とヒマとデモ - 猿虎日記

    今日は、id:kmizusawaさんの「「理解」するのも「興味を持つ」のも「参加」するのもヒマ人の娯楽」が頭から離れず、ずっと考えていました。 勉強が好きな人やその案件に問題意識や興味を持ってる人にとってはなんでもない、もしくは必要だと感じられる知識の収集や興味の持続や「考える」ことが、「わかりたくない」人にとっては「もうたくさん」なことなのではないだろうか。すべての人がそういうことに興味を持てるだけの知識や情報や教養やモチベーションやキャパシティを得られるわけでも、学習のための時間や機会や気持ちの余裕を得られるわけでもない。興味の向きとか立ち位置とかもぜんぜん違う。共謀罪や教育法の「改正」は大変なことだが、それよりもバイトのシフトに穴を空けないほうがとりあえず緊急的な大問題だという人もいるだろうし、とにかく疲れて休日はひたすら寝ていたいという人だっている。デモに行かない=政治意識がな

    勉強とヒマとデモ - 猿虎日記
  • 分断する思考とデモ - 猿虎日記

    分断する思考 「若者はどうしようもない」と言う老人。 そう言う老人に対して「老人はどうしようもない」と言う若者。 「モテはどうしようもない」と言う非モテ。 そう言う非モテに対して「非モテはどうしようもない」と言うモテ。 「デモするようなやつらはどうしようもない」と言う非デモ。 「デモしないようなやつらはどうしようもない」と言うデモ。 こうした思考を、サルトルは「集列的思考pensée sérielle」と呼ぶ。サルトルはそれが「わたし自身の思考ではなく〈他者〉となったわたしの思考」であり、「無力さimpuissanceの思考」である、と言う。サルトルはまた、それを「分断する思考pensée qui sépare*1」「分離主義的思想idée séparatiste*2」とも呼ぶ。 いま一つの企業を想像してみよう。そこでは二〇年か三〇年このかた、ただの一度もストライキが起こらず、だが「物価高

    分断する思考とデモ - 猿虎日記
  • 日本のデモ - 猿虎日記

    今日は、結局共謀罪反対のデモには行かなかった。山岡俊介氏が今日のデモについて書いている。 http://straydog.way-nifty.com/yamaokashunsuke/2006/04/post_8df9.html 紙・山岡も忙しいなか、しかし最優先で参加して来たのだが、正直、余りの参加者の少なさに愕然としてしまった。 既報のように、これだけの悪法、しかもこの最大の正念場で、その数はたったの100名いるかいないか。これに対し、公安警察は50名近く(下の写真。デモ参加者のいる公園を、道路の向こうから覗いたり、写真を撮る様子)。警備の警官と合わせたら、向こうの方が多かったかも知れない。 “第2の自民党”’とも揶揄される民主党さえ、党を上げて反対せざるを得ないほどの内容なのに、これだけとは……。真面目に、この国はいったい、どこに向かうのかと、暗い気持ちにならざるを得なかった。 10

    日本のデモ - 猿虎日記
  • 抵抗としての「怠惰」2 平等と怠惰 - 猿虎日記

    かつてここ*1でとりあげたように、齋藤孝は、ゲームのモノポリーについてのコラムにおいて、「運と勘と交渉術で一等地にホテルを建てることもできるし、一歩間違えば即退場」というこのゲームが「共産主義にケンカを売っているようなゲーム」であり、「だからおもしろいし、熱狂する」と言っている。 考えてみれば、共産主義ではこうはいかない。全員が平等で、計画どおりに働き、時々ストライキやデモを起こしてみるといった程度では、ゲームにならない。あったとしても退屈で、労多くして幸すくなそうだ。つまりゲームの世界においても、資主義は共産主義を凌駕しているのである。 「共産主義」は「平等社会」であるが、そうした社会は「面白く」なく、人々は労働意欲を失って社会は停滞する(旧ソ連のように)……こうした「俗流共産主義批判」は、かつてしばしば聞かれたものだ。 それに関しては、まず第一に、ソ連が「平等社会」であった、という前

    抵抗としての「怠惰」2 平等と怠惰 - 猿虎日記
  • 抵抗としての怠惰1 アフリカ脳 - 猿虎日記

    1961年に出版された『地に呪われたる者』(鈴木道彦・浦野衣子訳、みすず書房)において、フランツ・ファノンはこのように言っている。 パリあるいはエクスで、アルジェあるいは、バス=テールで、幾度われわれは見たことか、黒人の怠惰paresse と言われ、アルジェリア人の、ヴェトナム人の怠惰と言われるものに、植民地原住民 colonisé が激しく抗議する姿を。にもかかわらず、植民地体制のもとで仕事熱心な自営農民(フェラー)、休息を拒むニグロこそ、まさしく病理学的個性にすぎないということは、まるで真実に反しているのだろうか。植民地原住民の怠惰とは、植民地機構に対する意識的サボタージュだ。それは、生物学的にみればみごとな自己防衛の一方式であり、また所詮は、国全体に及ぶ占領者の支配に、一定の遅延をもたらすものなのだ。 (邦訳291-2頁) このように、ファノンは「抵抗」「自己防衛」としての「怠惰」に

    抵抗としての怠惰1 アフリカ脳 - 猿虎日記
  • 冒涜されているのは人々である - 猿虎日記

    id:x0000000000さんのところで強制召還の呪文が唱えられたので、おずおずと出てきました。かなり弱キャラですのですぐやられるかもしれませんがご容赦ください。 - http://d.hatena.ne.jp/x0000000000/20060217/p1およびコメント欄で、被差別者を「代弁」することをめぐる問題が論じられている。この問題は、「他者」を「代弁=代理=表象representation」する可能性、というようなデリダ的話につながっていくだろう。だがまずさしあたりその手前で考えてみたい。 それにしても、代弁というこの言葉、代弁、代弁、と繰り返していると変な気分になってくる。考えてみれば、語るということも一つの排泄行為である。 ところで、ターバンを爆弾に変えた例の風刺画は、それ自体として見れば「便所の落書き」レベルのものであって、汚物のようなものである。だが、たとえそれが汚物だ

    冒涜されているのは人々である - 猿虎日記
    inumash
    inumash 2006/02/22
    イデオロギーに大便させるなってことだ
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