タグ

関連タグで絞り込む (0)

  • 関連タグはありません

タグの絞り込みを解除

社会と言語に関するislecapeのブックマーク (5)

  • かんじを つかわないと ひょうげん できない こと - やねごんの にっき

    ひとつ まえの きじに いただいた id:tikani_nemuru_M さんの コメントへの おへんじです。おへんじが ちょっと ながく なったので、あらたに エントリを たてる かたちで、こちらに かきます。 ●tikani_nemuru_M さんの コメント やねごんの基的な立ち位置について異議をさしはさむつもりはない。 と、前置きしたうえで 話し言葉と書き言葉は異なると考える。 例えば、数式は一種の記述言語であといえる。 そして、僕は数式という記述言語を上手に読み書きすることはできない。数式という記述言語を十全に読み書きできない人は、漢字が苦手な人よりはるかに多いだろう。しかし、ある種の記述をするためには、数式という記述言語は必要不可欠であることはわかる。数式という記述言語を扱えるようになるためのハードルは高いが、それゆえに数式という記述言語は有用であるともいえるわけだ。 伝える

    かんじを つかわないと ひょうげん できない こと - やねごんの にっき
  • 日本語表記と共存について(結論だけでなく、プロセスも たいせつ)。 - hituziのブログじゃがー

    かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか? - やねごんの にっき やねごんさんの問題提起を うけて。わたしなりに。 『月刊ノーマライゼーション』という雑誌がある。いちど、翻訳を のせたことがある。ウェブに公開されている。 文学にみる障害者像-映画化された『マラソン』 わたしの卒業論文 「現代日における「識字」のイデオロギーと漢字不可欠論」で、『月刊ノーマライゼーション』に 掲載された いくつかの文章を とりあげた。つぎのようなことだ。 『月刊ノーマライゼーション』2000年12月号に、「外国人」(日語学習者)による日語の文章が のっている(63-67ページ)。 韓国人の文章:漢字まじり。わかちがき。 マレーシア人の文章:漢字まじり。べたがき(わかちがきでない)。 モンゴル人/タイ人の文章:ひらがな、カタカナ表記(漢字なし)。わかちがき。 わたしは「ノーマライゼ

    日本語表記と共存について(結論だけでなく、プロセスも たいせつ)。 - hituziのブログじゃがー
  • かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか? - やねごんの にっき

    ひとつ まえの きじを ひじょうに おおくの かたに よんで いただいたようです。まったく よそう して いなかった ことなので、おどろいて おります。とても ありがたい ことです。 ●じかん げんしゅは ちこくする ひとに めいわくが かかるので やめて ください この きじに たくさんの かたが ブックマークを して くださり、また コメントを かいて くださりました。きじの ないように ついての さまざまな コメントも いただいたのですが、わたしが かんじを ほとんど つかわずに ぶんしょうを かいて いる ことに ついての コメントも たくさん ありました。 ぜんかいの きじからは だいぶ あいだが あいて しまったのですが、きょうは、そうした かながきに ついての コメントを よんで かんがえた ことを かいて みたいと おもいます。 ●きじの ブックマーク・ページ(1) ●きじ

    かながきの ぶんしょうは なぜ 「よみにくい」と いわれるのか? - やねごんの にっき
    islecape
    islecape 2009/11/28
    基本的に「読みにくい」とわざわざ言うのは「ひらがな文は読みたくない」という政治的表明。ニュアンスとしては「読む気がしない」のほうが近いはず。そういう人たちがどこまで自覚的なのかどうかはわかんないけど。
  • 日本人の朝鮮語、朝鮮人の日本語――むすびつける ことば、きりはなす ことば - mujige’s diary

    ちょうせんご(朝鮮語)の ほんやくを していると、ときどき ざいにち・ちょうせんじんから 「いいもの よませて くれて ありがとう」などと おれいの ことばを もらうときが ある。 そんなとき、うれしい きもちが ないではないけど、その いっぽうで こころぐるしいような もうしわけないような きもちにも なる。 なぜ ざいにち・ちょうせんじんが ちょうせんごの ほんを そのまま よめないのか。そして、にほんじんによって にほんごに ほんやくされた ものを よまなきゃ いけないのか。 それは にほんじんが ざいにち・ちょうせんじんから ちょうせんごを うばって にほんごを おしつけて いるからだ。 * わたしが ちょうせんごを まなぶことが できたのは、ちょうせんじんが ちのにじむ どりょくを し、あるときは もじどおり いのちがけで、にほん・ていこくしゅぎ(日帝国主義)から ちょうせんご

    日本人の朝鮮語、朝鮮人の日本語――むすびつける ことば、きりはなす ことば - mujige’s diary
  • 「わたしには言葉しかない」場合——告発と検閲 - C plus M

    言葉を持つこと、すなわちある程度の語彙と論理性に関する能力の訓練が可能な機会に恵まれた人生を一定期間過ごしたことがあるということは、やっぱり権力性を帯びないわけがない。そんなことは当たり前で、だからもちろん言葉を持つことというのは、特にその言葉が歴史的・社会的に権力を持っている/持って来たような文化のものであるとき、暴力的になり得るし、その取り扱いには注意しなければならない。しかもそれは西洋中心的な学問の言語であったり、あるいは啓蒙主義的で道徳的な語彙や定義であったり、色んな形態を取る。言語は文化と密接に結びついているから、例えばある種類の「人種」を名指す言葉があったとき、それはその語彙を用いる文化における「人種」という概念そのものの見方を反映しているし*1、同時にその語彙によってその概念自体が再生産されたり強化されているだろう。ある時代になって初めてある特権的な領域(例:医学、法学)から

  • 1