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ブックマーク / garage-sale.hatenablog.com (2)

  • 共同体概念の脱構築と再構築 小田亮 - garage-sale

    1.はじめに 共同体概念の脱構築と再構築というテーマは、実は私がここ数年ずっと研究課題としているものです。ここで脱構築の対象となる「共同体」という概念は、「社会学の世紀」であった19世紀の社会学において、近代都市をモデルとする「市民社会」から「失われたもの」として「発見」された、「人格的な親密さや相互扶助を伴う道徳的・情緒的紐帯といった全面的な関係による凝集体で、等質な価値に充たされた集団」としての「共同体」です。 ジェラード・デランティは、「近代初期の思想では、コミュニティと社会は、事実上置き換え可能であった。つまり、コミュニティは『生活世界』という社会的領域、日常生活の生きられた世界を指していた。これらの領域は次第に分化していくが、17−18世紀には両者はほとんど同じ事柄を指すことが可能であった」[ デランティ 2006:13 ]と述べています。また、レイモンド・ウィリアムズも、当初、

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  • 「日常的抵抗」論の可能性──異種混淆性/脱領土化/クレオール性再考── - garage-sale

    1.質主義批判と異種混淆性論 ポストモダン人類学と呼ばれる人類学の潮流は、文化質主義批判から始まったと言えるでしょう。質主義とは、文化によって規定された人間分節(人種や日人やマサイ族といった民族、あるいは女性やゲイなど、ジェンダーやセクシュアリティに結びつく分節)をそこに帰属する人々の変わらぬ質と捉えるとか、先住民族のエコロジカルな文化などというときの文化のカテゴリーを土地や民族と質的に結びついたものと見なす思考を言います。そのような質主義への批判は、文化の「異種混淆性(ハイブリディティ)」と「脱領土化( deterritorialization )」(ガルシア=カンクリーニの定義によれば、「文化と、地理的・社会的領土[テリトリー]の『自然』な絆の喪失」)への肯定的評価という論点を伴っていました。つまり、「あらゆる文化は構築されたものであり、異種混淆的であり、土地を離れて移

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