岐阜県岐阜市生まれ。啓蒙的な著作を多く著し、丸山眞男、大塚久雄とともに戦後民主主義、啓蒙主義を代表する論者。東京帝国大学教授、スタンフォード大学客員教授等を歴任。東京大学教授退官後は弁護士として活動した。 娘のゆりの夫(娘婿)は、外務事務次官や宮内庁式部官長を歴任し、侍従長を務めた川島裕。 学生時代ルドルフ・フォン・イェーリングの『法における目的』を読んだことがきっかけで法社会学に興味をもつが、当初は民法の研究者として身を立てようとしていた。ところが、判例民事法研究会の席上において、無権限者が他人の田に種苗を植えた場合の法律問題について報告したところ、末弘厳太郎に「おまえのは概念法学だ。こんな報告をするくらいなら民法の研究などやめてしまえ。」と叱責されたことがきっかけで、法解釈学そのものに対する根本的な疑問をもつようになる。この疑問が後に『科学としての法律学』に結実されることになる[1]。